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第237話 剣豪の刃

 向かい合う二人を包む霧が、どんどん深く、濃くなっている。傍にあったはずの松の木さえぼやけていて、見えているのはお互いの姿だけだ。後はゆっくりと流れる風と、得体の知れない気配がいくつか霧の向こうに隠れているようだった。


「……イツ、行くよ」


 狛がそう呟くと、いつにも増して元気なイツが狛の影から飛び出して、狛の身体に飛び込んだ。狗神走狗による人狼化だが、ザッハークの時に体得した完全な同化ではない。あの時使った完全な同化は、狛の力をこれまで以上に一気に高めてくれるものの、その反動も大きかった。ザッハーク戦の後、自宅に戻った狛は数日間霊力が回復せず、消耗したままだったのだ。イツとの完全な同化とは、本来人間である狛の肉体を強制的に人狼へと作り替えた状態である。どうやら、まだ今の未成熟な狛の肉体ではそれに耐えうることは難しいらしい。幸い命に別状はなかったが、一度使えば新月の時以上に消耗してしまう。結局、事情を知った猫田からは、余程のことが無い限り使うなと、固く禁じられてしまったのだった。

 それもあって今回は通常の人狼化だが、九十九つづらは中庭に出る前から着込んでいたので、問題はない。だが、いつもよりも強い力が湧いているような感覚がして、狛は僅かな違和感を覚えている。


「っ!」


 ジャリッと、庭に敷き詰められた玉砂利を踏み込む音が聞こえて、狛は咄嗟に後ろへ飛び避けた。それとほぼ同時に男の持つ長刀の切っ先が狛の目の前を走り、前髪が少しだけ切られている。刃が空を切る音が若干遅れて聞こえた気がして、狛の頬を冷や汗が一筋流れていった。


「ちょっと、洒落になってないかも…!」


 途轍もない速さと鋭さを持つ男の剣捌きに、狛は舌を巻いた。この速さは想像以上である。狛がイツと完全な同化をすれば速度を上回れるかもしれないが、それでも分があるとは言えないほどだ。ここまで速さで狛と同等以上に動く相手は初めてだが、何よりも恐ろしいのはそのスピードではない…間合いである。


 一般的に長刀というと、薙刀の事を指すのだが、男が持っているのは紛れもない日本刀である。ただし明らかに普通の刀よりも刀身が長く、通常の日本刀の倍近い長さがあるようだ。当然、その長さの分だけ間合いが広い。徒手空拳、もしくは九十九つづらの傘で戦う狛にとって、これほど広く遠い間合いで、しかも素早い攻撃となればかなり厄介な相手と言えた。


 男は狛の動きを視て、よく躱したと言いたげにまたニヤリと不敵な笑みを浮かべている。あの刀を掻い潜って接近しなければ、狛に勝ち目はない。この状況で、狛がイツとの完全同化を使わないのは、目の前の男の他にも複数の謎の気配があるからだ。この男を倒してもまだ終わりではない以上、消耗の激しい技を使うわけにはいかなかった。

 狛は意識を集中させ、霊力を十分に高めて練り上げた後、絞り切った矢のような速さで駆けだした。風を切って走るそのスピードは、男が先程見せた一閃と同等以上の速度である。しかし、男はその動きを目の当たりにしても尚、笑みを絶やさず次の一手を繰り出していた。


「……足元!くっ!?」


 男は走る狛の足に狙いをすまし、再び横薙ぎに斬撃を放つ。狛はそれに見事な反応を見せ、まさに間一髪でジャンプして、それを躱した、だが。


「えっ!?」


 男の刀は止まらず、逆に加速したように見えた。そして、振り切ったはずの刀を手の中で返し、今度は斜め上方向に切り上げてきたのだ。ちょうどくの字を逆にしたような剣筋である。この動きで完全に虚を突かれた狛だったが、それでも空中でなんとか身体を逸らして直撃を回避できた。狛の動きは、とんでもない超反応だったが、さすがに完璧な回避とは言えず、狛の脇腹から胸にかけて決して浅くない刀傷が刻み込まれてしまった。


「痛っっ!このぉっ!」


 狛は崩れた体勢からそのまま飛び蹴りに移行し、それが男の肩に直撃した。男は仰け反って数歩後ろへ下がったが、致命傷には程遠い様子だ。狛はその蹴りを反転に利用して後方へ飛び、二人は距離を取った状態で、再び睨み合う形になった。


いつつ…何今の……あんな動きができるなんて、危なかった…」


 狛が驚くのも無理はない。小手先の変化技というのは少なくないが、下段から中段や上段へ変化することはほとんどない。それは自然の摂理として、動作に無理があるからだ。水の流れが下から上へ遡る事がないように、肉体の構造上、それは無理のある動きであるはずなのだ。男はそれを一瞬たりとも止まらずに何の苦も無くやってのけた。恐ろしい腕力と反応速度である。


、だっけ?あれがそうなのかな、信じられない技だけど…」


 狛は痛みを堪えながら、体内の霊力を回復に回して、出血だけでも抑え込んでいた。余りにも速く鋭い一撃だった、あと一歩前に踏み込み飛んでいたら、間違いなく狛の命は無かったはずだ。だが、勝機は見えた。狛の蹴りは男が刀を持つ右手の肩に当たったからだ。だらりと下がった右腕の様子から見て、もう先程のような鋭い技は使えないだろう。次は確実に速さも精度も落ちるはずである。


 狛の出血が止まり、追撃をかけようかと考えた頃、男は刀を鞘に納め、前傾して右足を一歩前に出す構えを取った。俗に言う居合の構えである。狛は息を呑み、一瞬戸惑った。居合は肩を壊していても万全に撃てる技というわけではないが、体捌きが少なくて済む技でもある。さらに言えば、鞘の中で刀を走らせることで加速させる事にも繋がる為、ある程度速度を補う事が可能だ。もっとも、動きの基点となる肩を痛めているのだから、そう上手くいくはずはない。しかし、それを選ぶからには何か理由があるはずだ。

 この男がここまでに見せた超人的な技と動きの数々は、並大抵のものではない。決して油断は出来ないが、あまり時間をかけて回復されても厄介だ。数十秒間の睨み合いの後、狛はもう一度気合を入れて、男に向かって走り出した。


「はあああああっ!!」


 回復に回していた全身の霊力を両足に集中させ、限界まで速度を上げる。居合を相手に速度で負けてしまえば、敗北は必至である。そもそも卓越した技術を極めた達人による居合は、速度に特化した技術と言っても過言ではないのだ。


「もう一度足を狙われても、このスピードなら…っ!」


 先程のツバメ返しは、この男が持つ最速の剣技だろう。あれが放たれれば完全に回避することは不可能だと狛は考えた。ならば、その技を繰り出される前に接近し、渾身の一撃を与えるのみ。その為に狛は自身の速さを最大限に高めて飛び込んだのだ。

 そして狛がその凄まじい速さで、男が持つ長刀の間合いに入った次の瞬間、男は狛の足……ではなく、胴を一薙ぎに振り抜いた。


 バキンッ!という金属音が響き、信じられないと言った表情で、男は動きを止めた。男の狙い通りにいけば狛の胴体を切り裂いていたはずの刀は、その刃が狛に届くより前に、狛の蹴りによって刀身を真っ二つに圧し折られていたからだ。


「やっぱりね…わざわざ同じパターンはしてこないって解ってたよ。私だって、そのくらいんだから…!」


 今度は狛が不敵に笑ってみせている。狛が両足に霊力を集中させたのは、早く走る為ともう一つ、男の刀を蹴り折るためであった。いくら速く動こうと考えても、達人の居合を上回る速度を出すのは難しい。ならば、あの刀を無力化すればいいのだ。事実、男の長刀は、その長さ故か非常に刀身が薄く出来ているようだった。もちろん紙のようにペラペラなわけではないが、一見すると柳刃包丁のような厚みしかない。あの長さで分厚い刀身にすると、重量が増えすぎて扱いきれなくなるのだろう。そこを狙って、狛は蹴り足に全ての力を集めていたのである。


「遅いっ!」


 驚愕し、動揺のあまり動きを止めていた男が動き出すよりも一手早く、狛は次の行動に出ていた。間合いは十分そして先程から両の足には十分すぎるほどの力が溜め込んである。狛は気迫と共にその足を踏み込んで、今度こそ渾身の飛び蹴りを男の腹に叩き込んだ。あまりの威力で、男は腹から蹴りで貫かれ、身体が真っ二つに折れ、霧散した。


「この悪霊の身体は…いや、違う……!これ、悪霊じゃない!これは……あっ!?」


 狛はその手応えから、悪霊だと思っていた男の身体が何で出来ていたのかを理解した。それと同時に、霊石の採掘孔さいくつこうから、大量の霧が吹きだしてくる。キラキラと輝きを放つ霧が狛の全身を覆い隠すと、やがて、中庭から霧が晴れた。その場からは狛の姿も、あの悪霊の姿も何も残されてはいないのだった。

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