「
ひとまず
「お前な…俺の名前が
「ああっ!そっか、そうだった……っけ?」
「忘れんなよ!…どいつもこいつも猫田、猫田って呼びやがって。……恰好いいだろ、吉光…」
猫のままだと氷雨から逃げられないと観念して人型に変わった猫田は、名前を忘れられていたのが不満だったらしい。言われてみれば、くりぃちゃぁの妖怪達や高祖父の宗吾などは皆、猫田の事を苗字もしくは猫と呼び捨てにしてばかりだ。猫田本人としては吉光という名前が気に入っているようだが、あまり現代風ではないせいか正直、狛には違和感しかない名前である。
「あらまぁ、吉様お可哀想に……大丈夫、あちきにとってはいつまでも吉様でありんすからね。だって、
「安心しろ、お前と夫婦になることは絶対無ぇ…!」
猫田は青褪めながら、隣に座って自分の左腕に腕に抱き着いている氷雨を睨んでいる。狛にはどうもこの二人の関係性がよく解らない。普段、割と誰に対してもそうきつい態度をとらない猫田だが、氷雨に対してはかなり当たりがきつい気がする。だが、当の氷雨は猫田のそんな冷たい態度もお構いなしといった様子だ。二人の温度差が何とも不気味である。
こうも機嫌の悪い猫田はあまり見た事がないので、狛は話題を変えようと気になっていた事を聞いてみた。
「ひ、氷雨さんは雪女…なんだよね?」
「ええ、そうでありんすよ。それが何か?」
「いや、私、雪女って初めて会うから新鮮で。……そう言えば、二人はどうして知り合ったの?」
「ああ、あちきと吉様の馴れ初めを聞きたいと申されんすか、いいでありんしょう、お話しんしょう。あれは忘れもせぬ、百三十年?から四十年くらい前のこと…とある悪しき侍の集団に見つかり、その美貌から手籠めにされそうになったあちきを、吉様が救ってくださったのが始まりで……」
「…お前もうろ覚えじゃねーか、適当な事言うな。あのな、俺が
芝居がかった氷雨の話を遮って、猫田が面倒臭そうに話し始めた。氷雨は少し残念そうだったが、猫田が思い出話をしてくれるのが嬉しいのか、またニコニコと笑顔になっている。
「うん。言ってたね、大騒ぎになったって聞いたけど」
「まぁ、そこはどうでもいいんだが、話はその喧嘩の後だ。あん時ゃ俺も相当疲れてたんでな、静かに休める場所を探して目に付いた荷馬車の中に入って寝ちまったんだよ。それが蝦夷へ入植する屯田兵連中の荷馬車だったのさ。ハッと気付いた時には東北の方に着いてたんで、せっかくだから荷物のネズミ番として着いて行くことにしたんだ。あまり北の方には行った事が無かったし、ちょうどいいかと思ってよ。んで、流れ流れて着いた先が、今で言う旭川だったんだ」
腕に縋りつく氷雨をもう片方の腕で牽制しながら、猫田は思い出を口にする。今も昔も相変わらず人間の傍にいるのが好きな男だ、ネズミ番というのも嬉々としてやっていたのだろう、そのまま離れられなくなって旭川まで行ってしまったというところか。それにしても思い出を語る猫田はいつも優しい顔をするのだが、今日はその表情とは裏腹に、腕で氷雨と押し合いをしているのが気になって仕方がない。
狛は話に集中すべきか、二人の押し合いを止めるべきか悩みながらハラハラした様子である。
「あの頃の旭川は、まだあんまり開拓も進んでなくてな。俺は向こうで人間達と離れて、ぶらっと近くの山を散策してたんだ。そん時、熊に襲われてたのが、まだガキだった頃のコイツさ」
猫田はぐぐぐっと力を込めて氷雨の頭を掴んで引き剥がそうとしているが、氷雨は涼しい顔で抵抗している。氷雨の身体は冷たいので、猫田はあまり力が出せないようだ。
「そうそう、そうでありんした。あの不届きな熊めが、あちきのないすばでぃを狙ってきたのでありんした。全く、獣は油断も隙もありんせん」
「何がナイスバディだ、バカ野郎。…はぁ、あの時ついうっかり助けちまったのがマズかった。放っておけばよかったぜ」
「まぁ!なんてご無体な。あちきが熊如きの毒牙にかかって純潔を散らせば良うござりんしたと仰るのでありんすか?それはあんまりでござりんす…」
「バカ言え、熊程度がお前をどうにか出来るわけねーだろ。お前を一噛みしただけで、熊なんざたちまち凍って即あの世行きだ。大体、お前が熊の子どもを珍しがっていじめたから母熊が怒ってたんじゃねーか!」
「……はて?熊って何の生き物でありんしたっけ。覚えておりんせんねぇ」
「ハハ…」
しれっととぼける氷雨の様子が、なんだか少し恐ろしい。狛はお茶を飲みながら、苦笑いをするしかなかった。話をしながら、猫田は何度も氷雨を引き剥がそうとして失敗し、いい加減疲れたのだろう。湯呑に注がれていた、自分の分のお茶をグイっと一気飲みして、また盛大に溜息を吐いている。
「はぁ~~~…狛、茶、おかわり」
「ああ、うん。はい」
狛は電気ポットから急須にお湯を入れて、すぐにお茶のおかわりを用意する。最近は猫の姿でいる事の多い猫田が、人型でお茶を飲む姿は珍しい。そもそも猫田は甘党なので、日本茶はそんなに好んで飲まないタイプだ。氷雨が来たことで、よほど調子が狂っているのかもしれない。狛は少し心配しつつ、猫田の湯呑に二杯目を淹れてやった。
「はい、どうぞ」
「おう、サンキュ。……って、
「まあまあ!なんてこと!吉様が火傷しちまうじゃありんせんか、気をつけなんし小娘!吉様、大丈夫でありんすよ、あちきが冷まして差し上げんすからね。ほ~ら、ふぅ~ふぅ~」
そう言って猫田から湯呑を奪い取った氷雨が息を吹きかけると、熱いお茶の入った湯呑は一瞬にして凍りついてしまった。呆気に取られる狛と猫田に気付かず、氷雨は笑顔でそれを猫田に返す。
「はい、どうぞ!」
「ふざけんな、飲めるか!凍っちまってんじゃねーかっ!ったく、本当に加減を知らねぇ奴だな、お前は!……んで、結局、何しに来たんだよ?もう早く帰れよ…」
「だから、さっきも言ったじゃありんせんか。吉様を迎えに来たのでありんすよ。さぁ、一緒に
「そんな約束してねーよ!冗談じゃねぇ、あんな寒いとこに住めるか!そもそも俺にはやる事があるんだ。
猫田がそう怒鳴ると、氷雨はピタリと動きを止めてそのまま動かなくなってしまった。まるで氷の彫像のようだ。そのまま10分ほどの時間が過ぎ、いい加減心配になってきた所で、開きっぱなしだった氷雨の両目から滝のような涙が溢れ、流れ出した。
「そ、そんな…酷うござりんす……ああーん!あんあんあん!吉様に嫌われたぁーーー!ああーー!ああああああー!」
「うおっ!?ちょ、うるせ……落ち着けっ!」
「ちょ、ちょっと猫田さん!」
「ああ?げぇっ!?」
流れ落ちる涙以上に、氷雨から大量の冷気が漏れ出している。それは途轍もなく冷える低温の空気だ。瞬く間にソファが凍りつき、目の前のテーブルも、他の家具までもが次々に凍っていく。すぐ隣にいる猫田は流石に凍っていないが、余りの寒さで一気に体が冷えてしまった。このままでは桔梗の家全体が凍ってしまう。
「猫田さん何とかしてよ!?家が全部ダメになっちゃう!」
「わーーーーっ!解った、解ったから!しばらく居ていいから落ち着いてくれっ!頼む!」
猫田がそう叫んだ途端、氷雨は急に泣き止んで、猫田の顔を覘き込む。
「本当でありんすか?」
「あ?…ああ」
「うふふふふ、そんなにあちきに一緒に居て欲しいだなんて、吉様ったら本当に可愛いお方でありんすねぇ。えへへ、では、お言葉に甘えてしばらくご厄介になりんすね?」
「お、おう……」
さっきまで泣いていたのが嘘のように、氷雨は満面の笑みで猫田に抱き着いていた。同時に冷気は消えて、部屋の中の凍った家具もあっという間に解凍されたようだ。まんまとしてやられた猫田は溜息を吐き、狛は凍ってしまった家電が壊れていたら、桔梗になんと説明すればいいのかと頭を抱えるのだった。