炎と煙が充満するフードコートであった場所は、既に見る影もないほどに焼けてしまっていた。普通の火災であれば、短時間でここまでは燃えないはずだが、やはりこれが火鼠による妖炎の恐ろしさということだろう。
「ああ、嫌だ。これだから火鼠は嫌いなんでありんすよねぇ…あんた達は妖怪としての誇りものう、ひたすら食って増えるだけのネズミそのもの……ボーボーボーボー燃やすしか能の無い典型的な畜生でありんすから、全く…」
ギラリと冷たい視線を投げる氷雨の表情は、猫田と居る時のような甘さも、狛が思わず許してしまうような朗らかさの欠片もない。まさに
対する火鼠は、全身に纏った火を使って周囲を燃やし、片っ端から齧りついて喰らっている。その姿はカピバラを二回りほど大きくしたようなサイズのネズミだ。チラチラと氷雨を見ているが、あまり注意を払ってはいない。氷雨の言う通り、彼らは食欲が最優先なのだろう。動物的と言えばいいのだろうが、野生の動物と同じなのであれば、逆に危険だ。野生の動物は、邪魔をする者に容赦などしない。一度氷雨が敵対者だと判断すれば、その牙を剥く事に何の呵責もないだろう。
氷雨が殺気を込めた妖気を放つと、火鼠はそれまで口にしていた何かを氷雨の方へ投げてよこした。ゴロンと少し重量のある、丸みを帯びた何かが氷雨の足元に落ちて転がる…それは、逃げ遅れて煙に巻かれて亡くなったのであろうフードコートの従業員の頭であった。
気づいた瞬間、氷雨は目を見開きドスの利いた声で怒号を放つ。
「っの…!下郎がッ!」
死者を冒涜するかの如き振る舞いに、氷雨は激昂した。雪女という妖怪は、その名の通り本来は非常にクールで、滅多に感情を表に出さない種族である。だが、氷雨は他の仲間達を導くという役割、もしくは性質の為なのか感情表現が豊かだ。それは上位個体として必要な能力であり、強い感情を持っているからこそ扱う力も強くなっている。人間も妖怪も、強い力を引き出すにはそれに見合った強い感情が必要なのだ。
まさに怒髪天を衝くような怒りに任せ、氷雨の周りに強烈な冷気が集まってきた。建物を焼く炎が放つ熱すらも、氷雨の冷気で弱まり始めている。そして、冷気は塊となり、人の頭よりも大きな氷塊が氷雨の正面から火鼠に向かって放たれた。
「ギャウッ!?」
氷雨に食べ残しの人間を投げてよこした火鼠は、油断をしていたのだろう。氷雨が同じ妖怪であるとは気付いていたようだが、まさか彼らにとっても天敵の雪女だとは気付いていなかったようだ。先程の行動は精々、後からやってきたのろまな妖怪に、食べ残しを食っていろという嘲笑の意味を込めていたに違いない。そんな氷雨を見下す意識が仇となり、油断していた火鼠は、大きな氷塊で頭を打ち砕かれて成す術もなく死んでいった。
「まったく、舐めた真似をしてくれんすね。与太が調子に乗ってあちきを甘う見るからそうなるんでありんすよ。ああしかし、この熱は流石に……吉様が来る前におさらばえしねえと…」
力を使った瞬間は熱を弱める事が出来たものの、雪女としての力が弱体化している氷雨にはこの炎を完全に消したり、熱を弱め続ける事は出来そうにない。そしてなにより、力を使ったことで、猫田達に自分がここにいると知らせてしまう可能性がある。狛に手紙を渡し、ついさっきあんな別れの挨拶をした後だ、今猫田と顔を合わせるのは恥ずかしすぎるし、弱った状態では今度こそ離れられなくなってしまうだろう。それだけは避けたい所である。
何故なら氷雨の命は、もう幾許の猶予も残っていないのだ。猫田の前でただの氷の結晶に戻って、消え果る姿を見られたくない…それが氷雨の本心であった。
「さて、どこから出ていきんしょうかしら……えっ!?」
視界の悪い中で、出口を探そうと氷雨が注意を疎かにした隙を狙い、三方向から炎が縄のようになって飛び出してきた。両腕と首に巻き付いたそれは、氷雨の身体を焦がし、溶かしていく。
「ま、まさかまだ他に……三匹も!?」
今度は逆に、氷雨が油断をしてしまっていた。確かに火鼠が一匹だけだったとは限らなかったが、まさか三匹も残っていたとは予想外である。あちこちに妖気を放つ炎が燃え盛っているせいで他の個体に気付けなかったのは、氷雨のミスだ。とはいえ、伏兵の存在を見落としたのは、ある意味では仕方のない事と言える。
なにしろ、火鼠は元々日本国内には居ない妖怪で、中国の南方…或いは
「くぅ…ぅああっ!ああああっ!!」
文字通りその身を焼く灼熱の炎が、氷雨の身体を容赦なく責め立てる。このままでは、間違いなく死んでしまう。どの道長くは持たない命でも、こんな相手に殺されるのは嫌だ。それは雪女の元族長としてのプライドでもある。
「ぐぅ……あ、あちきはね……あんたらなんかにくれてやるほど、安い命じゃありんせんのよ。こう見えて、国一番の雪女で…吉様の
氷雨は意識を集中させて、自分の身体を構成している氷の精を一部解き放った。氷雨の身体は、凝縮された氷の結晶に妖気と精を込めて作られている。それは彼女の命が尽きるまで決して解けない氷ではあるのだが、それを敢えて解き放つことで強力な力に変換する事が可能だ。二度と元には戻らないとしても、このまま炎に巻かれて死ぬよりはマシである。
左腕一本分…それだけの氷の精を解き放ち、氷雨はそこから一気に極低温の嵐を生み出した。瞬く間に空気が凍り付き、炎すらも凍らさんばかりの勢いでフードコートが冷気に包まれていく。煙で見えていなかったが、氷雨の首を狙っていた火鼠の一匹は氷雨のすぐ傍に潜んでいたようで、真っ先に凍らされて絶命していた。氷雨に近ければ近い程、気温は低くなっているので逃げる暇などなかっただろう。
ゴオォッ!と暴風が吹き流れ、その後を氷の波が追っていく。これは氷雨が自らの身体を代償に放っている嵐であるが、全盛期の氷雨が全力を出せばこれだけの力を生み出せるという証でもある。嵐によって煙も薄くなっていて、隠れていた火鼠の姿もようやく確認できた。
「そこにいたんでありんすね、隠れん坊の時間はもう終わりにしんしょうか。……消えなんし!」
気合と共に、無数の氷塊を含んだ嵐が火鼠を襲う。しかし、ここで予想外な事が起きた、炎で脆くなっていた天井が急激に冷やされたことで更に劣化し、轟音と共に崩落したのだ。
「なっ!?きゃあああああっ!」
いかな極低温の嵐と言えど、そもそも大質量物が押し潰れてくる事態には対処できるはずがない。それは炎も同じである。次の瞬間には、氷雨と火鼠はそれぞれ崩落した天井に圧し潰されてしまったのだった。
「う、うぅ……」
暗く狭い空間の中で、氷雨は目を覚ました。どうやら、まだ生きているらしい。そう時間は経っていないようだが、既に彼女の命は風前の灯火だ。犠牲にした左腕だけでなく、右手と両足の感覚も失われてきている。偶然、潰されるのを逃れただけで、胴体と頭だけが残ったのだろう。
「もう、弱りんしたねぇ…せめて一思いに終わってくれたらようござりんしたのに……あちきは本当に、ついてねえ女でありんすわ…」
囁くような弱々しい独り言は、誰の耳にも届かない。ただ、ついてないとは言ったものの、改めて思い返してみれば、悪くない一生だったと思える。猫田が狛に話していたように、雪女は根っこの性質が冬の精霊に近い存在である。皆誰もがクールであるが、その一方で精霊や人に近い分、並の妖怪よりも感情的だ。それは氷雨に限らず、一般の個体でも同じである。表にこそ出さなくとも、愛情深く、人に惚れる事も往々にしてある。だが、ほとんどの場合は報われない悲恋で終わるのだ。
それを思えば、猫田を愛し、最期に思い出が作れた分、自分は良い方だったのではないかと思えてきた。
「ああ、やっぱり……悪うない…命、でありんしたわ……」
(このまま、独りで消えるのは……やっぱり寂しいけれど)
猫田に会いたい。あの柔らかい毛皮も、人に化けた時のたくましい身体も全てが愛しい。本当は最期に抱き締められて逝きたい…しかし、それは自ら放棄した願いである。
「怖うなって…逃げ、なければ……良うござりんした…」
猫田の目の前で消えたくなかったのは、彼女の臆病さ故である。消え去ってしまったら、忘れられてしまうのではないか?それが怖かった。本当は手紙すら残すつもりはなかったのだ。気紛れに消えた事にすれば、猫田はきっと自分が生きていると信じて、記憶に留めておいてくれる。死んで消えてしまった女は、忘れ去られるしかないのだと思うと、死ぬのが怖くて堪らなかった。だから大雪山を抜け出してきたのだ。もう一度猫田に会って、思い出を作った上で、忘れられないようにしてから死にたかった。
「よ、し…さま……」
氷雨が消え入りそうな声でその名を呼んだ時、一筋の光が、彼女の顔を照らした。
「氷雨っ!」
「よ…し、さ………?ど…して……」
「このバカ野郎!勝手に現れて、勝手に死ぬんじゃねぇ!」
あっという間に瓦礫を吹き飛ばし、人の姿の猫田が氷雨の身体を抱き上げた。もう胸から上しか、彼女の身体は残っていない。最後に残ったそれもほろほろと砂のように崩れて、いつ消えてもおかしくない状態だ。猫田の後ろには狛が立っていて、イヤリングがぼんやりと白く光っている。
「氷雨さん……」
狛はボロボロと涙を溢し、猫田の腕の中で崩れていく氷雨をじっと見つめていた。それは猫田も同じである、大粒の涙を溢し、その涙が氷雨の頬に当ると、氷雨は困ったように微笑んでいた。
「よ……さ…」
「なんだ?…聞いてやる、ちゃんと聞いてやるから…!」
「わ、すれ…な、いで……あちき、の……こ…と……」
猫田の耳元でそう囁くと、氷雨は満足そうに氷の粒となり、やがて蒸発して消えた。微かに残った水滴は、猫田の涙に混じって、いつまでもひんやりとその跡を残しているようだった。