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第139話 思い出の一幕

「あの、お庭…見せて貰ってもいいですか?」


「ええ、もちろんいいわよ。ああ、久し振りだわ、こうやってお話するのは」


 狛がおずおずとそうお願いすると、シズは優しい笑顔で許可を出してくれた。やはり、人との接触に飢えていたらしい。狛が話し相手になることで、落ち込む気持ちが晴れるならそれでいい。きっとそれがモチの悩みを解消する事にも繋がるだろう。

 そう考えつつも、狛はその庭にある奇妙な植物と、シズが見たという夢が気になって仕方がなかった。直感として、ただ話し相手になるだけで終わる問題ではないと本能的に悟っているかのようだ。


 縁側からサンダルを借りて、庭に出てみる。こうして見ると、一際大きく目立つ奇妙な植物の他にもいくつか見た事の無い花があるようだ。狛はあまり植物に詳しくはないが、実に色々な種類の草木や花が植えられていて、さほど大きくもない庭はかなり狭くなっている。


 そのまま狛が近寄ったのは、ずっと気になっている奇妙な植物だ。それは狛の足元から胸くらいまでの高さ…大体150センチくらいの大きさで、幹の下部だけがやたらと太い。玉ねぎや球根のような形と言えばイメージしやすいかもしれない。これは花というよりも樹木というべきだろう。だが、この寒さの中でも小さな蕾がいくつかあるのが確認できた。ヤシの木の葉のようにもみえる大きな葉といい、ずいぶん不思議な姿の植物だ。


「これって、何の植物なんですか?」


「ああ、ごめんなさい、私もよく知らないのよ。主人は庭師をしていて、趣味で植物をかけ合わせたりしていたの。他にもいくつかあるけど、それも名前の無い樹なんだと思うわ」


「そうですか…」


「ふふ、手前味噌になってしまうけど、うちの主人は庭師としてはとても優秀だったのよ。確か、そちらのお宅にも仕事に出かけた事があったはずだわ。でも、貴女の年齢だとさすがに覚えていないかしら」


 シズの夫が亡くなったのが10年前だとすると、犬神家へ仕事に来たのはそれより前ということになる。仮に10年前だとしても狛は当時6歳だ、顔を合わせている可能性は十分あるが、さすがに記憶には残っていなかった。だが、狛が何故か気になるのはその樹だ。それをじっと見ていると、ソワソワして落ち着かない。何かとても大事な事を思い出しそうな、そんな感覚に囚われる。

 しばらく狛がその樹から目を離せずにいると、シズはふと何かに気付いて、口に手を当てて言った。


「あらあら、お洗濯が終わったみたい。ごめんなさいね、ちょっと干してくるから、そのまま見ていて頂戴ね」


「あ、はい。すみません」


 そして、シズがその場を去ると、狛はゆっくりモチを抱き上げて、シズに聞こえないよう囁くように小声で話しかけた。


「ねぇ、モチちゃん。この樹の事、旦那さんから何か見たり聞いたりしたことなかった?なんでもいいんだけど」


『そんな事を言われても、私は猫なんだぞ?解るわけがない。第一、私が拾われた時には、もうシズは独りだった。シズは夫とやらを喪ってから私を拾ったのだ。だから私には何も解らない』


「あ、そうだったんだね。うーん、ダメかぁ」


 早くも暗礁に乗り上げた。先程聞いた夢の話からして、シズの思い悩んでいる事は、この樹にまつわるものの可能性が高い。或いは、夫の形見ともいうべきこれらの植物を見て感慨に耽っているのかもしれないが、どちらにしても、もう少し詳しい話を聞けなければ解決には繋がらなさそうだ。

 あとは狛自身の中で引っかかっているものの正体が解ればいいのだが、それとシズの悩みに関係があるとは限らない。


「うーん、何だろうなぁ…ここまで、ここまで出てるんだけど」


 狛はモチを抱えて縁側に座り込むと、モチの背中に顔を押し付けた。モチの身体はどこもかしこも柔らかく温かい。猫田やアスラとは全く違う感触である。正直、ちょっとハマってしまいそうだと、狛は思った。とはいえ、ここまで太らせてしまうのは可哀想な気もする。モチは特に嫌がる素振りも無く、逆に狛の体温でほっこりしているようだ。朝の庭は寒いので、ちょうどいいのだろう。


 そんな狛とモチの姿を見て、洗濯物を干し終えて戻ったシズは微笑ましく思っていた。末の娘が一人暮らしを始めてから、もうすぐ一年になる。本来ならば、夫と二人で幸せな老後を過ごせたはずが、夫はずいぶんと早くに天国へ行ってしまった。とっくに心の整理はついていたと思っていたが、やはり一人は寂しいのだ。

 お茶のおかわりを淹れつつ、モチを抱いて座る狛の背中を見て、シズはひとりでにはらはらと涙をこぼしていた。


 ふと、気配を感じて狛が振り返ると、シズは涙を拭いてにっこりと笑顔を取り戻していた。せっかくの来客…しかも、若い娘に辛気臭い所を見せたくはない。狛と目が合ったので、淹れたばかりの紅茶を見せた。


「寒いでしょう?おかわり、いかがかしら?」


「あ、頂きます。…っと、その前に、ご主人にお線香あげてもよろしいですか?」


「あらまぁ…!そんな事までして下さるの?しっかりした娘さんねぇ、さすが大きなお家のお嬢さんは違うわ。うちの娘に見習わせたいくらい」


 少々今更ではあるが、狛の出した提案を聞いてシズは望外の喜びを顔に浮かばせた。もうずいぶんと、夫の仏前に手を合わせて線香をあげてくれる他人には会っていない。10年も経つのだから当たり前ではあるのだが、それがまさかこんな娘さんだとは思ってもみなかった。夫は忘れ去られたわけではなく、今でもこうして手を合わせてくれる人がいるのだという、その心が嬉しかった。


 仏間に案内され、狛は静かに会釈をしてから仏壇の前に座った。退魔士には対霊の仕事もあるので、こういう作業はお手の物だ。線香に火を点け、そっと立てて手を合わせる。狛は目を瞑り、静かに祈った。

 やや時間をかけた後に目を開け、ちょうど仏壇に飾られた遺影と目が合った時だ。遺影の中で笑っている男性の顔が、狛の中である人物と符合した。


「あ、あれ…もしかして、おにぎりのおじさん…?」


 そう呟く狛の脳裏に浮かんだのは、忘れかけていた子どもの頃の記憶である。




 当時、狛はまだ5歳になるかならないかくらいの年齢であった。良く晴れた爽やかな青空の下で、狛は独り泣きべそをかいていた。


 別に誰かにいじめられたとか、嫌な事があったわけではない。単純に、お腹が空いていたのだ。その日は平日だったので、面倒を看てくれる兄の拍は小学校に行っており、まだ現役バリバリだったハル爺やナツ婆も仕事でいない。本来ならば分家の誰かしらが居るはずなのに、たまたま買い物に出かけていて留守だった。その時家にいたのは、狛と父親のシンの二人だけだったのである。


 狛は生まれた直後から大食漢の片鱗を発揮しており、赤ん坊の頃は哺乳瓶で10本ものミルクを平らげていたらしい。さすがに飲み過ぎだからと取り上げたら、火が点いたように泣きだし、イツが暴れるので、家族は渋々飲ませていたと後から聞いた。


 そんな狛も、この頃には父の仕事をなんとなく理解して、彼が忙しそうだなと思った時は耐える癖がついていた。そんな中、昼までには仕事が終わるからと言っていたシンは、昼を過ぎても自室から顔を出さなかったのである。


「ぅ……」


 狛はじっと庭の柿の木を見つめながら、空腹に耐えていた。肩に乗ったイツが頬を舐めて慰めてくれるので、寂しさは感じないが、空腹はどうにもならない。木登りをして柿を取りたい所だが、この数日前に木登りをしたら、兄と父から猛烈に怒られたので我慢している。


 年齢からすれば、狛はよく我慢している方だろう。それでなくても食に貪欲な性質をしているというのに、これだけ待てているのは大したものだ。しかし、もう我慢も限界が近く、イツに頼んで柿を落としてもらおうかと悩んでいた所へ、一人の男性が現れた。


「よぅ、お嬢ちゃん。こんな所でどうした?柿が食いたいのか?」


 そう言って笑いながら話しかけてくれたその顔は、狛にとって天の助け以外の何物でもない優しい微笑みに見えた。

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