「雨でよく見えないけど、もうすぐかな」
「ああ、聞いてた場所は後ちょっとだ……しかし、こりゃ厄介だぞ」
狛は大型の猫の姿になった猫田の背に乗って、空を飛びながら目的地へと向かっていた。
近くにはキャンプ場や、市の保養施設などがあり、特に夏場の川辺はとても涼しいので市民が遠出しなくても済む、お手軽なレジャー避暑地として人気のスポットである。
神流川は、古くは中津洲市の西側を走る水源として、または交通や通商の要衝としても、この辺りの土地を支える重要な要素であった。中津洲の名が示す通り、この辺りには東西に大きな川が二つ流れていて、中津洲市のほとんどは中州のような土地になっている。西が神流川、東は
今でこそ二つの川には橋が架かっているが、その昔は橋などなかったので、渡し舟で物資や人を輸送していたらしい。どちらも大きな川なので、当時はたくさんの船が行き交う、さぞ面白い光景が見られたことだろう。
そんな大きな川なので、大雨が降ると水位が上がり、かなり危険なことになる。猫田が厄介だと言ったのはそこだ、すでに10日以上降り続くこの雨によって、神流川と神迎川は氾濫の危険が囁かれていた。
ではなぜ、そんな場所へ狛と猫田が二人だけで訪れたのかと言えば、くりぃちゃぁで聞かされた話の続きにその理由があった。
「この雨にかけられた呪いは、人や妖怪の気勢を削いで、最終的に意識を失わせてしまうものだ。さっきのコタを見て解るように、河童達が眠らされたのも、それが理由でね。長時間この雨にあたると、耐え難い眠気と怠さに見舞われて、起きていられなくなってしまうようだ」
カイリはそう言うと、悔しそうに拳を握っていた。カイリ…海御前は子分である河童達を大切にする性分を持った妖怪である。それは人間であった頃の生まれや性格も影響しているのだろうが、その優しさ故に、仲間が被害に遭った事が許せないのだ。
そんなカイリを見て、猫田はテーブルに肘をついて、つまらなそうに口を開いた。
「しかし、狙いは人間だって言ってたけどよ。ずいぶん手間のかかることしやがるよな?こう何日も雨を降らして、眠らせようってんだろ?これだけ大掛かりな術を使う奴だ、もっと他にやりようはあるんじゃねーの?」
「確かに迂遠だ。しかし、だからこそ警戒され難いとも言える。事実、私も河童達や他の水妖…カブソや濡れ女達にまで被害が及んでいなければ、ただの雨だと思い込んでいただろう。それに人間を弱らせるだけなら、これほど効果的なものはないよ。私達妖怪は、一年や二年眠っていたってどうってことはないが、人間はただ眠ったままでは10日と生きられないからな。個人差はあるだろうし、仮に全ての人間が眠らなくとも、確実に抵抗する力を削ぐことはできる……これをやっているのは、実に狡猾なヤツだよ」
確かに、カイリの言う通り、術者の攻撃に慣れている狛達でさえ、これが呪術的な意味を持つ雨だとは欠片も思っていなかった。辛うじて猫田は違和感を覚えていたが、それだけだ。恐らく狛は、カイリの説明を聞かなければこれを攻撃だと認識すら出来なかっただろう。多少はおかしいと思っていても、である。
そこまで聞いて、猫田は苦い顔をして溜息をついてから、カイリに向き合った。さっきから狛は黙ったままだし、話の内容からして早い所解決した方が良さそうだ。
「で、どうすりゃいいんだ?この雨を止ませるには」
「端的に言って、方法はそう多くない。我々で呪いを解くか、術者に解かせるか。あるいは、術者を……殺すか」
術者を殺すと聞いて、狛はハッとしてカイリの方を見た。そのまま、カイリは目を伏せて言葉を紡ぐ。
「もちろん、一番いいのは術者を捕まえて、呪いを解かせることだ。しかし、これだけの事をやるヤツだ、大人しく従うとは思えない。殺しはその場合だけだよ。それに……」
カイリはそっと狛の手を取り、優しく握りしめた。それは本当に優しい、狛を大事に思っているのが伝わってくる動きだ。
「それに、もし万が一手段が他になかったとしても、狛、君に手を汚させるような事などしない。これは、私達水妖に対する攻撃でもあるからね。売られた喧嘩の始末は、私達が取るよ」
「カイリさん……」
カイリは今回の雨を人間狙いの攻撃だと説明していたが、現状で最も被害を被っているのは、他ならぬ彼女達水妖である。先程のコタのように、既に多くの河童達が、昏睡状態にあるようだ。そして、河童達は頭の皿が乾くと致命的なダメージを負ってしまうという弱点がある。もし万が一、単独で眠りについてしまった個体がいたら、それは命に関わるのだ。そういう意味では、カイリの言うように水妖そのものへの挑発か、攻撃と言っても過言ではないだろう。
「まぁ、まずは解呪が出来るかどうか、呪いの特定から…だな。現場を確認しなくては」
「…よし、んじゃ行くか。俺が飛んでった方が速ぇだろ。狛と
猫田がそう言うと、カイリは実に申し訳なさそうな顔で、狛達に頭を下げた。
「か、カイリさん…?」
「……すまない、私は同行出来ないんだ」
「はぁ?なんでだよ?」
「私達水妖は、特に水の影響を受けやすい性質を持っている。はっきり言って、この雨に直接あたっていたら、私でも一時間と耐えられずに意識を失うことだろう。君達に来てもらったのは、それが理由なんだ。どうか、私の代わりに現場を調べて来てもらえないか?頼む…!」
「カイリさん……」
「おい、そりゃねーだろ。狛に押し付けて済む話じゃ…!」
「ううん、猫田さん、大丈夫。私、行ってくるよ!」
「はぁ!?」
「狛…すまない、ありがとう」
カイリは狛の手を握ったその手に、力を込めていた。猫田に言われずとも、狛に押し付ける形になって心苦しいのは当たり前だ。くりぃちゃぁの妖怪達は皆、狛のことが大好きなのだから。それでもなお、危険を承知で狛に頼まなければならないほど、事態は切迫しているのである。
狛が行くと言うなら、必然的に猫田も一緒に行くことになる。猫田もそれ自体は構わないが、狛が安請け合いすることが気に入らないようだ。もちろん、ちゃんと狛も考えて請け負っていると信じているのだが、そもそも狛がそれを断る所など想像できないので軽く引き受けているように感じてしまうのだった。
「…ったくよ。そもそもこの雨が人間を狙ったもんなら、お前だって呪いの影響を受けるだろ。水の中で意識なんぞ失ったら、確実にお陀仏だぞ。解ってんのか?」
「うん、ちゃんと解ってるよ、気を付ける。でも、私にはイツもいるし…猫田さんだって、守ってくれるでしょ?」
「お前なぁ……!」
背中でいたずらっぽく笑う狛の顔は、見なくても想像がつく。先日の死神騒動の後、イツを通して宗吾が自分達を見ていたと聞き、あまつさえよろしくとまで伝言を残されたのだ。それを違えることなど出来るはずもない。狛がそんな冗談を言えるのは、どんなことがあっても猫田には狛を見捨てる選択肢などないと信じているのだ。
そう言いつつも、狛は例え猫田に見捨てられたとしても、別に構わないと思っている。もしそんな事があるとしたら、それは二人共にのっぴきならない危機が迫った時だ。どちらも危ないのであれば、狛は自分より猫田自身を優先して欲しい、そう思っている。それだけ猫田を信頼しているし、大事に思っているのだ。だが、それは猫田の方も同じであった。
「ん?おい、あそこじゃねーか?」
「あ、ホントだ。目印の木もあるね。…でも、想像してたよりずっと川が増水してるみたい」
猫田に言われて空から見下ろすと、確かに目印として教えられた高い木があった。しかし、氾濫寸前まで増水した川の水で流されてしまいそうだ。カイリに頼まれたのは、解呪に必要な呪いの特定…その為の遺留品探しである。一番いいのは術者に繋がる物品の確保なのだが、これでは髪の毛一本すら流されてしまって残されていないだろう。
降りられそうな場所もないので、仕方なく高度を下げて水面ギリギリまで近づいていった。だが、この水量では河川敷など沈んでしまって全く見る事は出来ない。二人がどうしたものかと頭を悩ませていた、その時だった。
「あれ?今、水の中に何か……きゃっ!?」
「な、なんだっ!?」
凄まじい水しぶきが上がり、狛達を飲み込もうとする。咄嗟にその場を離れた二人の前に現れたのは、途轍もない大きさをした巨大な水龍であった。突然現れた怪物は、勢いよくその身を翻らせて二人に襲い掛かる。
「このっ…!し、しまったっ!?狛っ!!」
「きゃああああっ!!」
圧し潰そうとしてきた巨体は何とか躱したが、それによって大量の水が大波となって狛達に浴びせかかってくる。波を避ける為の急な方向転換によって、濡れていた狛の手が滑り、自分の身体を支え切れなかったようだ。猫田の身体から狛が滑り落ち、そのまま水龍の巻き起こした波で濁流と化した川の中へ、あっという間に飲み込まれてしまったのだった。