中津洲市内に、大雨が降り続いていた。梅雨時ならいざ知らず、まだ四月の初旬という時期に、これほどの雨が降り続くのは異常である。昨今の異常気象はここ中津洲市でも問題とされていたが、これだけ雨が続くのは狛の記憶にもほとんどない。市内各所に警報や注意報が発令され、ほとんどの住民が家に閉じこもって、鬱積した日々を過ごしている。
「あ、桔梗さん。おかえりなさい、今日は早かったね」
「ああ、ただいま。と言っても、実は着替えを取りに来ただけなんだ、すまない。またすぐ出かけるよ、この雨で防災対策会議が続いてね。全く10日以上も豪雨が続くなんて、本格的に異常気象対策も考えなければならないな。中津洲市長も頭を悩ませてばかりだ」
そう言って、桔梗は慌ただしく自室へ入って行った。あの様子だとほとんど食事も摂っていないに違いないと、狛は冷凍してあったご飯を解凍し、すぐに食べられるようおにぎりを用意した。相変わらず狛が大量に食べるので、食材はしっかり備蓄してあるらしい。瓶詰の鮭フレークやら漬物やらも、用意するのは簡単だ。桔梗が着替えを持って出て来る僅かな時間の間に、おにぎりと温かいお茶が揃ったのだった。
「桔梗さん、これ。あんまりご飯食べてないでしょ?顔色ですぐ解るよ」
「む……そうか?さすがだね、狛は。そういう気遣いの上手な所は君の母親そっくりだよ。ありがとう、おにぎりは車の中で頂くよ。お茶だけ飲んで行こうかな」
「そう?じゃあ、包んでおくね」
狛は手際よく、おにぎりを二つ、手早くラップで包んで弁当包みの風呂敷で纏める。普段から学校に弁当を持参する時にやっているので、非常に手際がよい。桔梗は台所の椅子に腰を下ろし、湯呑に注がれた少し濃いめの日本茶を啜って、その背中を見つめていた。
狛達の両親である
(いつの間にか、大きくなったんだな…私も歳をとるわけだ)
胸の中でそう自嘲していると、狛が振り返って弁当を差し出してきた。この短い間に、おにぎりだけでなく簡単なサラダのようなものも作ってくれたらしい。桔梗は感心しながら立ち上がって狛にハグをした。母である
「え?え?き、桔梗さん?どうしたの、恥ずかしいよ…!」
「ふふ、恥ずかしいものか、狛が子どもの頃はよくこうやってハグしていたんだよ。覚えていないかい?」
「うぅ…もう、私、子どもじゃないのに……」
そう呟く狛は顔を赤くしているが、満更でもないようだ。人との接触は、心の安定に大きく作用する。それはいくつになっても同じである。
「私にとっては可愛い子供だよ。…さて、そろそろ行かなくては。狛、近所に買い物へ行くくらいなら構わないが、あまり意味も無く出歩いてはいけないよ。特に川や用水路には絶対に近づかないこと。この雨で、市内の色々な場所が増水しているんだ。普段は小さな用水路もいくつか冠水しかかっていてとても危険だ。いいね?気を付けるんだよ」
「うん、解ってるわ。桔梗さんも気を付けてね」
「ああ。それじゃ行ってくるよ、お弁当、ありがとうな」
そう言うと、桔梗は着替えの入った大きめのボストンバッグと狛が作ってくれた弁当を持って、家を出ていった。狛とて、こんな日に外へ遊びに行くほど愚かでもない。玄関から桔梗の乗った車が出ていくのを見送って、狛は再び自室に戻っていった。
「桔梗の奴、また仕事か?……大変だな、あいつも」
部屋に入ると、アスラにくっついて、猫の姿のまま窓辺で外を眺めていた猫田がそう呟いた。猫田も桔梗が出ていく所を見送っていたらしい。この家に来てから、散々桔梗のマッサージで揉みくちゃにされたせいか、猫田はすっかり桔梗と打ち解けている。その身の心配をする程度には気にかけているようだ。
「桔梗さんは、街の顔役だからね。市長さんはもっと大変だろうけど…」
古くはこの地域の支配を巡って争った中津洲家と神子家は、現在は姻族関係にある。具体的に言うと、桔梗の叔母に当たる人物が、現在の中津洲市長と結婚をしたのだそうだ。その縁もあって、元々優秀な人材で華々しい経歴を持つ桔梗は、方々の人脈も含めて顔役として重宝されているようだ。
「それより、猫田さんこの所ずーっと外ばっかり見てるけど、よく飽きないね。雨降ってるから、あんまり外見えないでしょ?」
「ん、まぁそうなんだけどよ。……なんだろうなぁ、なーんかおかしいんだよなぁ」
「おかしいって、何が?」
猫田の言っている意味が解らないので、狛は窓辺に近づいて外を眺めてみた。しかし、窓から見えるのは雨粒とそれで滲んだ神子家の敷地だけである。猫田が何を気にしているのかさっぱり解らず、狛は猫田の顔を覘き込んでいた。
「いや…この雨で流されちまってるせいかわからねーが、どうにも妖怪クセぇんだよな…妖気の臭いがするっつーかよ。お前の鼻でも感じねぇか?」
振り向いた猫田の鼻がピクピクと動いている。何とも可愛らしい仕草だが、そこは今重要な所ではない。猫田に言われて、狛は匂いに意識を集中してみたが、特に怪しい匂いは感じられなかった。そもそもこの雨のせいで、匂いが流されているのは事実である。狗神走狗の術で人狼化すれば何か解るかもしれないが、その為に人狼になるのもなんだか少々
「うーん、私は何も感じないけど……アスラも気にしてないみたいだし」
アスラは自分の名前が出たので、寝そべったまま耳を傾け、上目遣いに狛達を見ている。用がないなら寝かせろと言わんばかりの態度である。いつもならすぐに狛の元へ近づいてくるのだが、今日はずいぶんと眠そうだ。どこかが痛むとか、具合が悪いわけではないのは、狛の特技で解る。とにかく眠い、それだけらしい。実のところ、狛自身も気怠さは感じていた。降り続く雨のせいか、気分が上がらず身体も重く感じるのだ。
そう言えば、メイリーや神奈も同じような感覚らしいとWINEのチャットで言っていた。春眠暁を覚えずというが、それはもう少し温かくなってからではないのかと首を傾げたくなる時期である。
「あの、もしもし」
「えっ!?きゃああああっ!?」
「ぐぇっ!く、苦し…!?離、せっ!」
突然窓の向こうが暗くなって、緑がかった影が現れ声をかけてきた。あまりに突然だったので、狛はびっくりして猫田に抱き着き少女らしい叫び声を上げている。猫田は狛の馬鹿力で抱き締められたせいでかなり苦しそうだ。
「ああ、驚かせてしまってすみません…主から火急の用事であると使いに出されまして……犬神狛さんと猫田さんで、間違いないでしょうか?」
「…え?あ、ああ、はい。そうですけど…」
「私、海御前のカイリ様から遣わされた、河童のコタと申します。早速なのですが、くりぃちゃぁにおいで頂けないでしょうか?…あと、出来たらキュウリを一本頂けると嬉しいのですが……」
「へ?きゅうり?ああ、はい、ちょ、ちょっと待っててね」
カイリと名を聞いて安心したのか、狛は猫田を抱いたまま台所へ向かい、冷蔵庫からきゅうりを一本取り出した。一応水で洗って、キッチンペーパーで水気を拭き取っておく。そこでようやく猫田は身体を捻らせて、狛の腕の中から脱出することができた。
「……ぶはっ!はぁっはぁっ!狛、お前はバカか!俺を殺す気か?!」
「あ、猫田さんごめん!あんまり急だったからびっくりしちゃって…って、なんであの
そう、狛も猫田も素人ではないのに、窓一枚を隔てたすぐ傍まで妖怪が接近しても気付かないというのは本来あり得ないことである。ましてや、アスラまでもが気付かないことなどあるのだろうか。狛は何かがおかしいと違和感を覚えながら、身支度を整えるのだった。