突然声をかけられた狛は、一瞬ビクっと驚いたが、その柔和な男性の微笑みに気付いて心の警戒を解いた。普段から知らない人について行ってはいけないと教わっているのだが、ここは自分の家である。そんな不審者が軽々に入り込むはずがない……とまで、5歳前後の子どもが思った訳はないだろう。単純に、狛は直感で信じていい人間だと判断したに過ぎない。
「おなか、すいた…けど、おとうさんがおひるごはんつくってくれるってゆったから、まってる」
柿が食べたいのかと聞かれただけなのだが、正直にそこまで答えてしまうのは、まだまだ子どもらしい様であった。そんな姿に気をよくしたのか、男は更に破顔して狛の隣に座ってみせた。
「そうか、お父さんを待ってるのか。偉いなぁ、お嬢ちゃんは。おじさんもお嬢ちゃんの為に柿くらい取ってやりたい所なんだが、生憎とお客さんの家の物を勝手に取るわけにもいかん。…だから、おじさんが良い物をやろう」
狛の頭を撫でて褒めながら、男は手に持っていた包みから、アルミホイルに巻かれた丸いものを一つ取り出し、狛に手渡した。突然知らない人から物を貰って、さすがの狛もどうしていいのか解らずに固まってしまったのだが、そこはまだまだ幼い子どもだからか、好奇心に負けそのアルミホイルを剥がしてみた。
「わ…!おにぎりだぁ!」
中から出てきたのは、丸々と握られた、割と重量のある物体…今でいう爆弾おにぎりであった。狛の拳二つ分ほどの大きさのそれは全体にしっかりと海苔が巻かれていて、その海苔は水分を吸ってご飯に隙間なく張り付いており、しっとりとしている。狛の大好きなタイプのおにぎりである。
狛はいいの?と視線で男に問いかける。好物を前にしてキラキラと輝く瞳に、男はまた笑って狛の頭を撫でた。
「気にせず食べな。それを作ったのは俺の奥さんなんだ!とっても旨いぞ~~?なんせ、俺はガッチリ胃袋を掴まれて結婚したんだからな!」
ハッハッハと高笑いする意味は、子どもの狛にはよく解らなかったが、奥さんという存在を自慢しているのだと言う事は理解できた。今思えば、こんな子どもにすら自慢するとなればよほど妻を愛している証だったのだろう。髪をぐしゃぐしゃと撫でられながら、狛は思いっきりおにぎりにかぶりつく。ちょうどいい塩加減に、たっぷりの鮭や昆布が入っていて、狛の大好きな味だった。
一口食べただけで、顔全体を緩ませて幸せそうに目を細める狛の姿に、男は満足そうな顔をしている。愛妻弁当が狛を幸せにしていることが嬉しいのだろう、それに気をよくしたのか、今度は持っていた弁当箱を広げ、次々におかずを狛に食べさせてくれた。
初めのうちは遠慮していた狛も、ここまでくればもう一切気にしない。差し出されるままに弁当を食べ続け、あっという間に、一般的な成人男性でも持て余す量の弁当をペロリと平らげてしまった。
全部食べてしまってから、狛はハッとして大変な事をしてしまったと青ざめていた。いくら食べさせてもらったとはいえ、おじさんの分が無くなってしまったのだ。狛にとって、食事はアスラと遊ぶことと同じくらい大切なものであるから、他人のご飯を奪ってしまった事は、何よりも悪事を働いた気になっている。
一方で、そんな狛の様子に、何度目かの笑顔で男は応えた。
「ご、ごめんなさい…おじさんのごはん、なくなっちゃった…」
「いい、いい!気にすんな!お嬢ちゃんくらいの子どもが腹を空かせてる方が、おじさんみたいな大人には辛いんだ。そんなことよりな、お嬢ちゃんは金の成る木って、知ってるか?」
「おかね…?ううん、しらない。おかねってきからとれるの?」
狛はちらりと柿を見て、お金が木になる所を想像しているようだ。お金というものが何なのかくらいは知っているが、それが木から採れるものだとは思ってもみなかったという顔だ。狛が何を考えているのか解ったのか、男はまた頭を撫でて言った。
「いや、それはあくまで偽物さ。お金みたいな葉っぱが出来るだけなんだ。けどな、おじさんは幸せが成る木を作ったんだ。凄いだろ?本当に幸せが採れるんだぞ」
「ええ…?」
幸せと言われても、子どもの狛にはよく解らない。何か凄い事を言っているのだと言う事は解るが、それ以上はピンと来ないようである。
「お嬢ちゃんにはまだ解らんかな。ほら、これだ」
そう言って男が見せてくれたのは一枚の写真である。そこには見た事も無い植物が写し出されていて、写真越しだというのに、どこか不思議な感覚を覚えた。
「すごい…なんかふしぎなかんじがする」
「おお?解るかい?そうかそうか!よし、お嬢ちゃんにも幸せのおすそ分けだ。こいつが実をつけるのはまだ当分先だが、その頃になったらうちへ遊びに来るといい。うちの場所はお父さんが知ってるからな」
「…うん!おじさんありがとう!」
「ははっ!うちにきたら今食べた弁当より、もっと旨い飯もあるからな~!」
そう言って、男はまた狛の頭を撫でてくれた。その笑顔はとても朗らかで、こんな人なら、本当に特別なものが作れるのかもしれないと狛は思った。
「思い出した。そっか、あの時の…」
狛の頬に、一筋の涙がこぼれる。あの後、仕事を終えた父がようやく部屋から出てきて、狛が男の弁当を食べてしまった事を謝って、三人での食事になった。その時、男の家に遊びにおいでと言われた話をしたはずなのだが、しばらくして肝心の父が家を出て行ってしまったので、すっかり無かったことになっていたのだ。まさか、あの時の恩人が亡くなっていたとは知らず、狛はもう一度手を合わせて、不義理をしてしまった事を胸の中で詫びた。
そうしてゆっくりと祈った後、狛はシズに向かって頭を下げた。
「ごめんなさい、思い出しました。私、昔旦那さんにお弁当をご馳走になって…とっても美味しかったんです。お礼もろくに言えずに、すみません」
「まぁ……そう、あれは貴女だったのね。私も主人から聞いていたわ、仕事先でとてもかわいい子どもに会ってお弁当を分けてあげたんだって。ふふふ、まさか貴女だったなんて、不思議な事もあるものねぇ」
しみじみと思い出を語るシズの顔は、寂しそうな、しかしどこか晴れやかな表情にも見えた。そんな風にしんみりした空気になった時だ。二人の間で静かに座っていたモチが突然、一声鳴いた。
「ナァン」
「あら、オモチ?どうしたの?」
どうやら、モチは普段からあまり鳴かないタイプらしい。そんなモチが急に鳴いてみせたので、シズはびっくりして心配そうに視線を向けた。当のモチはそんな事は気にしていられないとでも言いたそうに、重い身体を持ち上げて、タタタ…!と仏間から抜け出していく。
モチの急な動きに不思議なものを感じた狛は、シズに断って、急いでその後を追った。庭から入って来る冷たい風が、廊下の床までもを冷やしている。寒さに弱いはずの猫がそこまで急ぐ理由はなんなのだろう。狛は疑問に思いながらも、どこか高揚する思いが胸に広がるのを感じていた。
「う、ウソ…!?」
リビングに着くと、モチは庭に向かって座り、じっとあの不思議な樹の方を向いていた。狛が驚いたのは、あの木の周りにぼんやりとした光がいくつも浮かんでいたからだ。すぐに追いついてきたシズには何も見えていないのか、きょとんとした顔で後ろから覗いている。
(凄い。あれ、妖精だ…初めて見た)
妖精とは、精霊よりももう少し生物に近い存在の事を指す。精霊とは違い、妖精は場合によっては肉体を持っているものもいて、ピクシーなどと呼ばれる事もある。より大自然の気に近く、自然さえあればどこにでもいる精霊とは違って、個としての生命を持つ妖精は、滅多な事では姿を現さない。人間に悪戯をする目的で人里に現れるものも昔はいたようだが、今はほとんどいないようだ。
妖精はあの不思議な樹の周りを飛び続け、やがてその樹に停まって消えた。するとみるみる内に、樹には美しい赤い実が成り始め、あっという間に成長して林檎のような大きさの果実になった。光を受けてキラキラと反射するその実は、とても美しい。
「あれって…もしかして」
狛はさきほど遺影を見て、おじさんの事を思い出した時、一緒に見せて貰った写真の事も思い出していた。あの写真に写っていたのは、間違いなくこの樹である。あの時、彼が言っていた幸せが成る木とは、この樹の事だったのだ。そんな樹に妖精が集まって何かをしていたというのは偶然なのだろうか?狛は少し考えてから、シズの方へ振り返って事情を話す事にした。
「シズさん、私、思い出したんです、あの時、おじさんは幸せが成る木を作ったって言ってたのを」
「幸せ、が…?」
「おじさんが私にお弁当をくれた時、そう言っていました。…きっと、あの実がそうだと思うんです。シズさん、あれを取ってみてもらえませんか?」
真剣そのものと言った狛の顔を見て、シズは少し困ったような顔をした後、意を決したように樹へと近づき、その実に触れた。重量のありそうな見た目とは裏腹に、その実はとても軽いようで、手に取っただけですんなりと枝から外れ、シズの手に収まった。
そして、赤い実が一際輝くと、その後には亡くなったはずのおじさんがそこに立っていた。
「ああ…!貴方、どうして…?!こんな、こんなことが…」
シズは目に涙を浮かべて、夫に抱き着いていた。それは明らかに幻などではない、どうやら、魂をここに呼び出しているようだ。しかし、恐らく狛がそれに触れたとしても、同じ結果にはならないだろう。あの実には妖精の力が宿っている。きっと、実に触れた人物によって、違う効果があるのだろう。狛にはそれが解る気がした。
「幸せが成る木って、本当は妖精の宿り木だったんだね、おじさん」
狛がそう呟くと、再びモチが「ナァ~ゴ」と鳴いた。気付けば、ちらちらと雪が舞い始めている。このまま振り続ければ、今夜はホワイトクリスマスだ。
「素敵だなぁ…おじさんの言う通り、幸せのおすそ分け貰っちゃったかも」
愛し合う夫婦が再会する姿を見て、狛は亡き母と父の姿を思い出すのであった。