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第230話 氷雨の秘密

 氷雨が狛達の元にやってきて、あっという間に二日が経った。


 氷雨が初日に猫田から言質を取り、しばらく居座ると言ってから、狛は後片付けと桔梗への根回しに追われていた。そう長い時間ではなかったが、凍ってしまった家具の掃除や家電のチェックに加え、桔梗にどう説明すればいいのかまでも悩んだ挙句、結局正直に話すことにしたのだが、桔梗は苦笑しながら許してくれたのは不幸中の幸いであった。

 ただ、壊れてしまった家電は少なくなかったので、昨日は終始買い出しや、それらの再設置でほとんど一日が潰れてしまったのだ。


 ちなみにその間、猫田はずっと氷雨と一緒に居てその相手をさせられている。猫田にとっては寒さがかなりのストレスらしく、昨夜寝る前に様子を見た時はげっそりとやせ細ってしまったように見えた。可哀想だが、また家中を凍らされては堪らないので、狛は黙って猫田の努力に手を合わせるしかない。


 そして、今日は三日目の朝である。


 狛が起きてアスラと共にリビングに行くと、燃え尽きたように白くなった猫田が、人型のままソファにもたれ掛かった状態で天を仰いでいた。口は開きっぱなしで涎を垂らし、まさに屍のような有り様だ。


「おはよう、猫田さん。…大丈夫?氷雨さんは?」


「ああ…狛か、おはよう。氷雨アイツなら日課の朝風呂だ。勘弁して欲しいぜ…これが続いたら命がいくつあっても足りねぇ……」


 ぐったりした様子の猫田の頬を、アスラが舐めた。アスラは氷雨と接触すると危険なので、彼女がいる間は狛と一緒にいるか、狛の部屋に避難しているのだ。猫田が猫の姿でいる時は、いつもほぼ一緒に居て寝ているのだから、アスラと猫田は仲が良い。それもあって、アスラは魂が抜けそうな状態の猫田が心配なのだろう。猫田はアスラの頭を撫でて、その体温に癒されているようだ。


 ちなみに、氷雨が日課にしているのは、朝風呂だけではない。彼女は日に三回ほど、水風呂に浸かるのだ。というのも、やはり内地である中津洲市は、雪女である氷雨には暑すぎるらしい。氷雨には空いている客間を与えて、極力部屋を冷やして生活してもらっているのだが、それでも朝昼晩で水風呂に入り体を冷やし水分を補給しないといけないのだから、雪女も大変である。

 そんな猫田とアスラを横目に、狛は朝食の準備に取り掛かった。氷雨は食事の必要がないのだが、何かは一緒に食べたがるので、サラダとかき氷を用意しておく。食べたものは何処に行ってしまうのか気にはなるが、同じ女性としては聞かない方がいいだろう。余談だが、猫田のように肉体をもった妖怪は、食事をすればちゃんとトイレもするのである。


 桔梗は相変わらず家にいない為、狛が自分と猫田の分を用意していると、猫田が何か思い悩んでいるような表情をしているのが見えた。さっきまでの脱力しきった顔とは違い、真剣にあれこれと何かを考えているような、そんな様子だ。

 支度がある程度終わった所で、温めたミルクをカップに注いで、狛は猫田の向かいに座った。


「猫田さん、ご飯の前だけど、これ飲んで。温まるから」


「ああ……悪いな、ありがとよ。うん、美味いわ」


「ね、何か気になる事でもあるの?」


「…なんでだ?」


「そんな顔してるから…違った?」


「あー……お前に話しても…いや、そうだな。氷雨はまだ出てこないだろうし、いいか」


 そう言うと、猫田は時計をチラッと覗いて時間を確認していた。氷雨の風呂はかなり長い、いつもたっぷり二時間は入っているようだ。水風呂なので、ガス代はかからないが、そんなに長く水に浸かって平気なのかと初日の狛は心配しっぱなしだった。さきほど氷雨が風呂に入ってから、小一時間あまり……まだしばらくは風呂に入ったままだろう。

 猫田はもう一度ホットミルクを口に含んで、口の中に水分と温度を蓄えてから話し始めた。


「やっぱりな、どう考えてもおかしいんだよ、氷雨の奴。アイツが山を降りて来るなんて、本来はありえねーんだ」


「ありえないって…まぁ、確かに人の社会で暮らすには、ちょっと問題が多そうだけど」


「そういうことじゃねぇ。本当言うとな、アイツは雪女の中でも特別なんだよ」


「特別?」


 猫田の真意が掴めず、思わず狛はとぼけた声になってしまった。一体、氷雨の何が特別だというのだろうか。


「アイツはな。何百年かに一度、雪女達の族長となる為に生まれてくる、特別な雪女なんだ。元々、雪女ってのは妖怪の中でも妖精や精霊に近くてよ。ほら、昔話とかであるだろ?人間に惚れて押し掛けてくるヤツ…あれは雪女そのものが精霊みたいな人間に近い種族だから、感情も人間に近く出来てるんで人に惚れちまうらしいんだと」


「へぇ~、そうなんだ。昔話は知ってるけど、そんな理由は初めて聞いたかも」


 狛は素直に驚き、感心している。そもそも、人間にとって雪女はメジャーな妖怪ではあるが、実際に出会う事は少ない妖怪だ。氷雨がそうであるように、人の暮らす街は彼女達雪女にとって、サウナ以上の暑さであるという。それならば確かに、人目につく場所へ出て来ない理由はよく解る話だ。彼女達の多くは雪深い山奥に生息しているか、或いはかなり涼しい場所で人間にちょっかいを出すのがほとんどなのである。


「そういう種族だから、雪女達には厳しい掟や定めがある。本来、族長となるアイツは大雪山を出ることなんて許されねぇはずなんだ。俺が昔、アイツに気に入られた時も無理矢理山から降りた俺を追っては来れなかった……その氷雨が、突然こんなところまで俺を追いかけてくるなんて、いくら考えてもおかしいんだよ。アイツは何か隠してる。俺に言えない何かがあったんだ…それが何なのかずっと考えてたんだが、解んなくてよ」


「そうだったんだ……隠し事、か…」


 そう呟いて、狛は氷雨が入浴している風呂場の方へ視線を向けた。ああも明け透けに猫田大好きと公言し、自由奔放に生きているような彼女だが、そんな重い物を背負っているとは思ってもみなかった。猫田に対して隠し事をしているというのも、正直、信じられないくらいだ。とはいえ、一見すると猫田の言う事には何でも従いそうな氷雨も、よくよく思い返してみるとすべてに大人しく従っているわけでもない。もしかすると、家族と喧嘩でもしたのかなと、この時の狛は思っていた。


 そんな猫田との話を終えて、朝食の支度の続きに狛が戻ってしばらくしてから、氷雨が風呂から上がってきた。風呂上りらしい火照ほてりは一切なく、艶やかではあるが瑞々しい冷気を纏っている。近寄るだけで身震いしそうな雰囲気だが、不思議と笑顔の氷雨を見ると敬遠する気にもなれないのだから妙な話だ。

 そして全員が食卓につき、ご飯の代わりに氷雨の前にかき氷が置かれた所で、氷雨はこの日一番の笑顔を見せた。


「ああ、いつ見てもお狛の作る食事は美味しそうでありんすねぇ。初めは吉様に近づくかと思っておりんしたが、この食事に関しては認めざるをえません。さすが、吉様の見込んだ食事番でござりんすね」


「え?そんな風に思われてたの?…悪い虫って、初めて言われたよ……っていうか、私食事番じゃないからねっ!?」


 狛は色恋沙汰で人に関わった経験が余り無いので、そんな評価を受けたこともない。敵対した相手から雑言を喰らっても、面と向かって中傷された事はないのだ。京介に出会うまでは、初恋もまだだったわけだし、同性からそんな目で見られていたと知るのは割とショックである。まぁ、格上げされても食事番という辺り、氷雨は狛を快く思っていないのが透けて見えるのだが。


 狛が抗議の声を上げる中、素知らぬ顔で氷雨は猫田に声をかけた。さすがに食事中に抱き着くような真似はしないので、まだマシである。


「ねぇ、吉様。あちき、今日はどうしても行ってみたい所があるのでありんす。連れて行って頂けんせんか?」


「連れてけって…どこにだよ?大雪山に帰りたいなら一人で帰れよ。俺は行かねーぞ」


大雪山おやまじゃございんせん。あちきはというものがしてみたいのでありんす。人間の街には、それはそれは見事で大きな商店があると聞きんした。あちきはそこに行ってみたいのでありんす。連れて行って頂けんすか?」


「ハァ!?」


 氷雨の更なるワガママが炸裂し、猫田の時が止まった。狛と京介のデートから間を置いて、今度は猫田がデートをする羽目になるとは、誰も予想していなかったのである。

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