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第228話 待ち人、襲来(きた)る

「ふぅ、ふぅ……相変わらず、人の街は暑うござりんすね。ああ、吉様…あちきがもうすぐお迎えに上がりんす…」


 日傘を差した真っ白な着物姿の妙齢な女性が、街中を歩きながらそう呟いた。街を行き交う人々は、彼女が通った後に異常な寒さを感じ、くしゃみをしたり身体を抱いて寒気に耐えたりしている。それは彼女の行く先々で起こり、多くの人々は首を傾げながらこれもまた異常気象かと自らを納得させているようだった。



『次のニュースです。季節外れの寒波が南下しており、各地で交通機関に影響が出ています。もうすぐ五月だというのに寒波というのは、ずいぶん珍しいですね?気象予報士の予知純よちずみさん』


『いやぁ、僕も気象予報士になってからずいぶん経ちますが、こんな時期に寒波というのは聞いたことがないんですよね……しかも、この寒波はずいぶんコンパクトで、半径10キロほどという小さい寒波なんですよ。北海道からゆっくりと南下しているんですが、これも地球環境の問題なのかと――』


 テレビからはそんな話が聞こえて来ている。昨今の温暖化を始めとした異常気象は、とかくニュース性が高く取り扱われるものだが、この超小型寒波も同じらしい。とはいえ、いつもは歯に衣着せぬ尊大な物言いで人気を博す気象予報士の男性が、今日はずいぶんと小さくなって話す姿が中々物珍しいようで、テレビ好きな猫田は猫の姿で興味津々といった様子でテレビにかじりついている。


「猫田さん、またニュース?好きだねぇ」


 狛がカップに淹れたコーヒーを片手にそう言うと、猫田はテレビの方を向いたまま尻尾で返事をしてきた。どうやら今は話し掛けられたくないらしい。そんなに異常気象に興味があるのかと狛は驚きと呆れが半々の様子である。


 先日のサハル襲撃から一週間、中津洲市とその周辺は、ようやく豪雨災害の後片付けも一段落してきた所である。さすがに10日以上も降り続いた大雨の影響はかなり大きく、しかも、人に眠気を誘う呪いの効果もあって、被害の詳細な状況が判明したのは、狛がサハルとザッハークを撃退した後であった。幸い、人命に係わる事態は避けられたものの、物的な被害は小さくない。特に山間部周辺の自然や建物に被害が集中しており、未だ封鎖されたままの道路もある。

 正確に言えば、山の木々が圧し折られているのは、水龍が猫田達を攻撃した跡なのだが、そこは猫田も敢えて黙っているようだ。水龍と戦ったのは猫田とあの黒い人狼なので、彼が居なくなってしまった以上、猫田が一人で責を追うのは面倒だというのは理解できる話なのだが、後始末に頭を悩ませる桔梗が可哀想だなと狛は思った。


 狛を助けにきたあの黒い人狼は、狛を水龍の腹の中から助け出した後、役目は済んだとばかりにどこかへ走り去ってしまった。猫田も魂炎玉こんえんぎょくでダムの水を全て消し飛ばすという荒業をこなした後で追いかける力も残っておらず、狛は意識を失った状態だったので、それっきりだ。結局、彼が何者で、誰に命じられて狛を助けようとしていたのかなどは、解らないままである。


(あの黒い狼さん、綺麗な毛並みだったなぁ。お礼くらい言いたかったけど、またいつか会えるよね?)


 コーヒーを啜りながら、狛はテレビを見つめる猫田を横目にそんな事を考えていた。本当の所はどうあれ、彼が狛を手助けするというのは確かなようだ。以前、白眉と戦った時もそうだったが、狛のピンチに颯爽と駆けつけてくれるのであればまた出会う機会もあるだろう。もっとも、そんなに何度も何度もピンチになりたくないというのが本音ではあるのだが。


 そう言えば、先日のサハルによる大雨も最初は異常気象によるものと思われていたのだった。まさか同じような事が二度続くとは思えないが、少し気になって狛もニュースに目を向けてみる。先程の男性気象予報士が、相変わらず予報が外れた事に平謝りしつつ今後の予報を続けていた。どうも小型寒波は日を追うごとに更に小型化しており、早晩消滅するのではないかという予測であった。ただ、進路予測ではここ中津洲市の方向に向かっているようだし、油断は出来そうにない。


「なんだ、もうすぐ消えちゃうんだね。じゃあ、別に心配要らないのかな」


 狛がそう呟くと、猫田はビクっと尻尾を立てて振り向いた。その顔は狛が思わずたじろぐほどに怪訝な表情で、猫のままでもこんなに感情を表現できるものかと感心さえ覚えたくらいだ。


「な、何…?どうしたの?」


「いや、なんかスゲー嫌な予感がすんだ。俺のこういう胸騒ぎは外れた事がねぇ……とんでもなく厄介な事が近づいてきてる気がする」


「はぁ…?」


 猫の姿なのに顔色が真っ青になっているような感覚に陥るのは、その声のトーンや表情の硬さや仕草によるものだろう。しかし、狛には猫田の深刻さがいまいち伝わっていないようだ。よく見ると小刻みに震えるほど、猫田は動揺しているのだが、それでも狛はあまり大袈裟に考えていないようである。

 その時、狛の足元に寝そべっていたアスラが顔を上げた。スンスンと匂いを嗅いでいる所をみると、誰か来客だろうか?アスラは郵便や宅急便に吠えたりはしないのだが、誰かが敷地に入ってくれば今のようにすぐ反応する。狛がアスラを落ち着かせる為に頭を撫でようとすると、玄関のインターホンが鳴って来客を告げた。


「あ、お客さんかな?はーい!」


「もし…どなたかおいでなんしんか?」


「なんしん…?なんだろ、方言かな」


「こ、この声…は……まさか…」


 何かを察した猫田を置いて狛が玄関に近づくと、扉の向こうから尋常でないほどの冷気を感じた。廊下はまるで冷蔵庫の中のように冷え切っていて、スリッパを履いているのに床が冷たく冷えているのが解る。もうすぐ五月のこの時期に、こんなに寒くなるなんて経験した事がない。第一、今朝起きてからつい今まで、寒さなど一切感じなかったのだ。しかし、現実に今この場は極寒の地のように冷え込んでいるのは体験している通りである。狛は不審に思いながらも自分で身体を抱きながら玄関へ向かった。


「は…はい、どちら様でしょう?」


「ああ、ようござりんした。いらっしゃいんしたね。あの、こちらに吉様がいらっしゃると聞いて、はるばる蝦夷からやってきたのでありんすが、ご在宅でありんすか?」


「吉、様?ええと、ちょっと解らないんですけど……」


 どうも声の主は女性のようだが、聞き慣れない言葉に加えて、吉様という謎の単語も出てきて狛は考えずに答えてしまった。すると、玄関の向こうから、より冷たく冷えた空気が立ち込めて、玄関のドアが凍りついていく。


「そうでありんすか?……吉様の気配も臭いもするんでありんすが、隠し立てすると為にはなりんせんよ?ああ、まさか、あちきと吉様の逢瀬を邪魔するおつもりでありんすか?」


「え…?」


 女の声がワントーン低くなって、身の毛もよだつような殺気が流れてきた。何事かは解らないが、どうやらこの寒さをもたらしているのはこの女性らしい。異様な気配を感じ、狛が振り向いて猫田を呼ぼうとすると、当の猫田は窓を開けて外へ飛び出そうとしている所だった。


「あっ!猫田さん!?」


「ば、バカ!狛、呼ぶんじゃねぇっ!」


「ああ!吉様、やっぱりいらっしゃったじゃありんせんか!!お会いしとうございんした。主さんの氷雨がやってまいりんしたよ!」


「ぎゃああああ!寒い寒い寒い、放せぇっ!ひ、氷雨、やっぱりお前かよ!何でお前がここにいる!?」


 あっという間の出来事に、狛は開いた口が塞がらないようだ。さっきまで玄関の向こうにいたはずの女性が、一瞬の内に移動して、リビングの窓から出ようとした猫田を捕まえて抱き締めている。猫田は絶叫を上げながら離れようとしているが、猫の姿では逃げられないようだ。ガタガタと震えているのは、寒さからか、或いは女性自身に問題があるのかは定かではない。


「どうしてって、それはもちろん愛しい吉様に会いに来たのでありんすよ。さぁさ吉様、あちきと一緒に帰りんしょう。大雪山おやまに」


「い、嫌だあああああっっ!!」


 こうして、猫田にとって最悪の三日間が幕を開けたのであった。

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