狛が桔梗の家に戻ってきたのは、あれから翌日のことだった。期せずして槐と出会い、僅かに話をしたが、やはり彼の考えを理解する事は出来そうにない。ただ、その目的の一端を知る事は出来たのは収穫と言えるだろう。日本を呪術国家として生まれ変わらせる…そんな途方もなく、現実味も無い話を本当に望んでいるのだとしたら、それはまさに狂気の沙汰だ。そして、槐がその狂気を宿している事は、相対してハッキリと感じることが出来た。つまり、槐は本気である。
「それが、槐の奴の目的だってのか?滅茶苦茶過ぎるぜ、あの野郎…」
先に大雪山から戻っていた猫田に事情を話すと、猫田は呆気に取られたようにそう言った。当初口にしていた人間と妖怪の共生の方が、まだ現実味があると猫田は思う。実際に、狛のようなタイプの人間もいるわけだし、まるっきり不可能ではないだろう。しかし、日本という国丸々一つを挙げて呪術国家にしてしまおうとは余りにも度が過ぎた考えだ。とてもではないが、そんな事が出来るとは思えない。
呪術とは、一言で言えば
神仏相手にですら、信じたり頼ったりするものが減りつつあるこの世界で、それを受け入れる心が人間にあるのかと言えば、恐らく無いだろう。物質文明を極めつつある現代人に、超常のものを理解して受け入れさせるには、それこそ人生を引っくり返すような強い体験や経験が必要だ。それを国中の人間に与えようなど出来るはずがないと猫田は思う。
狛もそこには概ね同意なのだが、あの槐がそんな分りきった事をわざわざするだろうか?もしかすると、それが可能だと目算する何かがあるのではないか?と狛は考えていた。
「
別れ際に槐の残した言葉、龍点穴で待つというそれは、次に彼らが動く大きなヒントである。とはいえ、わざとこれ見よがしな情報を伝えておいて注意を向けさせ、他に本命を持っている可能性も十分にある。そればかりにかかりきりになってしまうのは少々危険だ。しかし、無視できる話でもないのは、実際に槐と顔を合わせた狛だからこそ感じるものがある。槐はその龍点穴というものに何か途轍もないことをしようとしているのだと。
狛の話を聞いた後、猫田はしばらく黙って、何かを思いついたようだった。
「仕方ねぇ、そういうものに詳しそうな奴に聞くか」
「え?そんなヒトがいるの?」
猫田は頬を搔いて、なにやら煮え切らない返事をしている。狛は猫田の交友関係を全て知っているわけではないが、猫田がこういう態度をとる時はやや癖のある相手の場合が多い。狛は少し緊張しながら、猫田に急かされるまま、出かけることになった。
「さて、アイツが知ってりゃいいんだが……」
「ここって…くりぃちゃぁじゃない。土敷さんに聞きに来たの?」
そうして辿り着いたのは、勝手知ったるくりぃちゃぁである。狛は拍子抜けして猫田に問いかけたが、猫田は何やら渋い顔をしたきりで返事をしようとしない。どうも様子がおかしいと思いつつ、狛は店内に入る事にした。
「いらっしゃいませ……って、なんだ猫田か。ああ、狛君も一緒か、良く来たね。今日はどうしたんだい?」
「ちょいと調べ物があってよ。あの部屋空いてるか?」
「調べ物って、アレの事かい?いいけど、答えてくれるとは限らないよ」
「解ってるさ、ダメ元ってやつだ」
何やら二人だけで解り合っているが、狛には何のことだかさっぱり解らない。狛が口を挟む余地もなく猫田と土敷が店の奥に行こうとするので、狛は慌てて後を追った。
店の奥へと続く従業員用のドアをくぐり、向かった先には一つの部屋がある。他のロッカールームや、事務所とは趣の異なる扉がその部屋に入る唯一の出入り口のようだ。たまに店の手伝いをすることもある狛だが、ここには近づいた事も無い。特に禁じられているわけでもないのに何故か敬遠してしまうからだ。
扉には普段、鍵がかかっているようで、土敷は懐からおもむろに鍵を取り出してゆっくりと鍵を開けた。
「ねぇ、土敷さん。ここ、何の部屋なの?そう言えば気にした事無かったけど…」
「ああ、狛君は初めてだったね。ここには一匹、妖怪を住まわせているんだ。基本的には無害で、何か悪さをするわけでもない。普段はただただ眠っているだけの大人しい奴さ。ただその…」
なにやら口ごもった様子の土敷に、狛はまた混乱している。どうも猫田と言い土敷といい、ここに居る妖怪に対していい感情を持っていないようだ。雰囲気的には、問題児を前にした先生のような、そんな感覚である。一体どんな妖怪がここにいると言うのかと、狛は息を呑んで緊張していた。
ガチャリと扉を開けると、そこは真っ暗な暗闇そのものであった。久し振りに開かれたであろう扉の向こうから、ひんやりと湿った空気が流れてくる。まず最初に猫田が部屋に足を踏み入れると、じゃりっと小石を踏みしめる音がした。室内のはずだというのに、砂利が撒いてあるらしい。
そして、よく通る声で猫田は声を上げた。
「おい、起きてるか?聞きたい事がある。起きてるなら返事をしろ」
しんとした室内に響く猫田の声に、答える者は誰もいない。そもそも、この部屋の中には特に何かがいるようには思えなかった。気配も妖気もなく、がらんとした室内の空気だ。
「……やっぱ寝てるか?」
「いや、この感じは……」
猫田が土敷に耳打ちすると、土敷は何かを感じ取ったようだ。そして、静かに床に手を触れると、小さく何かを呟いている。すると突然、足元の床が隆起して波打つように上下に動き出していた。土敷は土を操る事が出来るが、建物の中でもそれは可能らしい。段々と激しくなる動きに耐えかねたのか、何者かが叫んだ。
「あ、わわわ!や、止めて下さい~~~~!お話!お話しますからぁ~~~!!あああああ、気持ち悪いぃぃ…」
「え、なに?誰?」
「起きてやがるじゃねーか。シカトするとはいい度胸だな、テメェ…!」
「ああああ、ご、ごめんなさいぃー!し、知らない人がいたから、怖くってェ!!」
怯えた声の主は、少女のように舌っ足らずだが、どう聞いても男性の声である。なんだかアンバランスな感じがして、狛は一気に緊張感がどこかへ消えていった。
「あ、私がいたせい…?ご、ごめんね?私もよく解らずに連れて来られたから……」
「どうせ狛もここの仲間なんだ。一度でいいから顔を合わせて、見知っておいた方がいいだろ。まぁ、起きてるか寝てるか解んなかったってのもあるが…」
狛の非難するような目つきを受けて、猫田は冷や汗を搔き目を逸らしながら言い訳をしている。その意味では土敷も説明をしなかったので共犯なはずだが、狛の憤りは猫田だけに向いているようだ。
「とりあえず、僕からも伝えておくよ。彼女は犬神狛君、今の猫田の飼い主で僕らの仲間だ。悪い子じゃないから、覚えておいてくれ」
土敷がそう言うと、声の主は沈黙してしまった。聞いているのか聞いていないのか、暗くて姿が見えないのでよく解らない。せめて、灯りだけでも点けられないものだろうか。
「ねぇ、電気点けない?暗いから、そのヒトの姿も見えないし……」
「ヒッ!?や、止めてくださいぃぃぃ!仲良くしますからぁぁぁ!明るくしないでぇぇ~」
「ええ…?ど、どういうヒトなの…?」
懇願する声の主に、流石の狛も若干引いている。猫田と土敷は二人して溜め息を吐いた。
「…紹介するよ、狛君。ここにいるのは石の妖怪で
そう言って、土敷は暗がりに手を伸ばしてみせた。だが、相変わらず真っ暗闇で、何も見る事は出来そうにない。狛は何も見えない暗闇を見て呆気に取られるのだった。