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第138話 思い出がポロポロと

「え?餅田さん?」


『違う、モチ、だ。好きに呼べと言ったのは私だから、モチダでも構わんが…』


「ああ、モチちゃんね。ごめんごめん、猫田さんが猫田だから、つい」


 文字ならともかく、言葉にすればやたらと解りにくい会話である。モチはクリっとした目を半目にして、狛をジロリと睨みつけている。ただでさえ下僕扱いだというのに、また評価が下がってしまったようだ。狛は謝りながら、ちょっとだけ凹んでいた。


「…えっと、それで、モチちゃんは何の用事だったの?」


『ふむ。先程も言ったが、本来は神様に相談するつもりだったのだが…まぁ、人間の事は人間に頼むのもいいか。着いてこい』


(私、これから学校なんだけどなぁ…しょうがないか)


 モチはそう言って、ぷいと体の向きを変えてどこかへ歩き出した。身体が重いのか、一歩一歩がかなりゆっくりで、普通に歩いているのにタシタシと足音がする。通常、猫は足音を立てずに移動するはずだが、モチはよほどの重量があるらしい。歩く度に柔らかそうな腹の肉が揺れて、今にも地面につきそうだ。余談だが、後ろから見て解ったが、モチはメスである。

 狛はなんだかハラハラしながら、その後を着いて行く事になった。


 そうして、モチに案内されて辿り着いたのは、一軒の普通の家であった。住宅街の片隅にあって、特に大きくもなければ小さすぎもしない。本当に極々一般的な住宅である。そこの生垣の隙間に首を突っ込んで拡げ、モチは中を見ろと促した。


(これって人に見られたらヤバイんじゃ…?だ、誰も来ませんように)


 狛が恐る恐るその隙間から中を覗くと、家の庭と小さな縁側が見えた。そしてそこには、一人の老婆が何をするでもなく佇んでいる。品の良さそうな見た目をして、歳の頃はナツ婆とそう変わらないくらいに見える。おそらく、60代後半と言った所だろう。

 遠目からだが、彼女に変わった所は特に見受けられず、猫田に相談しなければならないような状況には見えない。狛はその隙間から顔を離して、改めてモチに向き合った。


「モチちゃん、どういうこと?あの人に何かあったの?」


 そう問われたモチは、目を瞑って肩を落としてしまった。


『それが解らないのだ、私には人間の悩みなどなにも…ただ、落ち込んでいるのだけは解る。毎年いつも、この位の時期になるとあやつはああやって、あの場所に座り、元気を無くしているように見える。私はなんとかしてやりたい、私を拾って、ここまで育ててくれたあやつに恩を返したいんだ…』


 しょげ返るモチの姿は、先程までとは打って変わって、まるで空気の抜けかけたサッカーボールのようにしおれて見えた。丸々とした大きな身体も、今ばかりはどことなく小さくなってしまったようだ。全く違う別人…いや、別猫のような変わりっぷりに、狛は胸を痛めて思わずギュッと抱き締めていた。


「そっか、辛かったね。…私がどこまで力になれるか解らないけど、頑張るから安心してね」


 抱き締めたモチの身体は温かく、とても柔らかい。その名の通り、突き立てのお餅そのものだ。白い見た目も相まって、あの老婆がモチと名付けたのも頷ける。その感触が気持ち良くて、狛は存分にその抱き心地を味わっていた。当のモチは人に抱かれる事に慣れているのか、素直に抱かれたまま嫌がる素振りも見せず、黙って狛にその身体を預けていた。


「あら、どなたかしら?」


「ひゃあっ!?あ、あああ、わ、私別に怪しいものじゃなくて、その…!」


 いつの間にか、あの老婆が門の所に立っていて、狛に声をかけてきた。狛は怪しくないと言ったが、女子高生が生垣に背を預けて道路に座り、猫を抱き抱えている姿はどう見ても不審者か訳ありだ。狛は慌ててその場に立って、モチを抱えたまま頭を下げた。


「あ、あの、この子が学校の近くで迷子になってて…ここのお家の子だって聞いたもので…!」


「…あらまぁ、そうだったの?オモチ、優しい人に見つけて貰えて良かったわね。良かったらお茶でもどうかしら?」


 咄嗟に口から出たデマカセだったが、何とか通じたようで、狛は胸を撫で下ろす。とはいえ、時間的に見ても言い訳の信憑性は低い。優しそうに見える人物だし、あえて、黙って話に乗ってくれただけかもしれない。ただ、どんな理由であれ、話をするきっかけになったのは幸いである。狛はせっかくのチャンスを逃すまいと、この機に乗じてお宅へお邪魔することにした。


「さぁ、どうぞ中へ入って。ふふ、お客様なんて久し振りだわ。最近はすっかり人付き合いもしなくなってしまって」


「お、お邪魔しま~す」


 モチを抱いたまま、狛は室内に入る。外から見た通り、特段変わった様子のない普通の家だ。狛の住む犬神家の本邸は、かなり大きい。それに比べるとだいぶこじんまりした感じは否めないが、それが普通でない事を狛は正しく理解している。それでなくても最近は、やたらと大きな化野邸や桔梗の暮す神子家、それに九十九と出会った野上氏の本宅など、大きな屋敷ばかりに縁があるのだ。こういった一般的な家に、どこか落ち着く感覚を覚える狛であった。


「お飲み物は何がいいかしら?貴女みたいな若いお客様の好きそうなものがあまり無くて、ごめんなさいね。この紅茶はとても美味しいから、ぜひ飲んでみて頂戴」


「あ、はい。ありがとうございます、頂きます。…わ、ホントだ。すっごく美味しい」


 椅子に座って紅茶を一口すすると、とても瑞々しい苺の香りがした。フレーバーティーというものなのだが、犬神家では基本的に日本茶か玄米茶、もしくはほうじ茶といった和のお茶ばかりなので凄く新鮮だ。モチに連れられて来て、こんなに美味しいお茶が飲めたのは幸運だと、狛の顔はすっかり綻んでいる。

 その間も、モチはずっと狛の太ももの上に陣取っていて、静かに目を瞑って佇んでいる。どちらが飼い主か解らない有り様だ。老婆はそんな姿を見ながら、コロコロと笑っていた。


「あらまぁ、オモチったらすっかり貴女に懐いてしまって…珍しいわねぇ。ええと、ごめんなさい。そう言えばまだ自己紹介もしていなかったわね。私は歌習かならい歌習かならいシズよ。よろしくね」


「あ、こちらこそすいません!私は狛です、犬神狛。よろしくお願いします」


「犬神…ああ、あの山の上の大きなお屋敷の?」


 そう言われて、狛は内心ドキッとした。もうそんな時代ではないとはいえ、その昔、犬神家は狗神筋と呼ばれて忌み嫌われる一族であったと聞く。狛の周囲の人間は犬神家と聞いて嫌な顔をすることはないが、特に相手が年配の人間になると、ほんの少し警戒される事がある。それは犬神家が、得体の知れない裏稼業をしているという噂があるからなのだが、退魔士という裏稼業を営んでいる事自体は事実なので、微妙に反論しづらいのだ。


 目の前のシズがそういうタイプの人物だとは思わないが、もし警戒されたら気まずいと、狛は少しだけ気が重くなった。


「え、ええ…まぁ、はい。そうです」


「あらあら!すごいわ、町内会でも有名なのよ。犬神さんの所はペット関連の商品が凄いでしょう?うちのオモチも、お宅のキャットフードが大好きなの。ウフフ、それで貴女に懐いてしまったのかしら」


「あ…ありがとうございます。そういうお言葉って、中々直には聞けないので、家の者も喜ぶと思います」


 まさかの返答に、狛はホッとすると同時に、胸の奥でシズを疑ってしまった事に僅かな痛みを覚えていた。見た目で判断するのは良くないが、やはりシズはその優しそうな見た目通りの女性であるようだ。狛は嬉しくなって、ゆっくりとモチの背中を撫でつけていた。

 さて、そんな他愛も無い話ばかりをしている時間もない。狛はちらりと壁にかけられた時計を見てから、モチが気にしているシズの悩みについて切り込んでみる事にした。


「あの、シズさんはお一人で暮らしているんですか?」


「ええ、そうよ。子ども達も大きくなって、皆独り立ちしてしまったからね。そろそろお正月も近いけれど、今年は帰って来るのか来ないのか。全く、皆薄情よね。……って、ヤダ、ごめんなさい。若い貴女にそんな事言っても仕方ないわね」


「いえ…あの、旦那さんは?」


「ああ、主人ならもう亡くなったわ。…もう10年になるかしら。まだ50代だったから早過ぎたわね」


「そ、そうだったんですか。すみません、辛いことを…」


「あら、いいのよ。あの人が私を置いて、さっさと逝ってしまうのがいけないんですもの。…まぁ、本当は寂しくないと言えば、嘘になるけれど」


 シズはそう言うと、自分の分の紅茶に口をつけて、ふぅっと一つ深く息を吐いた。その顔は、愁いを帯びた顔としか表現できない。当たりかな?と狛は思った。きっと亡くなった夫に何か思い悩むヒントがあるに違いない。しかし、その後に引き続いた言葉は、思いもよらないものであった。


「寂しいのとは違うんだけれど、聞いてくれるかしら?不思議な夢を見る事があるの。今日みたいな冬の寒い朝に、庭で何か大切なものが見つかるような…何なのかしらねぇ」


「夢…お庭で…」


 狛はその話を聞いて、はたと庭の方へ視線を向けた。生垣の隙間からは見えなかったが、あまり背の高くない、見た事もない植物が生えている。狛は何故かその植物が気になって、しばらくの間、目を離せなくなってしまったのだった。

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