立ち昇る狛の霊気と張り合うように、ザッハークの身体からじわじわと魔力が染み出している。現実を怪しい澱みへ塗り替えるべく浸食しているかのようなそれは、抵抗力のないものが目にすれば立ちどころに飲み込まれ、身体を蝕まれることだろう。かつて千年もの間、人を食らい続けてきた魔王というだけあって、恐ろしい程の禍々しさだ。
これまでに、狛は2人の魔王を名乗る存在と出会った事がある。それはあの
「…あ…あぁ……」
息も絶え絶えとして、それでもこちらへ手を伸ばすサハル。今、彼女の目に映っているものが何なのだろう。その命が裏切りで終わろうとする最中、復讐に駆られて国から持ち出した守護幻獣が実はまやかしで、本当は人に仇なす魔王であったなど絶望してもおかしくない事態だ。だが、ザッハークが解放してみせている力は、今までよりも遥かに強い。狛や、犬神家の一族、そしてカメリア王への復讐に囚われてきた彼女にとって、その力は何よりも心強いものであるはずだ。復讐を遂げるに足る力が目前にあるのなら、或いはそれが彼女の本懐であるのかもしれない。
「フフフ、復讐が貴様の望みなのだろう?叶えてやろうではないか。目の前のこの女と、この国の全ての人間共……そして、愚かにもこの儂の支配に抵抗し、儂を封印までした
そう言い放って嘲笑うザッハークは、さらにその魔力を強く放出してみせた。確かに、これだけの力があれば、一つの国を亡ぼす事も可能かもしれない。そう思わせるほどの圧がある。さすがは魔王というべきだろう、そうして、サハルは伸ばした手を地に落とし、その一生を終えた。
「ギ、ギン…ザ…さ、ま……」
最後に呟いたその名は、ザッハークでも狛でもない。サハルが本気で愛したであろう男の名である。狛はそれほどまでに人を愛した経験がなく、またサハルは自分や家族の命を狙う許せない相手ではあったが、その想いの強さだけは胸に来るものがあった。それほどの想いを寄せる相手に出会えた事が、羨ましいと思う日がいつか来るのだろうか?時代錯誤な言い方ではあるが、同じ女としては少し気になる所ではある。
そして、狛は目を閉じ、短い時間とはいえサハルへ鎮魂の祈りを捧げた。憎むべき相手さえ憎みきれないその甘さこそ、狛らしさであるのだが、眼前に立つザッハークはそんな感傷を認めようとはしない。それが魔という存在故か、或いは戦って敵を殺すことにのみ生きてきた修羅の男の性質なのか、それは誰にも解らない。
「フン、自分の命を狙い、傷つけようとしてきた相手の為に祈るか。なんと惰弱な、これだから女というものは度し難い。戦場で感傷に浸ってなんとする?実に愚かだ。そもそもその女も、分不相応に復讐など望まねば、儂という我が身を喰らう毒に侵されずに済んだものを。しかも、最期に呼ぶ名がそれか!フハハハ!それが人間の限界よなぁ!」
その言葉を聞き、狛はザッハークを睨みつけていた。女性に対する偏見に怒ったというよりは、サハルという人間の想いを貶した事に対する憤りだ。人の情緒や感情などを理解しないのが魔という存在なのだろうが、それを黙って聞き流せるほど、今の狛は穏やかではない。イツと完全に同調している狛は、狼そのものの獰猛さを秘めている。
「あなたが女にどんな考えを持っていようと私には関係ないし、別にいいけど…こんなに強く人を愛した彼女のことを、バカにするのは許せない!」
「ハハハハ!笑わせてくれる、儂が人間に許しなど乞うものか!多少の力はあるようだが、所詮は人間の小娘か。安心しろ、儂は誰であろうと分け隔てなく殺して食ってやる。貴様は女であっても贄として悪くなさそうだしなぁ!」
「そう、なら、覚えておきなさい。あなたを倒すのは私……あなたがそうやって見下す、人間の女よ!」
普段の狛よりもずっと強い感情で、狛が咆えた。滲み寄るザッハークの魔力は、その一喝だけで散逸し、闇に溶けていく。狛の霊力は留まるところを知らずに強く
そんな二人の力がぶつかってせめぎ合い、戦う前から周囲に影響を及ぼし始めていた。廃墟だけでなく、散らばっている様々な物が破裂したり破壊されたりしている。いくつもの破壊音の後、廃墟に残った窓ガラスが激しい音を立てて割れた瞬間、二人は動き出した。
「はっ!」
細かく切った息を吐き、狛が跳ぶ。二人はおよそ3メートルほど離れていたはずだが、そんな距離などものともせずに、狛は一足飛びにザッハークの懐へ飛び込んだ。その勢いのままに右の拳を放ち、すれ違いざまにザッハークの脇腹に命中する。
「ぬぅっ!?」
明らかに油断をしていたザッハークは、その一撃を躱すことなくまともに食らっていた。今、手袋のように狛の拳から肘の下までを覆っている蒼銀の薄い毛皮は、手甲のような役割を担っている。今まではその霊力を爪の形にしていたが、違う形になっているのは、よりその力が攻防に洗練されたからだろう。ザッハークの脇腹は見事に抉られて、夥しい程の出血をしていた。
「はあああああぁっ!」
ザッハークの左隣に立ち止まった狛は、次にその場で跳んで身体を回転させるようにひねり、蹴りを放った。とび後ろ回し蹴りである。狛の両足にも、手先と同じでブーツのような形をした霊力の毛皮が覆っていた。さすがにそれをまともに受けるのはマズいと判断したのか、ザッハークはその蹴りを両腕で受け止めてみせた。だがしかし、予想以上の破壊力を持っていた狛の蹴りは、ザッハークの両腕を容易く破壊して、その胸にめり込んでいた。
「グハッ!?グアアアアッ!!」
ザッハークは吹き飛ばされ、サハル同様に廃墟となった建物の壁に激突し、それを突き破って吹き飛んでいった。凄まじい破壊力だ。狛がその場に立って、飛ばされたザッハークの行方を睨んでいると、崩れた廃墟の壁の向こうから無数の瓦礫が狛に向かって放たれてきた。
「っ!…はぁっ!」
狛はそれらの瓦礫を、自身の前に霊力の壁を展開して防ぎきった。元よりそんな攻撃が通用するとはザッハークも思っていないはずだ。すると、警戒していた狛の背後に、突然ザッハークの姿が現れた。破壊されたはずの両腕は完璧に再生しており、魔力をふんだんに込めた拳の一撃が狛を襲う。
「死ねぃッ!!」
しかし、完全に隙を突いたであろうその攻撃は、虚しく空を切るだけだった。狛は予めその動きを予想していたからだ。後ろを見ずに腰を屈めて正拳を躱し、そのまま尾でザッハークの身体を掴み取って再び豪快に投げつけた。
「な、なにぃッ?!」
投げ飛ばされながら驚愕するザッハーク目掛け、狛は後を追うように数歩加速して飛ぶ。そして、その身体が廃墟の壁に当たる瞬間、強烈な狛の蹴りがザッハークの身体を捉えていた。
「グ、オォッ!」
狛の蹴りと投げた勢いの威力が合わさって、爆音と共に廃墟は完全に倒壊してしまった。狛は建物が崩れ落ちる前に飛び退けたが、依然として、ザッハークの魔力は消えていない。これだけの攻撃を受けても、ザッハークはまだ生きているのだ。
「ぐぬぬぬぬッ!許さんぞ、貴様ァッ!!」
自らを押し潰そうとする瓦礫を弾き飛ばし、ザッハークは怒りに任せた叫びを上げた。その間にも、受けた傷がみるみると塞がって回復している。狛は、少しだけ眉をひそめてその様子を見ていた。
「やってくれたな…!確かに思ったより実力があるようだ。しかし、いくら力があろうとも、この儂は倒せん!かつての英雄でさえ殺しきれなかったこの不死身の肉体、貴様如きに破れるものか!!」
そんな怒号と共に、地面が大きく揺れた。同時に、一瞬奇妙な感覚がしてどこまでも広がっていた空間は、かなり狭い空間に変わったようだ。しかも、あちこちの壁から奇妙な臭いのする液体が流れ出してきて、それが触れた物体はグズグズと溶け始めている。
「あれは…もしかして、胃液?そうか、サハルさんが死んじゃったから……」
狛は、ここが生き物の体内であることは予想していた。今まで何ともなかったのは、恐らくサハルが何らかの魔法を使って、無事な空間を維持していたからだ。しかし、そのサハルはもういない。まだ狛達の元へは届いていないが、あの胃液がここに来る前に、決着をつけなくてはならない。
狛は改めてサハルの遺体を見つめた後、ザッハークを見据えた。戦いの決着は、間近に迫っている。