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第142話 猫田の記憶 其の肆

 結界に囚われて呻く猫田の前に立った男は、静かだが恐ろしいほどの殺気を放ち、猫田を見下ろしていた。この男がその気になれば、猫田は間違いなくこの世から別れを告げる事になるだろう、そう強く認識させるほどの強烈な殺気だ。

 猫田はそいつを見上げながら、歯を食いしばって、反撃の隙を窺っている。


「かような山中に猫一匹とはおかしなものだと思いきや…貴様、猫又であったか。なかなか強力な妖であるようだな」


 聞こえてきた男の声は涼やかで、猫田は一瞬毒気を抜かれた。まるで強烈な催眠術でもかけられたような、心に響く声であった。瞬間的に落とされそうになりはしたが、ハッと気づいた猫田はすぐに気を取り直し、再び戦意を呼び覚ます。その様子をつぶさに観察していた男は、覆面の下でニヤリと笑ったように見えた。


「…本当に大したものだ。我が声の魅了は妖怪相手でも有効なのだがな」


「テメェ…何者なんだ?!」


 そう問いかけながら、猫田は男の正体について考えを巡らせている。見た目通り、この男が忍びなのは間違いないだろう。しかし、この結界や魅了術の冴えはそこらの忍びが手すさびに修得したレベルのものではない。相応の才能を持った上で一切の遺漏なく陰陽師の修行を積み、その技術を体得したものでなければ、これほどの術は扱えないはずだ。


 (コイツが土御門系の術者だとすると…伊賀者か?)


 猫田の言う伊賀者とは、その名の通り伊賀忍者の一族の事を指す。諸説あることだが、伊賀忍者は、陰陽師の一派である土御門家…さらに言えば、その大元は土蜘蛛と呼ばれた妖怪や忍軍の系譜を祖に持つ者達であるという。よって、伊賀忍者の忍術には、陰陽師の操る霊符や霊術を用いるものもあったようだ。最大のライバルである甲賀忍者とはまた違う、強力な術者の集団が伊賀忍者なのである。


 男は、まるで猫田の心を読んでいるかのように嘲笑うと、また一段警戒を解いた。同時に、猫田にかけられていた結界も緩みを見せている。普段の猫田であれば、これ幸いとその隙を突いて、男に攻撃を仕掛けただろう。だが、猫田はそれをせず、ただじっと、男の言葉を待った。隙だらけのはずの相手だというのに、次に敵意を向けたら自分は殺される、そう確信めいた予感を持つ程の力を、男は全身から漂わせていた。


「ふ、俺か?俺は服部景蔵はっとりかげくら。お前の見立て通り、伊賀の出だ。ちと理由があってな、諸国を転々としている所さ」


「伊賀の、服部…?冗談キツイぜ、それじゃあまるで、あの服部半蔵の……」


 服部半蔵と言えば、徳川家康に仕えたという泣く子も黙る伝説の忍びだが、創作などでその名が広く市民に知られるようになったのはずっと後の事。本来は影と闇に隠れて生きる忍者である為に、この当時、その存在を公に知るものはほとんどいなかった。猫田がその名を知っているのは、彼がその家康の時代にはもう生きていて、時に侍屋敷などで暮らしていた経験があるからである。

 また、服部半蔵は初代から服部家の歴代当主が受け継いで襲名する通称であり、本来の名ではない。もっと言えば、明確に忍びとして生きたのは初代半蔵のみであり、その息子達は皆、優秀なであったとも言われている。


 ここにいる景蔵はそんな初代半蔵の血を引く子孫の一人であり、一族から忍術の腕は初代に匹敵するとまで言わしめ、その上で先祖・土蜘蛛譲りの霊力を持って陰陽師としての術法も修めた男であった。彼の一族は、侍として徳川家に仕え、その後は久松松平家の家老となった大服部家とは違い、徳川家直参の忍びである。故に半蔵を名乗らず、各々が別の名を名乗っている。名の読みが『けいぞう』ではなく、『かげくら』なのは、彼なりの思惑があってのことのようだ。


 そんな経緯からか、景蔵は猫田が先祖・服部半蔵の名を知っている事に興味を示し、覆面の下で小さく笑みを浮かべていた。そして、近くにあった手ごろな岩へ腰を下ろすと、猫田にかけた結界を完全に解いた。


「……いいのかよ?俺を自由にして。襲い掛かるとは思わねーのか?」


「かかって来る気があるのなら、そんな問答などせずに襲って来るだろう。遠慮はいらんぞ、いつでも来るがいい。まぁ見た所、お前はそこまで悪しき化生けしょうでもなさそうだから心配はしていない。さっきも言ったが、俺には事情があってな。優秀な存在なら、少し話をしてみたくなったのさ」


 猫田の腹積もりは完全に見透かされていた。正直に言って、今の猫田に景蔵と戦っても勝算はない、よって隙を突いて逃げようと思っていた所である。しかし、こうも明け透けに優秀な相手と話をしてみたいと言われては、ただ尻尾を巻いて逃げるのも彼のプライドが許さない。とどのつまりは、逃げ道を塞がれているに等しい状況であった。


「解ったよ…俺の負けだ。しかし、話ってのは一体何なんだよ。言っとくが、特に悪さなんかしちゃいねーぞ」


 猫田はまるで、悪戯を責められた不良のように、若干不貞腐れた様子で答えた。そんな猫田を前にして、景蔵は覆面を剥いで素顔を晒すと、高らかに笑っていた。


「ハハハ!別にお前を咎めようってわけじゃないさ。そうだな、単刀直入に言おうか。お前、俺の下で働く気はないか?」


「はぁ!?」


 思わぬ提案に、猫田は素っ頓狂な声を上げた。その声は夜の森に響き、それに驚いた鳥達が我先に逃げ出していく音が聞こえている。


「さっき、俺に事情があると言ったろう。俺の今の雇い主がな、優秀な人材を集めている。俺はその方に代わって、日本中から使えそうな奴を探して勧誘して回っているのさ。どうだ?悪い話じゃないだろう」


「ち、ちょっと待て!俺は妖怪だぞ?!そんなのに仕えろだなんて、正気なのか?」


「ふん、こう見えて俺は人を見る目には自信があってな、お前は大丈夫そうだと踏んだまでだ。そもそも俺は例え妖怪であっても、使えるものは使う主義だ。もっとも、獅子身中の虫がいないとも限らんが…そこは割り切っている。何しろ時間が惜しいんでな」


「時間が…?」


 突然言われても、猫田にはどういう事なのかがさっぱりわからなかった。評価される事は吝かではないが、いくらなんでも話が見えない。景蔵の真意が見えないので、ただただ困惑するばかりである。


「まぁ聞け。妖怪のお前から見て、今のこの国の状況をどう思う?」


「どうって…動乱の時代だろう、この国じゃ珍しくもねぇ。戦国の世からすれば、平和な時代が続いた後だが、天下を決める状況なら争いになってもおかしくはねーよ」


「そうか、お前は思ったより長く生きているようだ。では質問を変えよう。その動乱の時代になって、何が起きると思う?」


「何がって、そりゃあ…」


 予想外の質問に、猫田は答えを詰まらせた。単純に考えれば、人間達が動乱の時代に入った時は、必ず人心が乱れ、多くの血が流れるものである。それは恨みと憎しみを呼び、闇に潜む悪しき者どもが活発になる前兆でもあった。


「妖怪共が、息を吹き返すだろうな…」


「その通りだ。長く安定した平和な時代だったが故に、この国は久方振りの動乱で、多くの人間が死んだ。かつての春秋戦国時代のように、骸が溢れ血と憎悪が大地に流れ込んでいる、まさに屍山血河の様相だ。それによって、これまで息を潜めていた闇の者達が活発化している事に、俺の雇い主は酷く心を痛めておられるのさ…そこで、だ」


 景蔵は懐から竹の水筒を取り出し、その中身で口と喉を潤わせた。猫田は思わず喉を鳴らし、その言葉の続きを待った。人間達が夢中になる芝居小屋の見世物よりも、興味と好奇心を惹かれる話だったからだ。


「あの方は、自らの権限で自由に差配できる部下を求め、それを俺に集めるよう命を下された。俺は今、その仲間を探しているというわけだ。どうだ?俺と…俺達と一緒に働かないか?」


「それは…」


「まぁ、お前からすれば、戦う相手は同じ妖怪…言わば、身内かもしれんからな、無理強いはしない。だが、俺の見立てでは、お前は人間寄りの妖怪に見える…違うか?」


「そりゃ、そうかもしれねーが……ん?なんだ?」


 そんな戸惑う猫田の耳に、遠くで幽かな悲鳴が聞こえた。その方向を向くと、山間にちらちら光る炎と煙が見えている。猫田の様子に異常を察した景蔵は素早く樹上に移動し、高所から遠視とおみの術で様子を探った。そんな二人の元へ、怪しく蠢く異形達が忍び寄っていた。

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