「ちょっと出かけてくる。……二~三日で帰るぜ」
そう言って、猫田は一人で出かけていった。行き先は言っていなかったが、狛は何となく察している。猫田は恐らく、大雪山に向かったのだ。先日、氷雨が氷の粒となって消えたあの日。残った氷の粒の中で、真珠のように小さくて丸い、とても美しい結晶が見つかった。触るととても冷たいが、溶ける事の無いその結晶は、まるで氷雨の忘れ形見のようだった。猫田はそれを山へ返しに行ったのだ。
「雪女にも、お墓ってあるのかな…?氷雨さんが落ち着いて眠れる場所ならいいな。ね?アスラ」
猫田がいないせいか、アスラは狛から離れようとしない。狛はアスラに話しかけながら、その背中を優しく撫でている。あの時、もっと早く氷雨の元に駆けつけていれば、猫田と狛はそれを悔いていた。いくら探しても避難してきた人達の中に氷雨はおらず、やはり人知れずどこかへ行ってしまったのかと思っていた矢先、燃える建物の中から、氷雨の妖気が感じられた。急いで駆け付けようとしたが、とにかく大勢の人の目があったので、大っぴらに飛び込む訳にもいかない。
結局、人の目が少ない所から、隠れて建物に入って氷雨の元に向かったのだが、結果はあの通りだ。
そもそも、狛達が火鼠に気付かなかったのは、運悪く氷雨が傍に居たせいである。氷雨は力が弱まっていたとはいえ、ああ見えてかなり強い妖気を持っていた。その為、彼女が近くにいると弱い妖気が感じ取りにくくなってしまっていたのだ。しかも元々、火鼠という妖怪は、ネズミだけあって隠れるのが上手く、どこかに潜んでいたのだろう。そんな偶然が重なった事が不幸を呼んでしまった原因だろう。
そして、大雪山の雪女の里は、人狼の里のような隠れ里である。基本的に他種族の妖怪が足を踏み入れる事は出来ないので、猫田ですら中に入れて貰える保証はない。それもあって、猫田は狛を連れて行かなかったのだ。猫田自身、狛の傍を離れるのは不本意であったようだが、仕方のないことだ。なにより狛もあえて連れて行って欲しいと言わなかったのは、氷雨と猫田を二人きりにさせたいと思ってのことである。
「辛いのは猫田さんの方だしね。……私も氷雨さんともう少し仲良く、なりたかった…なぁ」
リビングのソファでアスラを撫でつつ、狛は呟きながらまた少し泣いた。氷雨がいて大変な事もあったが、それでも楽しいこともあったのだ。もっと一緒にいられる時間があれば、きっと仲のいい友達になれたはずだ、それが悲しい。だが、猫田は狛よりももっと辛く悲しいだろう。猫田が帰ってきたら、何か力になってやりたいと狛は考えている。
そんな時、狛のスマホが短く鳴った。どうやらWINEの通知のようだ。確認すると見知らぬ相手からのメッセージで、全く知らない他人の名前と住所だけが記されている。普段ならば気にも留めず無視する所なのだが、何故か強い胸騒ぎを覚え、無性に気になってしまう。念の為にインターネットで検索してみると、出てきたのは意外な結果であった。
「ここって……確か…」
狛はそれをすぐに書きとめ、どこかへ電話をかけ始めた。少し焦りが見えるその表情は、それが只事ではない事態であることを物語っていた。
翌日、狛は中津洲市を離れ、富山県は立山の地に降り立っていた。電車を乗り継いで遠出をしたのは初めてで、少しワクワクする。初めて来る土地は景色だけでなく、匂いも新鮮だ逸る気持ちを抑えながら、狛は独り指定された住所へ歩き出した。
立山は、日本三名山だけでなく、日本三大霊場…そして三大霊山にも数えられるほど、霊的にも非常に貴重で重要な土地である。古くから山岳信仰の象徴として山そのものが神として崇められていたし、それに伴って修験者達が修行に明け暮れ駆け回った山々には、極めて神聖で清浄な空気が満ちている。
狛の元に送られてきたのは、そんな立山を臨む小さな町の一角であった。
「もうちょっと先、かな?それにしても、何だか凄く空気が綺麗で身体も軽いみたい。それだけ土地の霊気が強いのかも」
狛は独り言ちて、その場で軽く足踏みをしてみた。タタタと軽快に動く足は、想像以上に軽い。狛は感心しながら移動を再開し、目的地を探していた。
狛の元に送られてきた住所、それは日本でも数少ない霊石の採掘場であった。現在、霊石と言えば、世界的にみても大部分の供給はカメリア王国からの輸出がトップなのだが、霊石は必ずしもカメリア王国でしか採れないものではない。実はここ日本も、霊石の産地としてはそこそこのものだったりする。これから狛が向かおうとしている場所は、まだカメリア王国との取引が無かった古い時代に、国内で消費される霊石の大半を産出していた採掘場だ。しかし、採掘場と言っても岩を切り出したり、爆薬で発破をかけるような場所ではない。目的地は個人の住宅、その地下で発見された霊石鉱なのである。
「着いた。ここが、
狛はその屋敷の門を見上げて、名を呟いた。高名な寺や城に使われるような黒く染め上げられた門は、独特な威圧感と存在感を漂わせている。その門そのものが、前に立った狛を拒絶しているかのようだ。狛は小さく息を切って腹に気合を入れ、その門をくぐった。
そもそも霊石は、その力を正しく理解し、活用できるものにしか価値を見出せない代物である。見た目は宝石のようにキラキラと輝く美しい石なので、時折、宝飾品として世に出回ることもあるのだが、その場合は二束三文で取引されるのが関の山だ。何故なら、霊石はそれ自体が力を持っているせいで、正しい扱い方をしないと良からぬものを引き付けてしまう事があるからである。過去、呪われた宝石のように扱われたものが実は霊石で、その力に惹かれた悪霊や救いを求める雑霊などを引き寄せてしまい、持ち主が被害を受けるということもあったらしい。
それが自宅の地下から大量に見つかった時、権三郎は何を思ったのだろうか、最終的に陰陽寮に卸している所をみると活用する才覚はあったようなので相当優秀な人物であった事は想像に難くないのだが。
「いらっしゃいませ。この度は遠路はるばるお越しいただきありがとうございます。私が当代の檜扇家主人、
「初めまして、犬神狛です。よろしくお願いします」
門をくぐって屋敷の玄関まで歩くと、一人の老人が待ち受けていた。檜扇権章と名乗るその男性は物腰柔らかで、人の好さそうな顔つきをしている。狛は挨拶をしながら、しばらく顔を合わせていない犬神家の長老達を思い出し、微笑んでいた。
「こちらへどうぞ」
「あ、はい、お邪魔します」
案内されたのは非常に古風な趣のある日本住宅の屋敷である。かつての犬神家の本宅を思い起こさせるその雰囲気と佇まいは、狛の心に懐かしささえ感じさせるものだった…ある一部を除いては。
どうやらその屋敷は、中庭をぐるっと囲うように四角い造りになっているようだ。玄関から入ってすぐ左手側に大きな庭が現れて、何とも壮観である。その立派な中庭の中央には大きな松の木が植えられていて、息を呑むような迫力が感じられた。
狛がここへやってきた理由は、この檜扇家の地下に存在する霊石鉱…それを守るように強力な悪霊が出没すると聞いたからである。既に何人かの作業員が、その悪霊の手にかかって命を落としているらしい。狛はその悪霊を退治すべく、単身でここ立山へやってきたのだった。
(凄く強い力と、思いを感じる……一筋縄じゃ行かないかも)
狛はそう感じて、ふと中庭から見える立山連峰に視線を向けた。美しい青空とわずかに白い雪の残る山並みが狛の心を落ち着かせてくれる。この後、恐ろしい戦いが待ち受けていることなど、微塵も感じさせない雄大な景色が、狛を見守っているようであった。