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第219話 復讐者、サハル

 川に落ちた狛の身体が、激しい水の流れに巻き込まれて瞬く間に水中へと引きずり込まれていく。何とか泳いで水面を目指そうとしたところで、急激な脱力感が狛の全身を襲った。


(苦しいのに、意識が……!?ダメ、今眠ったら……)


 溺れる内に飲んでしまった水は、あの呪いのかけられた雨水を大量に含んでいたらしい。苦しみを感じているのにも関わらず、意識はどんどんと遠退いていく。ここへ来る前に猫田に言われた言葉が甦って、狛は意識を手放してしまった。


(ごめん、猫田さん。逃げ、て……)


 そんな狛の身体を水龍の巨大なあぎとが狙っている。抵抗を止める瞬間を待っていたかのように、水龍は目を細めて笑っていた。そして、狛の身体は大量の水と共に水龍の体内へと飲み込まれてしまったのだった。


 「くっ、この…!狛、狛ああああああっっ!!」


 狛の飲み込まれる様が見えた猫田は、すぐさま巨大な水龍の後を追ったが、水龍は既に川の中へ身を沈め深く潜ってしまっている。猫田はあまり泳ぎが得意ではないので、水中では全く追いく事ができないようだ。突き放される一方の水中から、水上へ飛び出した猫田は狛の名を呼び、叫ぶ。その声は濁流の水音にかき消されてしまったが、猫田の悲痛な思いは、胸に残り続けていた。




 ぴちゃん、ぴちゃんと滴る水音がする。水滴はやや大きく、あちらこちらに間隔を空けて落ちていて、重ねて落ちた一角には水溜まりが出来ていた。狛が倒れているその空間はかなり広く、空気はほんのりと温かい。地面は堅すぎず柔らかすぎずで寝心地は悪くないのだが、如何せん空間全体が生臭すぎた。その時ちょうど一滴の水が狛の頬に当たり、半覚醒だった意識は一気に覚醒し、狛は目を覚ました。


「うぅ…ん、んん。…っ?!ここ、は…?うっ、酷い臭い。うう、おえええぇ!」


 腐った魚の内臓のような腐臭と、磯のような独特の匂いが混じっていて、ただでさえ鼻が利く狛には暴力的にも感じる異臭だ。あまりの臭いに耐えきれず、狛は飲み込んだ大量の水を、その場で一気に吐き出してしまった。

 一頻り吐き出したお陰か、はたまた鼻が慣れたのか、少し気分が落ち着いて周囲を観察する余裕が生まれたようだ。狛はゆっくりと立ち上がり当たりの様子を窺った。


「何なの?ここ。…私、川に落ちたはずじゃ……?」


 ぼんやりとしていた記憶を呼び覚ます内に、狛は自分が川に落ち、激しい水流の中で意識を失った所までは思い出す事ができた。しかし、そこからどうやってここに辿り着いたのかは、全くと言っていいほどに解らない。何故か薄暗い室内程度の明るさがあって、遠くまでを見通す事は出来ないが、完全な暗闇というわけでもないのが、更に不気味だ。


 もしや自分は死んでしまったのではとも思ったが、一度、本物の地獄を経験してきた狛には、この風景に見覚えがない。もっと言えば、この酷い臭いと生々しい空気はあの世ではなく現世のものだと、肌で感じられる。狛はここでじっとしていても始まらないと、少し移動してみることにした。


「猫田さん、心配してるよね…無事だといいけど」


 正直な所、猫田が自分を追って、無茶な事をしていないかが心配である。ただ、あれからどのくらいの時間が経ったのだろう。助けに来て欲しいと思っているのは間違いないが、ここがどこで、どういう場所か解らない内は猫田が迂闊に助けに来たら大変な事になるかもしれない。ミイラ取りがミイラに…というのはよくある事なのだ。せめて、救援に来てくれる猫田の無事を確保できるようにしたいと、狛は歩きながら周囲を観察して回った。


「あ、ここって……」


 しばらく歩いて辿り着いた先には、様々な物の残骸が寄せ集まっていた。今まで通ってきた場所よりも二回り以上大きなその空間には、船や建物に止まらず、数は少ないが車や自転車のようなものまでが散乱している。恐らく、ここにないものは生命だけだ、漂ってくる空気の中に、一切の霊力が感じられない為、生物に関するものだけがここには無いという確信がある。

 そして、ここに至って狛はようやく自分がどこに居るのかを推測出来てきた。信じられないことではあるが、どんなに考えてみても、それ以外の答えに結びつかない。嫌な予感が胸を騒めかせる中、狛は小さく呟いた。


「ここって、生き物のお腹の中…なんじゃ……?」


 誰に話しかけたわけでもない、考えをまとめ、心を落ち着かせる為の完全な独り言。しかし、狛の予想とは裏腹に、何者かがそれに反応してみせた。パチパチと少し乾いて、やや金気のあるよく通った拍手の音が辺りに響く。狛が慌ててその音の出所を探すと、目の前にある崩れかけた教会の屋根に何者かが座って、こちらを見ている事に気付いた。


「だ、誰!?」


「ふん、素晴らしい明察だ。よく解ったものだな。まぁ、それに気付いた所で、貴様にはどうする事も出来ないのだが…なっ!」


(この声、女の人…?でも、どこかで聞いた事があるような…?)


 女は狛に返事をしつつ、屋根から勢いよく跳び、狛の前に降り立った。屋根の上にいた時は薄暗くて解らなかったが、目の前に来てみれば、はっきりとわかる。それはあの角盥漱つのはんぞうが見せた、呪いの雨を仕掛けた張本人…謎の覆面の人物である。左手に大きな杖を持ち、顔こそほとんど隠れているが、目出しの覆面からは憎しみの籠った鋭い眼光が放たれている。


「あなた、一体…?」


「ふふ、貴様らに復讐する為、ずいぶんと色々骨を折らされたわ。だが、その甲斐あって、一番憎い相手を真っ先に捕らえる事が出来た。…ククク、貴様は、貴様だけはこの手で縊り殺してやりたいと、ずっと願っていたのだ!ズィ・アモ・グファルシャス復讐するは我にあり……今日こそ、ギンザ様の仇を討たせてもらう!」


「ギンザ、って…あ!あなたは、あの時の!?」


 カメリア王国に伝わる古い言語を叫び、女は覆面とマントをその手で取り払う。そこにいたのは、以前カメリア国王を狙ったテロ事件において、空港のターミナルで狛と大立ち回りを演じた魔法使いの女…サハルその人であった。




「クソっ!まだ狛の行方はわからねーのか!?」


 一方その頃、猫田はくりぃちゃぁに戻って、事の成り行きを土敷達に説明していた。角盥漱つのはんぞうに頼んで狛の現在地を特定してもらおうとしているが、中々うまくいかないらしい。苛立つ猫田の霊気が、ピリついた空気と反応するように、小さく放電している。


「まぁ待て……どうやらかなりのスピードで移動しておるようじゃ。その龍のような妖怪、よほどのものじゃのう」


 猫田が苛立つ理由も解るが、それを角盥漱つのはんぞうに当たっても仕方がない。土敷とカイリは俯きながら、角盥漱つのはんぞうの千里眼の結果を待ち、狛を救助に向かう具体的な方法を思案しているようだ。


「巨大な水龍、か…正直、そんな存在は聞いた事がないな。龍神のたぐいだろうか?」


「それほどの龍神ならば、神格を持って祀られる神であるはず…しかし、私は聞き覚えがないぞ。土敷、国内に思い当たるものがいるか?」


「…いや、残念だが僕にも心当たりがないね。地方によっては土着の信仰を得た神もいるだろうけど、そこまでの龍神となると祀られる規模もかなりのもののはずだ。聞いた事もないというのはおかしい。後考えられるのは……国外か」


 土敷が想像しているのは、西洋の神話に登場するリヴァイアサンや、シーサーペントなどの魔獣である。だが、彼らは神話の怪物であり、現実にはもう存在していない。居るとすれば魔界か、異世界のような場所だ。少なくともこの地球にはいないだろう。

 狛がどこに連れ去られたのかを知る為の詮索だが、さすがにそれが魔界だとは思えない。それほどの魔力が動けば、もっと大変な騒ぎになっているはずだ。


 何度か試した角盥漱つのはんぞうの占いで、どうやら狛が生きている事だけは間違いないようだ。ただ、狛を飲み込んだという水龍の力が強すぎて、ぼんやりとしか状況が掴めない。果たして無事でいるのか、今現在、どこにいるのかはまだ掴めていないのだ。


(狛……無事でいろよ)


 焦る猫田の気持ちを表すように、その尻尾がくりぃちゃぁの床を強く叩く。外の豪雨はさらに強まり、雷を伴った嵐の様相を呈し始めていた。

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