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第240話 永遠の形

 肌を刺すような冷気が猫田達を包んでいる。その冷えた空気の感覚が懐かしく、猫田は思わず笑みをこぼしていた。この冷気を感じれば、そこに立っている氷雨とよく似た顔の雪女が、彼女の妹だと言う事が聞かなくても理解できるほどに彼女は氷雨にそっくりだった。


「よう、お前が氷雨の妹か?」


 猫田がそう言うと、女はピクリと眉を動かし、猫田をじっと見据えていた。


「何故、姉の名を?……それにあなたから、姉の匂いがしますね。どういうことかお聞かせ願いましょうか?」


 見るからに女の警戒度が上がったようで、猫田を包む冷気が一段と強さを増した。その証拠に、猫田の周りの草には霜が降り始め、パキパキと小さく何かが凍る音が聞こえてきている。猫田はその様子を見て、まずはホッと胸を撫で下ろしていた。氷雨の口振りからして、もしかすると彼女は雪女の里を放逐されたのかもしれないと思っていたからだ。もし、何らかの事情で氷雨が里を追い出されていたのなら、彼女の遺した結晶を持ち込んでも、いい顔をされない可能性がある。僅かに遺った氷雨の欠片を、快く思わない者達の手に渡したくはないと、猫田は柄にもなく思っていたらしい。


「…悪いな、そんなに構えねぇでくれや。俺は猫田吉光ってぇ猫又だ。アイツから聞いてねーか?」


「猫田……あなたが?なるほど、その名は姉からよく聞き及んでおりました。いいでしょう、詳しい話はこちらで…どうぞ」


 女がそう言うと、周囲の景色が一変した。まるで冬のように雪が積もり、しんとした佇まいに変わっている。人狼の里と同じように、雪女達は自分達の里を結界で覆って、そこを常時冬場にしているらしい。熱に弱い彼女達らしい里の作り方である。そうして、猫田を先導するように女は身を翻して歩き出していた。猫田が感心しながら女の後に続くと、その更に後ろを三人の雪女達が続いて歩いてくる。こちらはまだ警戒を緩めていないようだ。猫田は軽く苦笑しながら、誘われるままに進んでいった。


 そうして里の中を進んで案内されたのは、里の一番奥にある、大きな日本家屋であった。


 屋敷の中は、火が焚かれていない為か、なんとも寒々しい空気に満ちている。ただ、外から氷や雪が光を反射しているからか、さほど暗さは感じなかった。もっとも、猫田は妖怪だし、そもそも猫は暗がりでもよく見える目を持っているので、仮に暗くとも特に問題はないのだが。

 大きな和室に連れて来られた猫田は、囲炉裏を挟んで、氷雨によく似た女と向かい合って座った。その脇には、雪女三人娘が敵意を隠そうともせずに陣取って猫田を睨みつけている。しかし、猫田はそれを全く気にせず、むしろ一度も火を点けられていない囲炉裏が何のためにあるのかを疑問に思っているようだった。


「それでは、猫田殿。先程は名乗りもせず大変失礼致しました。私の名は氷華ひょうかと申します。御存じの通り氷雨の妹で、雪女達をまとめる族長を任されてございます。……それと、そこにいるのは氷魚ひお氷木ひぎ、そして氷見ひみです。どうかお見知り置きを」


「ああ、俺は猫田吉光…ってまぁ、さっき名乗ったが、猫田だ。呼び方は何でもいい」


 猫田はそう言って頭を下げた。それに倣うように、三人娘達も渋々頭を下げている。どうやら、剣を持っていたのが氷魚で、手斧を持っていたのが氷木、そして氷弾で攻撃してきたのが氷見らしい。その後上げた顔を見ると氷魚と氷木はバツが悪そうにしているが、氷見はどことなく眠そうな、ぼんやりとした表情をしていた。こうしてみると、やはり彼女達は個性的だ。あまり個を持たないのが一般的な雪女だと聞いていたので、猫田には彼女達の態度が不思議であった。


 そんな猫田の疑問など気付くはずもなく、氷華は猫田を見つめて口を開いた。


「早速ですが、猫田殿。今日はどうしてこちらに?私に渡したいものがあると仰っていましたが……」


「ああ、聞こえてたか。…そうだ、これを渡したくて俺はここへ来たんだ。受け取ってくれ」


 猫田はそう言って、狛から貰ったバングルの内側にしまっていた一粒の氷の結晶を取り出し、氷華の前に差し出した。亡くなった氷雨の身体で唯一残ったそれは、ビー玉程の大きさしかないが、美しい輝きと冷たさを保ったままである。それを目にした瞬間、氷華は何かを悟ったように目を伏せ、俯いた。


「それは……そうですか、姉は亡くなったのですね」


「ああ、火鼠にやられてな。急に俺の所に来たと思ったら、元々もう残り少ない命だったなんてよ。……救えなかった、すまねぇ」


 悔恨の情を滲ませながら、猫田はまた頭を下げる。火鼠と戦わなくとも、焼け落ちた瓦礫に潰されなくても、氷雨に残された命は僅かであった。それは猫田も理解しているが、それでももっと違う形で送ってやる事が出来たと、猫田は今も思っているようだ。氷華は猫田の手ごとその結晶を握り、目を瞑って静かに祈るような仕草で天を仰いだ。どのくらいそうしていたのだろう、氷華の冷たい手と、氷雨の結晶のせいか、猫田の手は冷え切ってしまっている。それでも猫田はその手を引く事はしない。むしろ、その身を切るような寒さこそが禊であるかのように黙って耐えていた。そんな中、氷華は目を開けて、優しい声色で言葉を紡ぐ。


「なるほど…よく解りました。猫田殿、ありがとうございます。きっと姉は幸せな最期であったと言ってもいいでしょう」


「…解るのか?」


「ええ、あなたの手の中にあるそれは、姉そのものですから。記憶も感情も、全てが遺されておりました。私達雪女ならば、それを読み解くことができます。あなたはきっと、それをこの大雪山の地に埋めようと考えてくれたのでしょう?」


「あ、ああ……雪女に墓があるのか解らねーが、せめて生まれ育った土地で眠らせてやるべきじゃねぇかと思ってよ」


「あなたは優しい方ですね。本当に、妖怪とは思えないほどに。…だからこそ、姉はあなたに惹かれたのでしょう。しかし、残念ながら私達に墓はありません。雪女の死体は本来、何も残りませんので。あなたの持っているその結晶は、特別なものなのですよ」


 そう言うと、氷華は静かに立ち上がって縁側に立った。彼女はその後ろ姿も、氷雨にそっくりである。氷魚達とは違って、着物姿でいることも氷雨によく似た印象をもつ理由かもしれない。


「姉から聞いていたでしょうが、姉はその力を使って、私達とこの里をずっと守って下さいました。命尽きる直前まで、ずっとです。本来、雪女の族長の役目は里を維持すること…ご覧の通り、冬を過ぎても里が雪で覆われているのは、族長がその力で低温を保っているからです。暑さは私達の命に関わりますからね。その族長を私が継ぐことになってから、姉は一層、里を守る事に力を注いでいたと思います。近頃は、他の妖怪達も山で暴れるようになっていて……私達が未熟なばかりに、姉には大変な負担をかけてしまいました」


 氷華は言葉の端々に悔しさを滲ませながら、氷雨の過去を話してくれた。概ね、氷雨本人から聞いていたことと同じであり、彼女がどれだけ仲間達の為に骨を折ったのかがよく解る。この里を結界で覆い隠し、その中を低温で保つというのはかなりの妖力が必要であるはずだ。その為に、族長となる雪女は何十年もの時間をかけて雪の精の力を溜め、生み出されるのである。

 氷雨は当初、里を維持しながら、外敵を排除することに注力していたのだろう。その無理が祟って、寿命を削ることになってしまったのだ。


「正直、姉が山を降りると聞いた時、彼女はもう戻らないのだと覚悟を決めておりました。死ねば何一つ残らず、いつかは溶けて消え果てる、それが雪そのものの変化である、私達雪女の運命さだめ。……それがまさかもう一度会えるとは…猫田殿、こんなに嬉しい事はありません。全て、あなたのおかげです」


「ちょ、ちょっと待て。じゃあ、この氷の結晶はなんなんだ?何も残らないはずなんだろ?どうして氷雨は…」


 猫田が尋ねると、氷華はふっと笑って猫田の手の中にある結晶を指差し言った。


「それが残るには三つの条件があるのです。一つは、雪女が恋をしていること。二つめは、その相手に自分が雪女である事を知らせること。そして最後の三つめは……恋をした雪女が、惚れた男の腕の中で息絶えること。何故ならそれは、死んだ雪女の恋心が形になったものだから。惚れた相手に全てを曝け出し、全てを懸けて愛した生きた証なのです」


 猫田は、言葉を失った。雪女のことを伝える古い民話には、人間の男に嫁いだ雪女が正体を打ち明けるというものがある。猫田には何故そんな事をするのかが疑問であったが、つまり、そういうことなのだ。自分が人を愛した証を残す為に、雪女は正体を晒すのだ。結果として受け入れられず愛を失うこととなっても…いつか消えてしまう彼女達は告げずにはいられないのである。

 人を愛するが故に妖怪として恐れられ、忌み嫌われる雪女にとって、自らの正体を知っても尚受け入れられる相手を得るのは、至上の喜びである。しかし、それはあまりに残酷な愛の形だ。男は雪女を、自分の事を愛してくれた女の最期を看取らなければならないのだから。むしろ、氷雨はそれを知っていたから猫田に自分の最期を見せたくなかったのかもしれない。


「…猫田殿、その結晶は、あなたがお持ち下さい。姉はそれを一番望んでいると思います。きっと、それはあなたの力になってくれるでしょう」


「……ああ、解った。ありがとよ、教えてくれて」


 猫田は結晶を握り締め、一粒の涙を溢した。その時、外から冷たい風が吹き込んで、まるで猫田を抱き締めるかのように猫田の身体を包み込んでいた。

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