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第137話 耳をすませて

「なんだか、尻尾がおかしい」


 その日の朝、起き抜けに猫田はそう一言だけ呟いて、そのまま再び眠ってしまった。


 猫田が眠る時は、大体いつも普通の猫の姿になって、狛のベッドで一緒に寝ている。二人だけではなく、アスラも必ず一緒だ。布団の中にアスラが、枕元に猫田が、それぞれ必ず同じ場所に陣取っている。

 普段の猫田は、狛が起きると同時に目を覚まして活動を開始する。くりぃちゃあでのアルバイトがある日は必ずをして身体をほぐしてから動き出す。どういうわけか、アルバイトが無い日はその動きをしないのが不思議である。いつか聞いてみようと思っているが、狛はすぐに忘れてしまって、未だに聞けずじまいだったりする。

 それから狛が身支度を整えている間に、猫田も人に変化をして歯を磨いたり顔を洗ったりするのだが、それは毎日の事なので、特に翌日雨が降ったりはしないようだ。そして、今日に限っては二度寝をしてしまったので、狛はちょっとだけ驚いていた。


「猫田さん、具合が悪いの?おーい」


 普通の猫や犬が相手ならば、狛はその心を読む事ができるのだが、猫田にはその特技が通用しない。猫田の場合は言葉が通じるのだから、あまり重要ではないのだが、今日のように眠ってしまうともうお手上げだ。背中を撫でたり額を優しくツンツンしてみたものの、猫田は寝息を立てるばかりで、全く反応を返さない。妖怪である猫田が病気になる事など考えられず、妙な事もあるものだと思いつつも、体調が悪いことぐらい誰にでもあるかと、狛は深く考えずに朝食を終えて学校へ向かった。


「うぅー…!さっむうい…なんだか、急に冬になっちゃった感じがするなぁ…」


 亜那都姫アナトヒメを巡る騒動から四日。ちょうど今日はクリスマスである。世間ではやはり恋人と過ごす時間として考えられるものだが、生憎と、狛にはそんな相手はいなかった。正確に言えば、気になる人物が最近出来た…と言うべきなのだろうが、残念ながら連絡先も交換できなかったし、住所も知らない。とても今日この日にもう一度会うのは難しいだろう。

 匂いは覚えているので、狗神走狗の術で人狼化すれば追えるかもしれないのだが。


「はぁ…今まで解んなかったけど、皆、こんな気持ちでクリスマスとか過ごしてるのかな。…き、京介さんも、一人、かな?」


 この場にいないのに名前を呼ぶのが恥ずかしいだなんて、狛には初めての経験だった。友達相手には距離が近い狛であっても、どうやら恋人にはグイグイとはいけないタイプらしい。そもそも初恋なので、経験不足故に勝手が解らないというのもありそうだ。恋する乙女…という自覚はまだ無いが、少女が匂いを辿って会いに行くというのは、正直、変態染みていてする気にならない。結局、諦めるしかないのだと溜息を吐いて空を見上げた。


 そんな事を考えつつ山を下りて、街中へ入った辺りの事である。


『もうし、もうし』


「うん?」


 住宅街の端で誰かの呼ぶ声が聞こえた。辺りを見回してみても、特に人影はない。狛がこの辺を歩く時間は、まだ少し早いので通勤や通学の為に歩いている人はまばらだ。かと言って、霊や妖怪の類いでもないだろう。近くには、そんな力を感じるものは何もない。もちろん、人の生活する場である以上、浮遊霊などの雑霊はそこらにいるのだが、見る限りそういうわけでもなさそうだ。


「気のせい、じゃないはずだけど。誰?」


『もし、そこの娘。ここよここ、お前の右上におる』


「右…上?」


 奇妙な声の奇妙な指示に首を傾げつつ、狛は言われた通りに視線を右上に投げてみた。すると、その民家の塀の上にいたのは白地にグレーのハチワレ模様が入った猫であった。


「ね…こちゃん、だよ、ね?」


『いかにも。人の娘にはそう見えんのか?人間の考える事はよく解らぬ』


 狛がそんな反応をするのも無理はない。その猫はでっぷりと太っていて、とにかく丸いのだ。ブロック塀からはみ出そうな腹の肉もそうだが、頬っぺたには瘤取りこぶと爺さんのような丸い肉が左右に付いている。はっきり言って重そうだ。どうしたらこんなに太れるのか不思議な体格をしていた。

 自分が猫に見えないと言われて不満だったのか、その猫は前足を舐めて顔を洗ったり、後ろ足で身体を掻こうとしている。猫のそういう仕草は、ストレスを感じた時にもすると聞く。しかし、腹の肉が邪魔をして、上手く描けない様であった。最初はその体型に面食らったが、見慣れてしまえば非常に愛らしい姿に思えてきた。

 見かねた狛が右手を差し出して、少し匂いを嗅がせてから耳の後ろら辺を掻いてやると、その猫は気持ちよさそうに顔を擦りつけてきて、ゴロゴロと喉を鳴らしてみせた。


(か、かわいい、かも…)


 たまに猫の姿でいる猫田の背中を撫でたり、身体を掻いてやったりするのだが、当然ながらここまで猫らしい反応をすることはない。精々が鼻歌混じりに尻尾で優しくポンポンと身体を叩いてくるくらいのものだ。それはそれでかわいらしいし、普段人型でいる猫田から比べるとギャップが凄くていいのだが、やはりこういう猫らしい反応は新鮮で好感が持てる。

 しばらくそうしていると、やがて飽きたのか、猫はすっと甘えるのを止めて狛の手から離れた。


『さすが、神様の下僕よな。なかなかの手技である』


「か、神様…?神様って……え、もしかして、猫田さんのこと!?」


『如何にも。しかし、神様に対してお前の態度はどうかと思うぞ』


 狛がいつから下僕にされたのか詳しく聞きたい所だが、それ以前に猫田が神様扱いされている事にまず驚いた。しかし、よくよく思い返してみれば、猫田はこの街の猫達を従える総大将のようであった。単に猫又という妖怪だからそうなのかと思っていたが、普通の猫達からすると猫田は神様として扱われるほどの存在だということか。


 若干複雑な胸中が顔に出ていたのか、その猫は狛の顔を見て怪訝な表情をしている。なんというか、表情豊かな猫である。野良猫、というよりは飼い猫なのかもしれないと狛は思った。


「ええっと…それで、私に何か用があるの?」


『無論だ。本来は神様にお伺いを立てるべきところなのだが、今日はお姿を見ておらぬ。なので、お前に話をすることにした。神様はお忙しいか?』


「ああ、いや、えーっと…」


 狛はどう答えるべきか内心で困惑していた。正直に体調が悪そうだと言ってもいいのだが、なんだか迂闊な事を言うと、街中の猫に話が回りそうな予感がする。狛の自宅は私有地の山の中にあるとはいえ、万が一にでも大量の猫に見舞いへ詣でられたら大騒ぎになるだろう。山にはそれなりに肉食の野生動物もいるし、余り危険な目に遭わせたくもない。


「うん。ちょーっと、忙しい?…みたい……アハハ…」


『ふぅむ、やはりそうか。神様だから仕方ないな、いやはや、あの方には頭が上がらぬ。しかし、娘よ。お前は神様の下僕なのだから、お忙しいのであれば猶の事お手伝いせねばならんぞ』


 何故だかお説教をされてしまったが、今更本当の事は言えないので、狛は笑って誤魔化す事にした。そんな狛の様子など気にも留めず、その猫はブロック塀から降りようとしている。しかし、キョロキョロと足場になりそうなものを探すばかりで、一向に飛び降りようとはしなかった。

 そもそも、その塀は170センチ以上ある狛よりも大きい、そこそこ高い塀である。この体でどうやってこの高さまで登ったのかは不明だが、飛び降りるには負担が大きそうに思える。


 壁に爪を立てて、ずり落ちるように降りようとしているのを見て、狛は慌てて猫の身体を両手で支えた。


(う、重っ…!?)


 すっかり怪力を誇るようになった狛だが、正直に言って、ずっしりとした重さを感じている。見た目よりも筋肉質なのか、丸いかわいらしい見た目とは裏腹に、ブルドッグのような重量だ。狛は少し腰を入れて、しっかり抱えることにした。


『お?おお、さすがだな、下僕の娘。私を持ち上げられる人間は中々いないのだが、大したものだ』


「自覚あるんならもうちょっと痩せた方が…ううん、いや、いいんだけど」


 狛も女子なので、他人から痩せろと言われるのは精神的なダメージがある。とんでもない量を食べても太らない体質とはいえ、やはりそこは年頃の娘として気になる所なのだろう。自分が言われて嫌な事は言いたくないという意識が働いたようだった。


 猫は狛の腕の中から降りると、ゆっくりと座って狛に頭を下げた。


『礼を言うよ、下僕の娘。私の名は、モチだ。私を名付けた人間がそう呼んでいるが、まぁ好きに呼んでくれて構わない』


 モチと名乗る猫はそう言うと、静かに頭を上げて、狛の顔を覗き込んだ。クリクリとした金色の瞳には狛の顔が映り込んでいる。冷たい風などお構いなしに佇むその姿は、何処か優雅さを感じるものであった。

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