ちょうど月が替わる少し前、3月の終わり頃のこと。草木も眠る月夜の晩に、中津洲市内のとある
それは見るからに怪しい風体をしていて、頭には目出しの頭巾を被り、片手には大きな杖を持っている。その人物は何かを唱えながら、足元の川へ何かを流し込むと足早にその場を後にした。直後、もくもくと煙のようなものが上がり、それを見ていた河童達は、やがて日が経つ毎に倒れ込んで意識を失っていった。
「じゃあ、それを見たのがあなたの仲間達なの?」
雨の中を歩きながら、雨合羽を着た狛と人型の猫田が並んで歩いている。その隣にいるのは河童のコタだ。くりぃちゃぁへ行く道すがら、狛達はコタから簡単な事情を聴いていた。その夜、春を前にした河童達は月見をしながら大好きな相撲を取ろうと、河川敷に集まっていたらしい。あまり人目につかないように、わざわざ上流で集まっていた所へきたのが、その人物である。
物珍しさから、河童達は物陰に隠れてそれをじっと観察していたようなのだが、話の通り目撃者がバタバタと倒れて眠ってしまった為、河童達の女親分である海御前のカイリに助けを求めたのだそうだ。
「はい、私は幸い、酒とキュウリの調達に出ていたのでその場を見てはいなかったのですが……それ以来、倒れた仲間達はずっと目を覚まさないのです…」
「そうなんだ。心配だね…」
歩きながら落ち込むコタを見ていると、狛も可哀想な気持ちになって足取りが重くなる。雨のせいで人通りがほとんどない為、コタは普通に歩いているが、人に見られたら大事になりそうだ。一方、猫田は着せられた雨合羽が動きにくいのか、ぎこちない動きで少々イラついているようだった。
ちなみに今回、アスラは留守番である。異常な眠気で戦えそうにないこともあるが、一番の理由は、この雨の中ではアスラの最大の武器である機動力が制限されてしまうからだ。敢えて危険に晒す事も無いという配慮であった。
「しかし普通、河童ってのは雨が降ったり水の傍にいると元気になるもんだが、お前はあんまりそんな感じじゃねーな。そんなに仲間が心配か?」
「ええ、そうなんです。心配なのはもちろんなんですが、どうもこの雨は身体が重くなるようで……私の他にも知り合いの
それで来るなりきゅうりを要求したのかと、猫田は半ば呆れながらコタを見ている。しかし、雨でかなり視界が悪いとはいえ、逆にそれが不気味さを増幅させている気がした。全身緑色の人間が、雨水を滴らせながらきゅうりを齧る姿はかなりホラーだ。しかも、姿がはっきりと見えないので余計に怖い。猫田も狛も、色々な意味で人に見られませんようにと祈りながら歩いていた。
「いらっしゃい。良く来たね、久し振り狛君。猫田も」
「こんにちは、土敷さん、お久し振りです」
狛達がくりぃちゃぁに着くと、出迎えてくれたのは土敷だった。狛がくりぃちゃぁに来るのは昨年末以来だ、槐率いる人妖混成軍団が妖怪を狂わせる狂華種を作り出したと知ってから、狛は極力くりぃちゃぁに立ち寄る事を避けていた。
それは、槐達にとって邪魔者である狛を排除しようと考えた時、くりぃちゃぁに矛先を向けるのが有効な手段だからだ。槐は犬神家の本家を襲撃するよりも遥かにくりぃちゃぁを潰す方が楽である。ましてや、彼らは妖怪だ。狂華種で狂わされる可能性も十分に考えられる。そんな事態を避ける為に、狛とくりぃちゃぁは距離を置く方がいいと判断しての行動であった。
「おう、流石にこの雨じゃ他の客はいねーか」
煩わし気に雨合羽を脱ぎ捨てた猫田は、店内の様子を見つつ、手渡されたタオルを使って顔や手足の水滴を拭き取っている。くりぃちゃぁはビルの半地下にあるので、水が入ってこないように軽い結界が張られていた。それにこの雨も相まって、一般の客が入って来る事はないだろう。
すると、狛達が来たことを察したように、店の奥から神妙な面持ちのカイリが出てきた。今日は三人娘の他の二人、トワとショウコはいないらしい。
「わざわざ来てくれてありがとう、狛、猫田。コタよ、よくやった。お前はもう下がっていなさい」
「ははっ、カイリ様…!」
店の奥から現れたカイリは、狛と猫田に頭を下げると、コタを下がらせた。どうやらコタはきゅうり一本では限界が近かったようで、バックヤードに入る前に倒れ、そのまま眠り始めてしまった。
「あっ、コタさん!?大丈夫?」
「やはり、あの雨にあたるのは危険だな……すまない、土敷、コタを奥へ頼む。それと、彼を」
「解ったよ。ああ、話をするなら、一番大きいテーブル席を使うといい。僕はハマさんに頼んで温かい物でも用意してもらってくる」
そう言うと、土敷はコタをヒョイと担ぎ上げ、バックヤードへと姿を消した。見た目は子ども然としていても、土敷は妖怪だ、普通の人間とは違う力を持っている。そして入れ替わりに現れたのは、以前、カスミという少女の無くし物を探す為に協力を仰いだ妖怪、
「あれ?お前は……」
「おお!あの時の猫又ではないか!久しいのう、息災であったか?ん?こちらは見た事のない娘じゃな」
「あ、初めましてお爺さん、犬神狛です。よろしくお願いします」
「おー!おー!お主が狛という娘か!ジャコさんから聞いておるぞ、人間でありながら儂ら妖怪と懇意になるだけでなく、実力もあるという噂の姫じゃな。うむうむ、よろしく頼むぞ」
一行が挨拶を済ませると、土敷の言っていた店で一番大きな席に集まって座った。
「さて、わざわざこの大雨の中来てもらって申し訳ないのだが、狛と猫田に頼みがあるのだ。
「おお、よしきた。ムムムム…!」
テーブルの上に自らの頭を置き、
「
カイリが説明する間に、映像ははっきりと像を成していく。そこに映ったのは、目出しの頭巾を被った謎の人物だ。河原のような場所で何かの術を行使しているようだった。
「あ、これって…!?」
「コタから事情を聞いたかい?そう、これはコタの仲間達が見たという神流川の上流だ。当時の出来事を映してもらっている」
そこに映し出された映像は、確かにコタから聞いていた説明の通りのものだった。この術者が何者なのかは不明だが、実際に見てみるとかなり手際がいい。相当腕のある、熟練の術者であるようだ。そして、カイリは溜息を吐いて、解っている真相を明かし始めた。
「見て貰った通り、この術者の呪いによって、先程のコタのように私の配下である河童達が次々と倒れてしまっている。実を言えば河童だけでなく、水妖達はほぼ全滅だ。そして調べた所、先日から降り続いている大雨の原因も、この呪いによるものだと突き止めた」
「なるほどな、道理で雨が妖気クセェわけだぜ。この雨そのものに呪いがかかってやがったのか!」
猫田の発言にカイリは小さく頷き、更に話を続けた。
「当初、これは私達水妖を狙った攻撃なのかと思っていたのだが、それはどうやら違うようだ。私達水妖は水の影響を受けやすいが為、真っ先に呪いにあてられてしまっただけだ、この術者の狙いは他にある。…彼奴の狙いは間違いない、人間達だ」
「そ、そんなっ!?」
驚く狛が改めて盥の映像を見つめると、そこに映る術者と目があったような気がした。そして、その眼は明らかに笑っているように見える。その眼光に見覚えがあるようで、狛は息を呑んで術者の姿に目を奪われるのであった。