「わ、私の……家族、まで…狙う、の…?」
絞り出すような狛の声は、微かだがよく通る声だった。今にも荒い息にかき消されてしまいそうなか細い声だというのに、サハルもザッハークにもしっかりと聞き届けられたのは、その声に霊力が伴っていたからである。だが、勝利を確信し、意識の高揚と油断に塗れたサハルは、その違和感に気付けない。
「もちろんだ。貴様の一族郎党全て、一人残らず苦しめて殺してやる…!本来であればそれだけでもまだ飽き足らんのだぞ?それほどの重罪を犯したのだ、貴様らはな!」
淀んだ瞳の色を更に濁らせて、サハルは叫んだ。彼女にとって、ギンザを失った事がどれほどの損失であったのか、その様子だけでも手に取るように解るだろう。狛はほんの少しだけ同情する気持ちが芽生えたが、だからと言ってその暴挙を許すわけにはいかない。狼にとって、家族を守る事は、何より最も優先すべきことだからだ。
「……させない。絶対に、それだけは…っ!」
「ん?」
狛はそう呟くと、全ての意識が一つに集約していくのを感じていた。ずっと守ってくれてきた猫田は今、ここにはいない。当然だが、京介も宗吾もだ。そして何より、幼い頃から自分を守り助けてくれた兄、拍と家族の命が懸かっている。自分がやるしかないのだ、仲間を、家族を……群れを守る為に。
(そうだ、宗吾さんに言われたばかりだもん。私はもう…助けを待ってるだけじゃ、ダメなんだ!)
狛とて、いつも猫田が助けに来てくれると、都合のいい事を考えて戦っていたわけではない。だが、常に助けてくれる家族がいると、どこかで信じて甘えがあったのも事実だ。群れで生きる人狼ならば、それは決して間違ってはいないが、自分の力だけで解決せねばならないこともある。現代で言えば相当スパルタな宗吾が拳骨と共に教えてくれたのは、その覚悟だったと狛は改めて実感した。
「ぐっ…ぐくっ、ぅ…ううう!」
刻一刻と毒が回っていくのを実感していた狛だったが、決意と覚悟を決めて、今はその痛みを忘れようとしている。さっきまでは身体を引きずり、這う事しか出来なかった狛の身体が極々ゆっくりと動き出し、狛はその場で立ち上がった。
「な、バカな…立った、だと……!?ざ、ザッハークの妖毒だぞ!指一本動かすだけで、想像を絶する激痛のはずだ!ど、どうやって!?」
「はぁ、はぁ…」
驚愕するサハルの前で、狛は黙って立ち尽くしている。呼吸は荒く、顔色は血の気が引いて死体を思わせるほどに真っ白だ。慌てふためいていたサハルは、狛の様子を見て、怪訝な顔をしてから笑った。
「なんだ、立ち上がりはしたが、それだけか…そうだろうな。ふ、驚かせおって。立っただけでも大したものだが、貴様はもう終わりだ。今度こそ縊り殺して引導を渡してくれる!」
(落ち着いて…痛みなんて感じてる暇ない。……私が皆を、家族を守るんだ。宗吾さんも言ってた。強くなって、群れを守る力を持てって……だから!)
サハルは怒りに任せ、手にした杖から巨大な火球を作り出した。赤々と燃える炎は、やがてどす黒い不気味な色合いへと変化していく。轟々と燃え盛る昏い炎の音に混じって、周囲には悲痛な叫び声が響き始めた。
「アハハ!見ろ、私の
杖の先から
「ハハハハハ!どうだ、一溜りもあるまい!死体も残らぬ炎にしたのは失敗だったかもしれんな!ハハハハハハ、ハッ…!?」
炎の中に立つ狛の身体は、一切燃えてはいなかった。いや、身体だけではない、その身に纏っている
「こ、これ…は!?」
やがて、狛の身体に変化が起き始めた。蒼白い光を放つ霊気が手先や足先に集中し、薄い手袋状の毛皮に変わる。また、花魁太夫が着崩したような形だった着物の
「私が守るんだ…皆を!」
これまでよりも大きく美しい毛並みの尾と、ピンと立って力強く主張している狼の耳は、狛が人狼として次の段階へ引き上げられた証である。猫田より伝えられ、犬神宗吾が編み出したという狗神走狗の術は、元々彼らに憑りつく犬神と自らの
その為、これまでの狛はイツを身体に宿して力を引き出しているだけで、狛とイツは別個の意志を持っていた。狛が意識を失った際に、イツが代わりに体を動かせたのもそれが理由であった。だが今、狛は家族という群れを守るという、狼が持つ本能の一つに意識を特化している。それは、イツの本能・思考と全く同じものだ。ここへきて、狛はイツと本能で一体化し、魂レベルでその力を同調させてみせた。奇しくも、狗神走狗の術を編み出した宗吾ですら到達しなかった領域へと、土壇場で辿り着いたのである。
薄暗い空間が、狛の放つ霊気の輝きによって眩しい光に包まれていた。サハルの言によれば、ここは何者の腹の中であるはずだが、これだけ強大な力が発生しても影響はないようだ。サハルが何らかの魔法をかけているのかもしれない。
そんな狛の身体から溢れた霊気は、サハルの魔法を防ぎとめただけでは収まらなかった。その力によって黒炎は徐々に小さくなって消えていっている。それに応じて耳に残る悲しい叫び達も聞こえなくなっていた。
「ば、バカな…そんなバカなことが!?
サハルは、狛をまるで怪物でも見るかのように恐れ慄いていた。立ちどころに命を落とすはずのザッハークの妖毒は完全に打ち消され、自らの最大の魔法さえも通用しないとなれば、そうなるのも当然だろう。そのまま一歩、二歩と後退するうち、やがて後ろで見守っていたザッハークに体がぶつかった。その時である。
「……これまでだな」
「え?……あ…」
ザッハークの呟きと共に、サハルの身体が何かに貫かれていた。サハルも狛も、一瞬何が起きたのか解らず、その光景に目を見張っている。貫いたものは、ザッハークの肩から生える蛇の頭だ。それはサハルの背中から内臓と腹の肉までをも喰らって咀嚼し、彼女の血と魔力を吸い尽くしている。
あっという間に魔力を吸い尽くされたサハルの身体は、用済みのゴミのように放り投げられ、廃墟にぶつかって落ちた。それは一目で解るほどの致命傷だ、逆に即死していないのが不思議な程の大怪我である。
「な……な、ぜ…?」
「フフフ、ククク、フハハハハハハ!!何故だと?愚かな
「あなた…!」
狛はすぐに身構え、警戒してザッハークの方を見た。その顔はサハル以上に醜悪に歪み、不気味な仮面のように不自然なほど口の端が上がっている。
「改めて名乗ってやろう。我が名はザッハーク…かつて、千年に渡って古の王国を統治し、人間の脳を食らって生きた魔王の一柱よ!」
名乗りを上げ、恐るべき力を解放するザッハークに対し、狛は一歩も引かず立ち向かう決意を固めるのだった。