「それで、その悪霊というのは、どういう?」
案内された和室はちょうど屋敷の一番奥にあり、廊下には中庭に出る為の
妖怪退治や悪霊払いというものは、事前の情報が必要不可欠である。もちろん、何の情報も無いパターンは往々にしてあるのだが、外部から依頼を受ける場合は少しでも話を聞いておきたい。相対するものが何なのかによって、準備するものも術も全く異なるからだ。これまで、そう言った部分を一手に引き受けていたのは、他ならぬ槐達、調査部だった。彼らのサポートは犬神家に退魔業にとって重要な役目を担っていたのだ。最も、これまでの狛は己の強い霊力を頼りに蹴散らしてきてしまったのだが、本来そういうわけにはいかないものなのである。
「それが……現れる悪霊というのはどうも、見る者によって姿形が異なるようでして…」
なるほど、と狛は心の中で深く頷いた。以前、紫鏡になってしまった雲外鏡と戦った時にもあったが、妖怪や悪霊のような怪異は、時として相手の心を見透かしてその弱点となるものを投影する事がある。事実、雲外鏡の場合は、狛の母、
狛はあの戦いを思い出し、静かに目を瞑って様々な人達を思い浮かべてみた。母と父、ハル爺や他の家族、そして、くりぃちゃぁの妖怪達に氷雨…もちろん猫田と拍も。一人ずつその姿をしっかりと想像して、敵がその姿を模した時に果たして戦えるだろうかと己に問う。一人前の退魔士ならば、戦えて当然だ。そうでなければ、狡猾で闇に生きる人外の者共と渡り合う事など出来ない。しかも、今回は猫田もいないのである。
少し前の狛ならば、敵が家族の姿をしていたら泣いて戦いを放棄してしまっていただろう。だが、今の狛の双肩には人狼の里で潜む家族への責任がある。当主代行という立場である以上、逃げ出すわけにはいかないと狛は覚悟を決めた。
「解りました、注意して対応します。…他に何か、気になった所は?」
「そう、ですな……強いて言うなら」
「はい」
「アレが現れる前は、見慣れたこの庭が全く別の場所のように感じるのです。まるで、恐ろしい獣のいる森に迷い込んでしまったような……」
そう言って、権章は身震いをして口を閉じた。よほどの恐怖を体感したのだろう。狛は視線を庭に向け、そこに現れるものを想像して息を呑むのだった。
「それでは、私はこれで…どうか、よろしくお願いします」
権章は狛に挨拶をして、足早にその場から去っていく。除霊の際、巻き込まれないよう現場に居ない方がいいと言ったのは狛の提案だ。権章もトラウマだったのか、狛の勧めを渡りに船として、二つ返事で自宅から出る事に頷いた。出現する悪霊がどういう存在なのかは不明だが、もし権章に敵の狙いが向けられたら危険である。ただの悪霊が相手ならば狛の敵ではないだろうが、油断は禁物だ。狛は念の為に離れるよう指示を出したのだった。
「霊石鉱のある地下の
狛は戦う準備を整えながら、ふと呟いた。悪霊に限らず妖怪や怪異と言った存在は、一定の条件を満たした場合にのみ遭遇するケースがある。それは時間帯であったり、満月や新月といった条件であったりと様々だが、地下の
それだけ聞くと、人間がそこに入るのを止めさせようとしている風に聞こえる。霊石の守護者とでも言うべきだろうか?だがそれなら、もっと早く、いや、もっと
「封印が解かれた、とか?でも、それなら口伝とか文献みたいなものが残っていそうだけど、権章さんは何も言ってなかったしなぁ」
狛が真っ先に思いついたのは、霊石を採掘する際に誤って封印を壊してしまったというケースだが、もしそれほど強い悪霊を封じていたのだとしたら、間違いなくその封印をした人間が注意するよう促したり警告を残したりするはずである。時代が古すぎて残っていない可能性ももちろんあるが、こう言った古い家では、その家独自の仕来りとして、禁忌は残りやすいものだ。多少形を変えて伝えられるとしても、全く思い当たるフシがないというのは考えにくい。
例えそれらが失われてしまっていたとしても、採掘の際にアクシデントがあったのなら、それはすぐに想像がつくはずだ。人間は特に、物事に対して理由や理屈を求める生き物である。その方がただ漠然と起きた事を受け入れるよりも、いくらか恐怖が薄れるからかもしれない。
しかし、権章は特に気になった事はないという。事態を解決したいと考えている人間なら、壊してはいけないものを壊してしまったなど、一番最初に思いつくだろうに、それを何も言っていなかったのなら本当に何もなかったのだろう。
狛はそうして考えた後、やはり実際に対峙してみることにした。相手が何であれ、まず向き合って見なければ始まらない。意外とすんなり片が付く可能性だって十分あるのだ。
「えっと、霊石を採りに行く……って、口に出しても意味ないか。意外と難しいなぁ…」
狛の目的は霊石を採掘することではなく、悪霊退治だ。だが、その為には、まず悪霊に出てきてもらわなけれなならない。結局、霊石を採りに行くつもりにならなければならないというのが、少しもどかしい感じがした。権章の説明通りなら、悪霊が出る時は庭の雰囲気が変わるという、しかし、靴を履いて中庭に出てみてもそれらしい変化は感じられない。狛は演技が下手だからなのか、悪霊は姿を見せようとはしなかった。
「…しょうがない、本当にあの
勝手に入るのは申し訳ないと思いながらも、そう決めて一歩足を踏み出した瞬間だった。周囲の気温が一気に下がった感覚の後、にわかに霧が立ち込めて視界が急に悪くなる。そのまま、屋敷そのものまでが見えなくなってしまっていた。
「これが、権章さんの言ってた…!?」
狛はその状況にどこか納得した様子である。別段、権章の言葉を疑っていたわけではないが、実際に体験してみると確かに、どこかの森に迷い込んでしまったかのような錯覚に陥る。檜扇邸の中庭は確かに広いが、いくら霧がかかっても屋敷までが見えなくなるほど広大なはずはない。物理的に視界を封じられているというよりも、幻覚を見せられていると言った方が正しいだろう。
狛は落ち着いて周囲の様子を窺ってみた。悪霊らしきものの姿は見えないが、奇妙な気配があちこちから感じられる。四方を囲まれているような、正面に何かがいるような酷く不安定な感覚だ。
ただこんな状況なのに、孔があるはずの松の木だけはしっかりとその存在を確認する事ができた。まるでこちらへ来いと誘われているようだ。
「どういうこと?あそこに近づいて欲しくないんじゃないのかな?」
それは間違いなく罠であるように思えるが、かといってこのままじっと指を咥えて待っているわけにもいかない。狛は頬を叩き、気合を入れて、松の木に向かって歩いていった。
庭の植物をかき分けて進んでいくと、無事、松の木の前まで辿り着く事が出来たがそれは明らかに屋敷の中から見たものとは様子が違っていた。それはまさに大木と言っても差し支えないほどに成長しており、圧倒されそうなほどの迫力がある。その樹の根元には、腰に長い刀を携え着物を着た若い男が一人立っていた。
男は一見すると女性と見間違えそうなほど、細面で艶やかな顔をしていて、肌は白く美しい。大きくて切れ長の瞳は切なそうに潤んでいるように見える。人によっては一発で恋に落とされてしまいそうな、美男子であった。
だが、狛はその男が見た目通りの優男でないことは解っていた。男は信じられないほどの殺気を放ち、かつ、異常なほどの妖気を纏っていたからだ。単なる悪霊というよりは、妖怪や怪異に近い存在である。
「あなた…何者?どうして人を襲うの?」
言葉が通じるとは思えないが、念の為に声をかけてみる。一見無意味なやり取りに見えるだろうが、霊や妖怪は時として、生きた人間に伝えたいことがあって姿を見せる事があるものだ。問答無用に襲ってくる前に、一度その意思を確認してみる事は必要なことでもある。
男は、狛の呼びかけに答えようとはしなかったが、狛を見てにっこりと笑ってみせた。そして、一拍の呼吸もつかずに刀を抜き、横薙ぎの一撃を繰り出してきた。
「っと!…あっぶな、問答無用ってこと…?そっか」
まだかなり距離があったおかげで、狛は腹の薄皮一枚を切られた程度で済んでいたが、恐らくこれはわざとである。致命傷には届かない間合いであることを解った上で、男は刀を振ったのだ。すぐに戦う姿勢をとった狛を見据え、男は更に笑う。狛はその挑発を受け流すように、静かな闘志を燃やすのだった。