「ん、ぁ…ここ、は……?」
狛が目を覚ましたのは、薄暗く冷たい空間だった。暗いのでよく解らないが、肌で感じられる空気はひんやりとしているだけでなく、どこか重厚感…いや、圧迫感を覚える空間だ。近くに人の気配は感じられないが、
「何か…不思議な感じ…」
どこかぼんやりとした顔の狛は、自分が抗い難いほどの眠気に襲われている事に、その時ようやく気付くことができた。気付いた途端、全身が鉛のように重くなって、座っているのも厳しいくらいに起きていられなくなってくる。狛がそのまま倒れ込んで目を瞑ってしまうと、狛の身体からイツが飛び出してきて、勢いよく尻尾で狛の頬を叩いた。
「…っ!?ちょ、え…あうっ!ま、待っ!?痛っ、痛いって!イツ、止め…ぶふっ!」
一発では効果が薄いと判断したせいか、イツは容赦なく何度も狛の頬を打っている。次第に狛の意識ははっきりしてきたのだが、イツが止めてくれないので、しばらく打たれるがままになってしまった。
「い、
頬を腫らせて嘆く狛の肩に乗って、イツはバツが悪そうに俯いている。イツは眠ったら危ないと教えてくれたかったのだろうが、もう少し早く止めて欲しかった。しかし、しっかり目を覚ます事が出来たのだから、怪我の功名だろう。ヒリヒリと痛む頬をさすりつつ、改めて周囲を見回してみる。すると、先程は意識が朦朧としていて気付かなかったが、この空間はそれなりに広く大きい。狛が立ち上がってもまだ、高さにかなり余裕があった。どうやらここは地下のようだ、そこでようやく狛は自分がどこにいるのかを理解する事ができた。
「ここ、霊石鉱のある
狛はそう呟いて、ゆっくりと記憶を辿ってみる。さっきまで狛はあの侍風の男と戦っていて、何とか彼を倒す事ができた。だがその後、突然この採掘孔から霧が噴き出してきて、霧に巻かれた狛はそのまま意識を失ってしまったのだ。
「そうだ、思い出した。あのヒトも噴き出した霧も…ううん、あれは霧なんかじゃなかった。あれは……」
狛が何かに気付いた時、待ち構えていたかのように空間に明かりが灯る、光っているのは一つの丸い球だった。台座のような場所に置かれたそれは人の頭ほどの大きさをしていて、輝く光は直視できる程度の眩しさだ。すると、その光を受けて壁や床、天井に至るまであらゆる場所が淡い光を放ち始めた。よく見ると、足元にはたくさんの、人間の形をした結晶が置かれている。
「これが、核。……さっきの霧は、本当は細かく砕けた霊石の欠片で、あの侍みたいなヒトも…もしかして、ここに倒れてるのは」
狛が気付いたもの、それは自分が戦っていた相手の正体である。恐らく何らかの事情で、ここに意思を持つ霊石の核が生まれたのだ。そんな事が起こり得るのかは解らないが、霊石の元となっているモノが魂の残滓であるという説が正しいのならば可能性はある。そしてこの霊石の核は、自分の身を守る為なのか強い力を持つ人間をここに連れ込み、眠らせて肉体ごと取り込んだのだ。一番傍で倒れている人型の結晶をよく見ると、それはまさについさっき戦っていた、あの侍風の男である。結晶化していても解るほどに整った顔は、とても安らかな表情をしており、まるでただ眠っているかのようだ。
「ここ…深すぎる。きっとずいぶん昔に掘り当てられて、危ないからこの核を封じていたんだね。それを最近、もう一度掘り起こしちゃったんだ」
天井をよく見ると、人間一人がギリギリ通れるほどの穴が開いていた。その上が、本来の採掘現場なのだろう。檜扇家の誰かなのか、或いは当時の陰陽師などの術者が、この霊石の核の存在に気付いて危険と判断し、ここを埋めてしまったのだろう。それと知らず再び掘り起こしてしまったのは、何も知らなかったのか、何らかの事情で警告の口伝が残っていなかったのか、もしくは権章が己の欲に負け、敢えて掘り当てたかのどれかだろう。
「権章さんは、そんなに悪い人には見えなかったし…偶然、かな」
「ふん、お人好しは相変わらずか。腕は上がっても、お前は所詮その程度だな」
「!?」
狛の独り言に、誰かが答えた。さっきまで誰もいなかったはずのそこには、狛がよく知る人間の気配がある。そして、その声の主は忘れもしない、あの男だ。
「え、槐叔父さん…っ!」
「久し振りだな、狛。様子を見に来てみれば、よくやっているようじゃないか。しかし、正月以来か……ふっ、そんな目で俺を見られるようになったとは。俺に会う度恐れ
じゃりじゃりと砕けた霊石の破片を踏みながら現れた槐は、自らを睨む狛の目が嬉しいのか、笑いを嚙み殺している。ここで会ったが百年目とは、まさにこの事だ。狛はすぐに身構え、戦う姿勢をとった。
「槐叔父さん…私はあなたを許さない!」
「そうだ、戦いに生きるのならば己の憎しみを上手に扱え。狛、お前は人を憎む事を知らな過ぎた。そういう所も、お前は母親にそっくりだな」
「お母さん…?な、なにを」
槐の口から母という言葉が出て、狛は激しく狼狽えた。槐と狛達の父、真は兄弟である。母である天は真と同い年で、二人の幼馴染として共に育った間柄であった。槐は、自分の知らない母を知っている。それを突き付けられた形になって、狛は動揺が隠せない。
そんな狛の様子を見て、槐は見下すような視線を投げかけた。
「ふん、母と聞いた途端にそれか。お前がいかに甘ったれた小娘かよく解るな。お前の母も、敵を憎むということを知らない女だった。だから、兄貴を憎み恨む妖怪の呪いに対処できず、お前を産みあっけなく死んでいったのだ。もっと狡猾に立ち回れていれば、いくらでも助かる方法はあったものを…」
その言葉には、僅かな悔恨の情が感じられた。狛は息を呑み、ずっと問い質したかった疑問を口にする。
「槐叔父さん。どうしてあんなことをしたの?皆を傷つけようとしたり、ハル爺を死なせたり…妖怪を狂わせようとしてるのも、叔父さんなんでしょ?どうして…!」
「その答えを聞いてお前は納得できるのか?まぁいい。お前には話しておいてやろう、俺はこれから、この国を大きく変える。日本を一大呪術国家とし、それを足掛かりに世界の全てを俺達が手にするのだ」
「そんな!呪術国家だなんて…そんな事の為に!?」
「そんな事だと?世の中の多くのバカ共と同様に、お前も理解出来んようだな。世間の連中は、自分の暮らす世界がどれだけ危険と隣り合わせであるかをまるで理解していない。自分達の知る常識という狭い範囲だけで世界を知った気になって、その安定を守る者達のことなど解ろうともせん。そんな連中に解らせてやる必要があるのさ。この世界は、恐ろしいものが背中合わせで存在するのだとな!」
そう語る槐の瞳には、昏い炎が赤々と燃え盛っているようだった。それはまさしく狂気だ、明らかに槐の精神は常軌を逸している。
「狂華種を使って妖怪共を狂わせたのは、ほんの序の口だ。これから俺達はこの国に未曽有の混乱を引き起こす。そうなれば、平和ボケして現実を知らん一般人共も少しは理解するだろう。俺達退魔士の力こそが、世界の安定を守ってきたのだとな!」
「な、何をする気なの…?」
「クク、すぐに解るさ。それと解る事態がそう時を置かずして起こるはずだ。だが、その前に…一応聞いておく。狛、俺の元に来ないか?」
「え?」
「お前には色々と邪魔をされたが、お前の力そのものは評価している。人狼化というその力は、俺にも無い稀有なものだ。それにお前は妖怪共と仲が良いだろう。その才能を殺してしまうのは少々惜しいのでな。俺の元に来るならば、命は救ってやろう。どうだ?」
槐は右手を差し出し、狛にその手を取るように笑ってみせた。だが、狂気を纏ったその笑みは、とても信じられるものではない。それに何より、槐の行動によって犠牲になったハル爺や、狂華種によって狂わされて暴れた妖怪達の事を考えると、その手を取ろうとは思えない。
「槐叔父さんが私を甘いと思うのは、その通りだって自分でも解るよ。憎いって気持ちは今でもそんなに強く思えないから。きっと、お母さんだってそうだったんだと思う。でもね…私もお母さんも、誰かが憎いから戦うんじゃない、守りたいものの為に戦うんだ…!だから、私は叔父さんのその手を取る事なんてできないよ!」
「ふん、吠えることだけは一丁前だな。……いいだろう。ならば、その守りたいものとやらを守りきってみせるがいい。…
槐はそう言うと、光を放つ霊石の核を手に取って、何事かを囁いた。すると、その身体が次第に薄くなって消えていく。京介のものとは違うが、転移術だ。
「逃がさないっ!」
「
狛はすぐさま槐に飛び掛かったが、その拳が届く前に、槐の姿は消えていた。龍点穴という謎の言葉を残して消えた槐の笑みは、狛の脳裏にしっかりと刻み込まれたようだった。槐の計画、その次なる一手…それを狛が知る事になるのはこのすぐ後であった。