食事を終え、時計を見れば時刻はそろそろ夕方五時になろうかという所であった。帰るにはちょうどいい時間だ。最後に猫田と氷雨が二人でプリを撮り、既に荷物も一杯だしお開きにしようかとなった所で、少し躊躇うように氷雨が口を開いた。
「吉様、最後にもう一つお願いがあるのでありんす。さっき見た店で、どうしても欲しいものがあって…どうか買ってきておくんなんしえんか?吉様の手でプレゼントして欲しいんでありんす。どうか……」
「氷雨…また来りゃいいじゃねーか。今じゃなきゃダメなのか?」
「はい、あれだけはどうしても、今欲しいのでありんす。あの指輪だけは……」
食い下がる氷雨に根負けして、猫田は仕方なく指輪を買いに行くことにした。それは新館の若手デザイナーの店に置いてある品物で、値段はそう高いものではないが、雪の結晶をモチーフにしたとても美しい指輪であった。ちなみに今日のデート費用は、全て狛に支給されているカードから引かれている。狛が食事代が膨大なので、専用の口座が用意されていて、それを自由に使っていい事になっているのだ。
「しょうがねーなぁ…じゃあ、ここで待ってろよ」
猫田が足早に去っていくと、氷雨はその背中に向けて、小さく手を振っていた。そして、隣にいる狛へ視線を向けるとまた笑顔を見せる。
「本当に、吉様はいい男でありんすよね。こんなあちきの我儘に応えてくれて……お狛、吉様を大事にしてあげておくんなんしえ」
「猫田さんって、面倒見いいから。いつも助けて貰ってるんだ、大事なお兄ちゃんって感じかな」
「そう。ところで、そのイヤリング、いいデザインでありんすね。ちょっと見てもようござりんすか?」
「あ、どうぞ。これ知り合いのデザイナーさんが作ってくれたの。かわいいでしょ?」
それは以前、YaMaChi氏に作ってもらったイヤリングだ。とても気に入っているので、先日のデートの際にもつけて行ったのだが、京介は気付いてくれなかった。やはり、こう言った小物に目敏く気付くのは雪女と言えど女性の目なのだろう。
氷雨はそのイヤリングに手を伸ばし、質感などを確かめるように優しく触っていた。その時、微かにその手が光ったことに狛は全く気付いていない。
「本当に凄いわぁ、大事にしなんしね。それじゃ、あちきはそろそろお茶挽きしんす。吉様といると決心が鈍っちまうから…お狛、これを吉様に」
そう言うと、氷雨は着物の胸元から封筒を取り出し、狛の胸元に差し込んだ。突然の宣言に意味が解らず、狛はただただ動揺するばかりだ。
「え?え?お茶挽きって……まさか、帰っちゃうってこと?!どうして…」
「ふふ、お狛はかわいいねぇ。あちきの事なんて嫌ってもいいくらいなのに、心配してくれてるの?そういう所、吉様にそっくりだわ。あちきはね、そろそろ
「氷雨さん……!」
唐突な別れを切り出された狛は、目に涙を浮かべている。今すぐにでも抱き着きたいのだが荷物が多くてそういう訳にもいかない。氷雨が狛の頭を撫でようとしたその時だった。
ジリリリリリッ!というけたたましいベルの音がしたかと思えば、さっきまでいたフードコートの方で悲鳴が上がったのだ。それが聞こえてくるや否や、たくさんの人達がフードコートの方から狛達のいる階へ雪崩れ込んできた。
「な、何…?」
「か、火事だぁぁぁっっ!フードコートが燃えてるっ!逃げろーーーっ」
「み、皆落ち着いて!走らないで!…氷雨さん、外へ!」
押し寄せる人の波に揉みくちゃにされながらも、狛は冷静に声を上げていた。こういう時に焦って走るのは転倒の危険もあって、決してやってはいけないことだ。誰もが避難訓練を受けた事があるはずだが、こうしたパニック状態になると、中々そうも行かないのが世の常である。
特に大きな荷物を抱えていた狛は、氷雨に声をかけつつ人の流れに沿って冷静に移動をし始めた。氷雨もそれに倣って移動を始めたが、その視界の隅に映ったものを見逃すことは出来なかった。何故ならそれは、ある意味で雪女の天敵とも言える存在であったからだ。
「あれは……っ!?」
一方その頃、別棟の新館にいた猫田は、その騒ぎにいち早く反応していた。彼の耳には、旧館での悲鳴や、人々のざわめきが克明に届いている。異変を感じた猫田は、買ったばかりの指輪をポケットにしまい込むと、急いで外へ向かった。
店の外へ出ると、すぐに目立つ木彫りの猫を担いだ狛を見つける事ができたのだが、どうも様子がおかしい。キョロキョロと辺りを見回して何かを探しているようだ。
「狛!」
「あ、猫田さん!」
「無事か?何があった?」
「フードコートで火事が起きたみたいなんだけど……一緒に逃げたはずの氷雨さんがいないの!その前に、もう山に帰るって言ってたんだけど…何だか胸騒ぎがして…」
「氷雨が…?大雪山に帰るって、どういうことだ?」
猫田の問いに答えるように、狛は氷雨の手紙を手渡した。猫田はすぐに中身を開いて確認をする。
――吉様、黙って
私は、先日、族長の任を解かれました。理由は、私が力を使い果たしてしまったからです。知っての通り、私は雪女の族長として、里の女達を守る為に生まれてきました。年々酷くなる気温の高まりは、私達の住む大雪山の里にも大きな変化をもたらしております。それだけではありません、近頃は近在の妖怪達が見境なしに暴れるようになりました。私はそれらに抗う為、力を使い過ぎてしまったのです。結果として、私の寿命は残りわずかとなってしまいました。
幸い、私の跡目は、新たに生まれた妹に継がせる事が出来ましたので、心残りは吉様にお会いする事だけでございました。たった三日という短い間でしたけれど、大変楽しい
「…っ!」
「猫田さん、氷雨さんは何て書いて……!?」
猫田は狛に手紙を渡すと、すぐに辺りを見回した。しかし、氷雨の姿はどこにもない。そこで気付いたのは、既に氷雨の妖気すらも感じられない事だった。
(あのバカ野郎…!なんでもっと早く言わなかったんだ!?いや、バカは俺の方だ、どうして気付いてやれなかったんだ。あの極小の寒波ってのは、氷雨の事だった。そうだ、ニュースで言ってたじゃねぇか、
猫田は己の不明を恥じ、そして悔いた。強引な所と強烈な寒さは欠点だが、それを差し引いても、猫田は決して氷雨の事は嫌っていなかった。夫婦にはなれなくても大切な存在であったのは間違いないのだ。彼女は人間とは違い、遥かな時間を生きる妖怪であると油断し慢心していた。妖怪とて、最期を迎える時は来るのだとそこに思い至れなかった己の愚かさが憎かった。
燃え盛る炎の中を、氷雨が歩いている。先程彼女が目に止めたのは、ある一匹の妖怪であった。それは自分達雪女にとっての天敵であり、放っておくことなど出来ない相手である。静々と歩いて着いた先は、フードコートの一角でそれは炎を撒き散らしながら、食材を貪り食っている。
「やっぱりいやがりんしたか…どうして主さんがここにいるのか知りんせんが、ここにはあちきの大事な大事なお方とその家族がいるんでありんす。主さんを放っておくわけにはいきんせんね」
その視線の先にいたのは、真っ赤に燃えた炎に身を包んだ、一匹の動物であった。名を
じりじりと自らの身を削る大量の炎と高熱の中、氷雨は己に残された最後の命の使い道をここに決めて立つのであった。