「クソっ!まだ狛は見つからねーのかよ!」
くりぃちゃぁの店内に、激しく憤る猫田の声が響いている。苛立ちの余りテーブルを叩いているが、さすがは妖怪が働く店のテーブルだ、猫田の力でもビクともしないとは相当な頑丈さである。種明かしをすると、店の備品には土敷により一定の妖力や霊力が込められていて、妖怪の力に耐えうるものへと変質させてある為だ。
これは赤鬼である鬼部や、普段は人間状に変化していても元々の肉体が頑強な沼御前のショウコのように、特に力が強い妖怪達への配慮であるのだが、こういう時に役に立つのはやや皮肉である。
「…猫田、気持ちはわかるがモノに当たらないでくれ。それに、
そう言って場を治めようとする土敷の拳も、血が滲むほどに強く握られていた。狛が心配なのは猫田だけでなく、くりぃちゃぁの妖怪達皆がそうなのだ。猫田もそれが解っているので、土敷の言葉に従う他ない。雨の勢いは衰えを知らず、未だ降り続けたままだ。先程から市の防災無線が流れていて、河川の近くに住む住人達には避難指示が出始めている。ただ、この雨に長く当ると人間も意識を失う危険があるのだ。狛の他にも親しい人間達に被害が拡大しない事をそれぞれが願っていた。
その時、くりぃちゃぁの店内に、何者かが入ってきた。普通、入口のドアを開ければ備え付けられたベルが鳴って、客の来店を報せるようになっているのだが、何故かその音がしなかった。では何故誰か入ってきたのかが解ったのかと言えば、ちょうど猫田と土敷の視線が店の入り口を向いていたからに他ならない。
「すいません、今日は休み、で……」
そう言いかけて客の姿を見た土敷は、言葉を失った。入ってきた客は若い男で、ボロ布のようなマントを肩から被って、全身を覆っている。顔つきは整っていて、一般的には美男子と言ってもいいだろう。ただその纏っている気配が只事ではなかった。敵意こそ感じられないが、鋭い眼光からは冷たい気配を放ち、猫田を正面から見据えている。漂う霊気の強さも相まって、とても見た目通りの人間には思えなかった。
(コイツ…なんだ?狼……?)
土敷はそう直感した。姿形はどこからどう見ても人間なのに、何故狼だと思ったのかは解らない。
「何だ、お前。……どっかで会ったような気がすんな?…お前、もしかしてあの時の」
猫田も同様に、男が人間ではないと悟ったようだ。そして、猫田にはその気配と感覚に覚えがあった。あの人狼の里で、白眉と戦っていた狛を助けた黒い狼…男の気配はその雰囲気に瓜二つだったのだ。そんな猫田の問いかけに、男は応えることなく用件のみを答えた。決して大きくはないが、しかし澄み切った風のような爽やかささえ感じる声だった。
「狛が、危ない」
「何…?」
「狛は今、危険な相手と一人で戦っている。助けに行ってやりたいが、強い力で阻まれていて、俺は行けない。…お前の力が必要だ」
男はほとんど感情の込もっていない言葉で、そう言った。僅かな悔しさを滲ませているように感じたが、表情は無表情のままだ。一方、相対する猫田は感情を剝き出しにして、男に食って掛かっていた。
「狛がどこに居るのか知ってるのか!?教えてくれ、アイツはどこにいる?!危険な相手ってのは一体なんなんだ!?そもそもテメェは……!」
「猫田、落ち着け!」
土敷は猫田を抑えようとしたが、如何せん体格に差があり過ぎる。精々10歳程度の男子児童ほどしかない身体の土敷では、猫田を抑える事など出来はしない。騒ぎを聞きつけて、店の奥からカイリや鬼部が飛び出してきて猫田をようやく止める事が出来た。狼のような男は、そんな猫田の剣幕など意に介さず、静かに目を伏せている。
「俺が誰かなどどうでもいい。俺は、狛を守るように言い付けられただけだ。…だが、俺個人としても、狛には無事でいて欲しいと思っている」
男の涼やかな声は、苛立ちの溜まっていた猫田の心から、ふっと熱を取り払っていくようだった。それでいて、冷や水を浴びせられるような嫌な感覚ではない。不思議と落ち着きを感じさせるものである。その様子に気付いた鬼部達は、猫田を抑える力を緩めた。皆、ホッと胸を撫で下ろした形だ。はっきり言って猫田が本気で暴れ出したら、ただでは済まない。怪我人が出るのを覚悟してでも全員で立ち向かわなければ、猫田は止められないのだ。
狼のような男は、黙って静かに歩き出し、テーブルの上に広げてあった、中津洲市街の地図に触れた。
「…狛は今、ここにいる。怨念と憎悪の塊が、狛を捕らえている」
「そこは……」
男が指し示したのは、中津洲市の北部に位置するダム湖だった。比較的大きな都市である中津洲市全体の水がめとして機能しているダムである。ここならば、あの大きな水龍も身を隠せるだろう。どうして気付かなかったのか、土敷を始めとした誰もが驚いていた。無理もない、サハルによってそういう魔法をかけられていたのだ。つまり、認識を阻害する魔法である。湖自体が人の意識から外され、注意を払えなくなる…そういう魔法だ。
「そこに、狛が……!」
猫田はそう言って、強い意思の炎をその目に宿していた。もう二度とミスはしないと、己の心に刻みつけるような、強い覚悟であった。
「はぁっはぁっ…!く、うぅぅ…!」
その頃、狛はザッハークとサハルを前にして倒れ込み、苦痛に顔を歪ませていた。ザッハークの毒によって、身体中が燃えるように熱い。それだけでなく、全身がバラバラになるような激痛と、身体中の神経を貫くような鋭い痛みが交互にやってきて、呼吸することさえままならないほどだ。火照り切った身体を冷やそうと、全身から汗が吹き出し、喉はカラカラに渇いて、自分の息にさえも焼け付くような熱を感じる。
このままでは、自分は確実に死ぬ。そんな風に全身が悲鳴を上げているようだ。それでもなんとか、痛みに震える身体を引きずって、ザッハークとサハルから距離を取ろうとしている。そんな狛を見下し、嘲るようにサハルは醜悪に口を歪めていた。
「ハッハッハ、どこへ行くつもりだ?ここから逃げ出すなど不可能だぞ。しかし、気分がいいな。ギンザ様を直接殺したのは貴様ではないが、貴様にも煮え湯を飲まされたからな。この手で苦しめてやろうと思っていたのさ。ククク、そんな貴様がまるで芋虫のように這って、私達から少しでも離れようと無駄な努力をしている。……ああ、たまらない!ギンザ様にお見せしたいよ、その無様な姿をな!アハハハハ!」
自分の身体を抱くようにして身をよじり、恍惚とした笑みを浮かべるサハルの姿は、恐ろしい程に歪み切っている。恨みつらみ、そんな憎悪に身を委ねた人間の醜さが全て詰まったような、そんな姿であった。
狛は苦痛に耐えながら、サハルから少しでも離れようと這いずっている。どんなに無様と罵られ嘲笑われようとも、ここで座して死ぬわけにはいかないのだ。その強い意思が、狛の身体を突き動かしている。だが、次にサハルが放った言葉が狛の心に火を点けた。
「ふん。そうしている貴様を眺めているのもいいが、そろそろ時間だ。私の狙いは貴様だけじゃないからな。…知っているぞ、貴様の兄は昏睡状態にあるらしいな。どこに匿われているのかまではまだ突き止めきれていないが、いずれ解るだろう。ギンザ様をその手にかけた最もにっくき相手…!必ず見つけ出して八つ裂きにしてやる!そして貴様の首と兄の死体を、あの王の元に叩きつけてから王を殺す…!ククク、楽しみだ!」
「お、お兄ちゃん、を…?どうして…」
「ふん、私はギンザ様に見出された稀代の
(お兄ちゃんを…皆を、殺す……?私がこのまま負けたら…皆が…!)
その時、鼓動が一つ、大きく跳ねた。狛の脳裏に、たくさんの家族の顔が浮かんでは消えていく。それだけは、絶対に許すわけにはいかない。狛の胸の奥底に、炎が宿り、燃え盛り始めていた。