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第227話 猫と狼

 狛が踏み砕いた氷の刃は、ザッハークの血を取り込んだ無数の氷の結晶となって狛の周囲に浮いている。それを吸い込んでいたのだとしたら、確かに、狛はかなりの量の毒を取り込んでいるに違いない。

 勝利を確信したザッハークはニヤニヤと笑みを浮かべて、狛を嘲笑っていた。押し黙る狛は敗北を悟っているのだと、そう考えているようだ。


「ククク…貴様が吸い込んだであろう血の量は、先程流し込んでやった毒とは比べ物にならぬ。少量の毒ならば、その霊力で無力化する事も出来ただろうが、今度はそうはいかんぞ。何せ貴様の攻撃はよく効いたからな。……ああ~痛い痛い。恐るべき馬鹿力であったなぁ?」


 これ見よがしに痛む素振りを見せているが、ザッハークのダメージは既に完治している。本人が言っているように、狛の連撃は相当な猛攻だったはずだが、それが瞬時に回復しているとは、不死身の肉体を自称するだけあって、とてつもない回復力だ。対する狛は、そんな煽りを受けても、俯いてじっと黙ったままで立ち尽くしていた。既に毒が回りつつあるのか、目をつぶって、浅い呼吸を繰り返している。


「……さて、その量の毒をも中和できるとは思えんが、念の為だ。この手でその首を落としてやる。いかに霊力が高かろうとも人間は人間…、首を落とされては生きてはいられまい。いや、待て……せっかくだ、と行くか」


 ザッハークはそう呟き、ベロリと舌なめずりをして、狛の元へ歩き出した。かつて、魔王として人間の国を支配したザッハークは、千年もの長きに渡って、日に二人の人間の脳を食らいその力を維持してきたという。その時の事を思い出しているのか、ザッハークの目にはいくつもの浅ましいの色が浮かびあがっていた。




 一方、その頃、猫田は大型の猫の姿になって、目的地のダムへとひた走っていた。空中に自らの霊気で足場を作り、飛ぶように走るその背には、普段ならば狛が乗っているのだが、狛はいない。代わりに乗っているのは、あの狼の気配をした若い男である。


「おい!仕方ねーから乗せてやってるが、俺はまだお前の事は信用しちゃいねぇからな!?」


「……解っている、だが、これも狛の為だ」


 無表情に呟く男の様子からは、決して嘘や偽りを語っているようには見えない。何が信用できないのかと言えば、彼が一切自分の事を話そうとはしないからだ。狛を守れと命じられたと言っていたが、それが誰からの命令なのかも口にはしないし、名前くらいは名乗ってもよさそうなものだがそれも頑なに言おうとはしない。それだけ聞けば胡散臭さしかないのだが、狛の事を考えているという点に関しては疑う余地がない。そこだけは、猫田も直感で信じられるようである。


「しかし、雨が上がって狛の気配がはっきり感じられるようになったのはいいが…オマケにとんでもないヤツが狛の傍に居やがる…!一体、何がどうなってやがるんだ!」


「…敵の事は俺も知らない。だが、急がなければ狛が危ないのは明らかだ。もっと急いでくれ」


「文句があんなら自分で走りやがれっ!…そもそも、テメェ人狼なんだろ?なんで里を離れてこんなとこにいるんだよ」


 猫田が怒鳴ると、男は黙って口を閉ざしてしまった。さっきから、ずっとこの調子である。どうやら彼には答えたくない質問があるらしく、それに類する問いを投げ掛けると、貝のように口を閉ざしてしまう性質のようだ。くりぃちゃぁを出る前から繰り返していたやり取りだけに、猫田はうんざりして話を変えた。


「……答えたくねーんならもういい、同じ事の繰り返しだからな。お前が敵じゃねぇのは何となく解るぜ。狛を守ろうってのもまぁ、ウソじゃねーんだろう。だが、もし狛に近づいてあいつに何かしようってんなら、そん時は黙っちゃいねぇぞ?覚えとけよ」


「解っている。俺は狛を傷つけるような事は絶対にしない、人狼の血に懸けて、約束しよう」


「名前も名乗んね―やつの約束に意味があんのかよ…ん?なんだ?ありゃ」


 猫田が気付いたのは、ダム湖の真ん中に立つ、巨大な水柱であった。大量の水が垂直に吹き上がっていて異様な存在感を放っている。よくよく目を凝らしてみれば、それはあの時狛を飲み込んで消えた、巨大な水龍だ。以前とは違って、隠れるつもりはないらしい。そして、予想通り狛の気配は、その水龍の中から感じられていた。


「ちっ!予想はしてたが、狛はまだアイツの腹の中か!厄介だな」


「あれを倒さなければ狛を救えないようだ、やるしかない」


 猫田達が近づいていくと、水龍は首をもたげてその動きを目で追っているようだった。しかし、猫田達から殺気を感じたのか突如として動き出し、牽制するように咆哮を放った。巨体から放たれるその叫びは、遠目からでも空気が震えるほどの振動で、空気の塊が大質量の弾丸となって猫田達を襲う。

 猫田は即座に走る方向を変えてそれを回避したが、木々は薙ぎ倒され直撃した山が震えるほどの威力であった。


「あっぶねー!冗談じゃねぇや。…おい、やるって言ってもどうするつもりだ?俺はともかく、このデカブツ相手にお前は戦えるのかよ」


「問題ない。じき夜になる…月が上がれば、俺達人狼の時間だ」


 そう言って、男は空を見上げた。既に夕日は落ち、大雨をもたらしていた雲はまだ空に残っているが、その隙間からは薄っすらと白い月が見えている。今夜は満月ではないが半月なので、太陽が完全に沈み切る前から月が見えていた。雲間から覗く月が俄かに輝き始めると、男の身体が見る間に狼へと変化していく。


「ォ、オオ……オオオ…ッ!ゥ、オオオォォォン!」


 遠吠えを上げて変化したその姿は、あの天狗達と戦った黒い狼の姿であった。ただ、あの時よりも数段強い霊力に溢れていて、体格も大きくなっている。黒狼はそのまま猫田の背を蹴って飛び出すと、空中を駆けて水龍へと突撃していった。


「う、うるせっ!背中で騒ぐんじゃねー!ったく!」


 猫田も愚痴りながら大きく旋回して、黒狼とは別の方向から水龍の元へ飛び込んでいく。同時に尾から魂炎玉こんえんぎょくの炎を生み出し、水龍への牽制に使った。水龍はあまり頭がよくないのか、二方向からの敵に戸惑いを見せていたが、暗がりでもよく見える猫田に狙いを定めて、再び強力な咆哮を放った。


「っと…!当たらねーよ!」


 加速してそれを回避した猫田は、魂炎玉から熱光線を放って反撃を試みる。しかし、それは水龍が纏う大量の水に阻まれ、本来の威力を発揮していないようだ。その隙に接近した黒狼も、霊力を帯びた爪で斬りかかったが、やはり水の壁が邪魔をして本体まで届いていない。二人は僅かに距離を取り、空を駆けながら合流した。


「ちっ!あの水が邪魔だな」


「水を何とかしてくれれば、俺がトドメを刺す。出来るか?」


「へっ!俺を誰だと思ってやがんだ。出来ねー訳ねぇだろ。…だが、悪いがそれをやったらしばらく動けねぇ。本当にその後は任せていいんだろうな?」


「…ああ、任せろ」


 目に留まらぬ速さで並走しながら二人は頷き合い、次なる手に打って出た。まず猫田が高く飛ぶと、七本の尾からなる魂炎玉の炎を一つの塊に変えた。そして、ありったけの霊力を込めて、巨大な火球へ変化させていく。

 その間、黒狼はあえて水龍の視界を乱すように飛び回り、その注意を引いて翻弄する事に専念していた。水龍は苛立ち、何発もの咆哮を放ったが、そのどれもが黒狼には当たらない。彼の走る速さは猫田以上であった。

 十数秒後、水龍がそれに気付いた時にはもう遅かった。魂炎玉から生まれた炎は、水龍の身体の半分をも飲み込む巨大な塊になっていた。


「喰らえ!」


 猫田の叫びを合図に火球はダム湖の水へぶつかって、大量の水が瞬く間に蒸発していく。それに伴って水蒸気爆発のような凄まじい爆風が起こると、水龍の身体から水が取り除かれ、水龍の首が露わになった。そこへ爆風に紛れて接近していた黒狼が、その首目掛けて突撃する。


「ウオオオオオオォォッ!!」


 黒狼の首から、霊力でかたどられた大きな狼の口が出現し、水龍の喉元へその牙を突き立てた。水龍の正体は超巨大な蛇の魔物であり、水を纏う際に龍のような姿を形成していたらしい。大きな出血音のあと、首を噛み千切られた水龍…いや、蛇の魔物は、干上がったダムの中に崩れ落ちていった。






 時を同じくして、その体内にいた狛達の戦いも、決着の時を迎えようとしていた。ザッハークは下卑た笑みを浮かべて、狛の脳を喰らうべくゆっくりと近づいていく。一方の狛は毒の影響なのか、黙ったまま微動だにせず立ち尽くしたままだ。

 そうして、ザッハークが狛の目前に立った、その時だった。


「クク、では頂くとするか。……ぬっ!な、なんだ!?」


 突如、地面が大きく揺れて胃壁から血液が流れ出した。薄く光っていた壁や地面が発光を止め、凄まじい揺れは更に酷くなる。突然の出来事に油断していたザッハークの体勢が大きく崩れ、その隙を突いて、狛は手の中に忍ばせていた一枚の符をザッハークの胸に貼り付けた。そして間髪入れずに七発、点を穿つようにザッハークの身体に突きを打ち込んで、大きく後ろへ飛び退けた。


「なっ!?貴様、まだ動けたのか?!いや、これは一体、何をした!?」


 狼狽えるザッハークの身体にぼんやりと蒼白い光が浮かんでいる。霊符も同様に光を放ち、何かの術が発動し始めている事を示しているようだ。狛は肩回りで揺らめく羽衣…九十九つづらを、揺らして見せた。


「あなたの毒は、九十九つづらが防いでくれたわ。九十九は着物の付喪神だから、あなたの毒は効かないの。ありがとね、九十九つづら


「そ、その領巾ヒレが妖怪だと…!?ぐっ、おのれ舐めた真似、を……!?」


 怒りを露わにするザッハークだったが、次の瞬間にはその腕がボロボロに崩れ始めていた。何もしていないというのに、乾ききった土塊のように脆く粉々になっている。


「な、なんだ!?どういう事だ、儂の…儂の腕がッ!?」


「今貼り付けたのは、北斗七星符…道教の神、死を司る北斗星君の力を込めた霊符。発動するのに物凄い霊力が必要で、ほとんど誰も使えた事がないんだけど…私の霊力でギリギリ足りたみたい。おかげでちょっと、立ってるのもツライ、んだけど…」


「し、死の神、だと…?」


「そうよ、北斗七星符は北斗星君の力を呼び、現世に降臨させるもの…一度発動すれば、どんな相手にも必ず死がもたらされる。例えあなたが不死身の肉体を持っていても」


 バカな、と言いかけたザッハークの胸には、霊符と共に七つの点が光っていた。それは北斗七星の星座だ。段々とその光が強くなればなるほど、ザッハークの身体は崩れ、砂とも土とも知れない何かに変わっていった。北斗星君は死を管理象徴する神ではあるが、先日の死神とは訳が違う。道教の主神級の大神たいしんである。その力は凄まじく、魔王と言えどおいそれと反発できない非常に強い力であった。


「か、神の力などと……!アアアア、儂の、かッ身体がぁ!」


 どんどんと崩れていく身体を目にして、ザッハークは取り乱し、半狂乱となっている。しかし、暴れようにも既に両腕は崩れ、両足も原形をとどめていない有り様だ。自慢だった不死身の肉体が見る影もなく崩壊していくことに心の底から絶望している。


「お、おのれぇッ!人間、如きがァッ!!く、クソオオオッッ……」


 最期に、断末魔の叫びを上げてザッハークはあえなく塵と化した。それを見届けた後、狛は力尽きその場に倒れ込んでしまった。


「さ、さすがに北斗七星符を一人では……キツイ、かも…逃げる力も、もう………」


 もはや、人狼化を維持する霊力も残ってはいない。狛は朦朧とする意識の中、胃壁を突き破って飛び込んできた黒い狼の影を見て意識を失った。

 こうして、長い長い雨模様はようやく終わりを告げた。狛を咥えて出てきた狼は、月明かりの下でその黒い毛並みを金色に輝かせていた。

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