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第141話 猫田の記憶 其の参

 庭先に雪がちらつき始めた頃、猫田はただひたすらに、狛のベッドで眠りに就いていた。


 朝起きてから感じていた違和感の正体は、既に解っている。これまでにもなので、特に大騒ぎする必要もない。ただ、これが起きる時は体調も含めて、猫田自身が不安定になる時だ。余計な事にならない為にも、眠っているのが一番だと今までの人生…いや、猫生ニャンせいで学習しているのだった。狛くらいには事情を話しても良かったか?と思わなくもないが、あまりみっともない姿や弱点は晒したくないものである。猫田は動物であるが故に、男性的なという意味で、男らしい意地を張る癖があるのであった。

 ちなみに最後に同じ症状があったのはささえ隊の解散後だった、考えてみれば、もうそろそろ時期が来てもおかしくはない。


(ああ、もうそんな時期か…ちょっとはえーような…でも、まぁそんなもんか…?)


 猫田はと意識を沈ませながら、一部で考える脳は活動している。一般的な犬や猫と同様に、どんなに深く眠っていても、即座に危険に対応できるようそういう寝方をしているようだ。これでちゃんと熟睡しているのだから、動物というのは凄まじい能力を持っているものだ。


 そんな微睡みと熟睡の合間で、猫田はかつての夢を見ていた。それは今を遡る事150年と少し前、彼がまだささえ隊に入隊する以前の記憶である。



 その頃、猫田は独りで、あてもなくブラブラとあちこちを彷徨う生活をしていた。江戸時代の中期頃は、とある呉服屋の大店に棲み付いて、そこにいた座敷童の土敷と懇意になった事もある。しかし、猫田は表向き普通の猫を装っているので、同じ場所に何年もいるわけにはいかない。精々10年かそこらがいい所だろう。それ以上同じ場所に留まり続けると、人間達から怪しまれることになりかねないのだ。そう言う訳で、これまで移動を強いられて来た為に、猫田はそろそろ定住する生活の場を作りたいと考えていた。


「どこかの空き家にでも棲み付いてみるかなぁ…ねぐらがないと不便でしょうがねーや」


 山道を歩く途中、立ち寄った池のほとりで身体を伸ばしながら、一人呟く。この頃の猫田は、あまり人の姿で活動しておらず、もっぱら猫の姿のままでいる事が多かった。ちょうどこの時期は幕末であり、あちこちできな臭い動きが絶えない時代であった為か、空き家になっている家もそれなりにあったのを猫田は知っている。

 数十年前に江戸の呉服屋を出てから、時間をかけて各地を転々としてきたのはいいが、つい最近までいた京都が不味かった。幕末の京都と言えば、維新志士と新選組の対立を始めとして、とにかく治安が悪かった事で有名だ。それでなくても、辻斬りや浪士間の対立等々も問題となっていたのである。


 京都を出る直前、猫田は池田屋という旅籠で厄介になっていたのだが、ある日何十人もの男達が乗り込んできて大騒ぎになった。男達が刀を抜いて応戦し斬り合いが始まると、ただの猫と思われている猫田のことなどお構いなしに、店中で大立ち回りとなり、尻尾は踏まれるわ蹴り飛ばされるわ、挙句の果てには階段から転げ落ちてきた男に潰されそうになるなど、散々な目に遭わされたものだ。

 今の日本はどこにいても、人の傍では安住の地などないのかもしれない。そう感じた猫田は山中に逃げ込んで傷を癒した後、しばらくの間、細々と山で暮らしていたのだが…山の暮らしはそれなりに面倒である。人の世で生きる事に慣れてしまっている彼は、人の社会の中にいる方が楽だと思うようになっていた。


「やっぱ、江戸かな。久々に土敷の顔でも見に行ってみるか」


 猫田が山に潜んでから数年が経過した。山から見る限り、人の世も少しは落ち着いたように見える。もう一度京都に戻ってもよかったのだが、そろそろ別の街に行こうかと思っていた所だったし、江戸ほど大きな街ならば、人に紛れて暮らすのは難しくないだろう。なによりもう自分の事を覚えている人間もいないだろうから、また例の呉服屋で世話になるのも悪くない。そんな風に、この時の猫田は考えていたのだった。


 それから数か月後、猫田はようやく江戸の街まであと少しという所まで移動してきた。猫の足ではこんなものだろう、人に変化して中山道でも通ればもっと早かったはずだが、京都での騒動を思い起こすと、迂闊に人に近寄りたくはなかった。それでも、人の社会にいたいという妙なジレンマを抱えているのが厄介な所である。


 箱根の山を越え、東海道もいよいよ終盤である。明日には塔之澤辺りに降りて行けるだろう。そこからは人に変化して江戸に入る、そんな予定でいた。


 猫田が山中で見つけた沢の傍で眠っていると、ふと、何かの気配を感じた。瞬時に目を覚まし、周囲の様子を窺う。夜の山は様々な動物や虫の気配がするものの、今感じたのは明らかに人のものだ。木から木へ、まるでムササビが飛ぶように、音もなく移動している。そんな気配であった。


(なんだ?忍びか?)


 この時代、既に忍者と呼ばれる職業の者はほとんどいなかった。全くいなくなったというわけではなく、侍として召し抱えられて身分が変わったり、彼らの仕えていた藩が無くなったりと、時代の流れでそう名乗る機会が減ったせいもあるのだが。

 しかし、今猫田が感じたそれは、まさしく熟練の、恐るべき腕前の忍びであるように感じられた。本来、忍びはあくまで、人に対する存在である。猫田のような妖怪に対して、姿を隠したり気配を感じさせないという事はそう出来ることではない。何故なら、忍びが紛れて行動する闇こそは、妖怪達の領分であるからだ。闇に乗じて人から身を隠すことが出来たとしても、妖怪相手にそれをするのは余程の技量がいるのである。


 猫田が感じた気配の主は、その相当な腕前を持つ相手であった。なにしろ、猫田が気配を感じ取れたのはほんの一瞬で、それも偶然に、風の流れをヒゲが感じ取っただけである。猫又である猫田でなければ、気付かずに素通りさせていただろう。忍びだとすれば、途轍もない技術だ。


(野郎、俺が気付いた事に気付いてやがる…獣かと思って霊気を発したのが仇になったか)


 ほんの一瞬だが、猫田はその気配の主が野生の獣かと考えて、威嚇目的で霊気を放ってみせていた。野生動物は、それらの力を敏感に察知する事が出来るので、それをするだけで近寄ってくることはなくなる。一々熊や猪のような獣と戦うのも面倒なので、猫田はいつもそうやってやり過ごしてきたのだ。だが、今回はそれが逆に、相手の警戒心を高める結果となってしまった。それさえなければ、恐らくこの気配の主は猫田のことなど気にせず、どこかへ去って行っただろう。


 面倒な事になったと思いつつ、猫田は体勢を変えて何とかやり過ごす方法はないかと考えた、その時である。


「うおっ!?」


 空を切る音よりも速く、猫田の目の前に苦無が突き刺さった。猫田が咄嗟に後ろへ飛ぶと、二発目三発目の苦無が、次々に先程まで寝ていた場所に刺さっていく。偶然にも体勢を変えようとしていなければ、最初の一撃をモロに喰らっていたに違いない。それを感じて、猫田の肉球にじわりと汗が滲んだ。


「野郎っ!」


 カッとなった猫田は、すぐさま巨大な猫の姿に変化して、五本の尾を伸ばして臨戦態勢を取った。苦無が飛んできた方向は解ったが、既にそこに敵はいないだろう。ただ、樹上にいるのは明らかだ。魂炎玉の炎が揺らめき、夜の闇を照らす。猫田にとって夜の森林など、昼とさほど変わらないものだが、人間にとってはそうではない。闇に慣れた目が急激な光に照らされれば、逆に視界を奪われる原因になるのだ。


 光を嫌ってなのか、先程とは違う場所から、さらに二本の苦無が猫田を襲った。しかし、いくら速くとも、既に尾を展開している猫田にそんなものは通用しない。邪魔な枝を打ち払うようにそれを尾で弾き除けると、それが飛んできた方向へ、今度は猫田が炎の光線を放った。


「喰らえ!!」


 一瞬の煌めきと共に、射線上の木が撃ち抜かれ薙ぎ倒されていく。倒れた木はぶすぶすと煙を上げているので、放っておけば山火事になるかもしれない。だが、猫田はそれを気にしている余裕はなかった。


「外れた…何っ!?」


 そう、猫田の一撃はかすりすらしていなかったのだ。それだけではない、驚くべき事に、先程打ち払った苦無と最初の三本の苦無が、いつの間にか猫田の足元で模様を描くように位置を変えて刺さっていたのだ。


「五芒星…コイツ、陰陽師かっ!?ぐ、あああああっっ!!」


 猫田がそれに気付いた時には、既に結界が起動した後であった。幾重にも張り巡らされた雷のような光と力が、瞬く間に猫田の全身を覆い、その動きを封じていく。そして、闇の中から全身を黒装束に包んだ一人の男が現れ、猫田の眼前に立っていた。ずっと聞こえていた動物や虫の声は、その一切が鳴りやんで、周囲には猫田の叫びだけが木霊していた。

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