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第72話 苦い結末

 それは歪すぎる、肉の塔だった。


 互いに溶け合い混ざり合い、ぐねぐねと弾力のある質感の肉塊とあちこちから飛び出した骨。さらに折り重なるいくつもの灰色の肌をした人間の上半身は、まるで釈迦の蜘蛛の糸に群がる亡者の群れのように高く高くそびえている。こんなものが人間の果てだなどと誰が思うだろう。これに比べれば、かのフランケンシュタインの怪物でさえ、とても見目麗しいイケメンになるだろう。


「な、なんなの、これ…」


 狛は絶句し、圧倒されていた。今までに妖怪や魑魅魍魎など、人外の怪物はそれなりに見てきたつもりだが、ここまで醜悪極まりないものはお目にかかった事がない。これこそまさに屍鬼である。

 これも彼らが人を殺し、人を騙して甘い蜜を吸ってきた、そのツケが回ってきたと言う事なのか。


「ふ、ふふふ…あはは!あーっはっはっは!ざまぁないわ!それがアンタ達外道に相応しい姿よ!」


 ミカは屍鬼と化したエンゼ達を罵り嗤う。その瞳には、怪物を前にしての怯えや絶望など微塵も感じられない。それどころか、最愛の人の仇を討てる…そんな昏い悦びさえ浮かんでいるようだった。


「ミカさん…!」


「オオオ…オオオオオ!!女、死ネェッ!!」


 元エンゼ達だった屍鬼は、最後にエンゼが願った女を殺せという願いを忠実に守っているらしい。ただし、ミカだけでなく狛もその対象に入っているようだ。巨体を揺らして勢いをつけ、二人を押し潰そうと倒れ込んできた。


「ミカさん!危ないっ!」


 狛は瞬時にミカの身体を抱えて横に跳んだ。ズズン!という重量のある音がすると、屍鬼はさっきまで狛やミカが立っていた場所に倒れ込み、床に亀裂が生じていた。さらに、その身体に浮かび上がったいくつもの顔が狛達を睨みつけている。なんとも悍ましく恨みの籠った視線だ。ミカはさておき、狛を恨むのは完全にお門違い、逆恨みの極致というべきものだが、もはや彼らにそんな理知など残っていないようだ。ただただ、女を殺すことに特化した屍鬼、


「くっ!ミカさん離れて、こうなったら私が…!」


 抱えていたミカを床に降ろし、狛は庇うようにその前に出て、怪物に立ち塞がる。イツを呼び出して狗神走狗の術を使おうとした、その時だった。


「うふふふ、ふふ、ヒヒヒ…!」


「み、ミカさん?」


 狛の背後で、奇怪な笑い声をあげるミカは既に正気を失っていた。憎い仇を前にして気をやってしまったのではない。彼女の手には何か得体の知れないものがあり、それが異様な気配を放っている。あの真実の首というものと同じ呪具のようだ。


「おお、おおオオオオオァァ!!」


「う、嘘!?」


 振り向いた狛の目の前で、ミカは異形へと転じていった。見る間に角が生え、肌は赤黒く変色し、筋肉が肥大化して身長も倍以上に伸びている。その姿はまさに鬼女、いや、伝説の羅刹女そのものだ。


 人がその尋常ならざる恨みや憎しみから鬼となる事は、遥か昔から伝えられてきた変化である。しかし、それを目の当たりにしたのはいくら狛でも初めての事だった。屍鬼と羅刹女に囲まれた狛は、狗神走狗の術を使う事も忘れ、茫然と立ち尽くしてしまった。

 その隙を突いて、羅刹女と化したミカは邪魔な小枝でも振り払うかのように狛を殴りつけた。


「はっ!?っ、ぐぅぅぅ!!」


 狛は工場の壁まで激しく吹き飛ばされ、大きな音を立てて背中から壁に激突する。あまりの衝撃の強さに息が止まり、呼吸さえ満足にできなくなるほどの威力だ。鬼の怪力は凄まじいが、神奈が半鬼化した時よりも、遥かに強力なパワーを感じる。ミカは恐らく呪具によって、こうなる事を覚悟していたのだ。

 衝撃と痛みで、視界が歪む。それでも、骨折までいっていないのは、身に纏っていた九十九つづらが守ってくれたからだろう。


「オオオオオ!」


「ガアアアア!!」


 吹き飛ばされた狛には目もくれず、羅刹女と屍鬼がぶつかり合う。パワーでは羅刹女の方が上のようだが、不定形で打撃の効果が弱い屍鬼が相手では苦戦を強いられているようだ。羅刹女が屍鬼の頭が集まっている場所に拳を叩き込むと、ぐしゃりと何かが潰れた音がしたが、逆にその腕には無数の尖った骨が突き刺さり、羅刹女は右腕を捕らえられてしまった。


「み、ミカさん…助け、なきゃ…っ!」


 よろめきながら立つ狛の肩に、いつの間にかイツが乗っている。すでに臨戦態勢に入っているようで、屍鬼や羅刹女の方を見て低い唸り声をあげている。


「イツ…やるよ!」


 狛の合図を受けてイツが跳ね、狗神走狗の術を発動させる。狛はその勢いで一気に駆け出し、羅刹女の腕を捕らえている屍鬼に向かって飛び蹴りを放った。


「はぁぁぁぁぁ!たぁっ!!」


 強烈な蹴りがめり込み、羅刹女の腕に刺さっていた骨がボキボキと音を立てて折れていく。羅刹女はそれに合わせて腕を振り抜き、後方へ飛び退った。一方、狛の蹴りそのものによるダメージは期待できそうにないが、狛はすかさず尻尾を使って強力な霊波を放ち屍鬼の身体を大きくのけぞらせた。先程の羅刹女のように、足を取られないようにするためだ。


「オオオ…!!」


 足のない屍鬼は、ズルズルと肉を引きずるように後退したが、決定的なダメージには至っていないようだった。このままでは、と思ったその時、廃工場の屋根を突き破って何かが飛び込んできた。


「狛ぁっ!無事か!?」


「猫田さん!!」


 既に巨大な猫の姿になっている猫田は狛と屍鬼の間に着地し、屍鬼とその向こうにいる羅刹女を交互に睨んだ。が、いまいち状況が掴めないらしい。


「どうなってやがる?大型の屍鬼と羅刹女だと…?」


「あっちの羅刹女はミカさんだよ、何かの呪具で変化しちゃってるみたい。それと、この屍鬼はミカさんが拉致してきた人達だったんだけど。猿の手を使ってこんな姿になっちゃったの。あと…タクトさんを殺したのは、この人達だって」


「なんだと…!?だが、何故だ、どうして殺しが俺や人間の警察に解らなかったんだ?」


「それも多分猿の手で隠したんだと思う…ミカさんが別の呪具でそれを調べたみたいだから」


「そうか…なるほどな。殺しや富を得る事に代償の大きい猿の手を使わず。自分達の危機に対する保険として使ったのか…ずる賢い奴らだぜ。あんなもので隠蔽されちゃ、そうそう解るはずもねぇ。しかし、そうか、コイツが…!」


 猫田の目が鋭く光り、激しい怒りを湛えさせている。かつての飼い主、タクトの仇ならば、ミカ同様この手で討ちたいと思っているのだろう。屍鬼に変化してしまった今となっては、もはや狛も止めようとは思わない。少し胸は痛むが、これが報いということだろう。


「猫田さん、ミカさんは私が!」


「…ああ、任せた。行くぞ!」


 それを皮切りに、まずは猫田が屍鬼に飛び掛かる。その身体を隠れ蓑にして狛も羅刹女の元へ走り出した。


 猫田の拳が、屍鬼の身体を滅多打ちにしていく。本来の猫パンチというのは軽いものだが、今の猫田は虎をも上回る巨体だ。霊力で強化された腕力も同様に、野生のそれらを遥かに超えた威力を備えている。しかし、異常な弾性を持つ屍鬼は乱打を全く意に介さず、複数の口から、暗い深緑色をした液体を猫田に向かって大量に吐きかけた。


「…っと!毒液か?やってくれるぜ」


 間一髪の所でそれを避け、後ろへ下がった猫田だが、床に落ちた毒液は、不気味な音を立てて、コンクリートの床をジュクジュクと溶かしている。いくら猫田でも、まともに食らえば危険そうだ。


「まだまだぁっ!!」


 打撃が通じないとみるや、すぐに猫田は動きを変え、ジグザグに飛び跳ねながら屍鬼に接近し、鋭い爪を使って屍鬼の身体を切り刻んだ。毒液に狙われないように四方から爪を立てていくそのスピードに、屍鬼は全く追い付けない。しかし。


「なにっ!?」


 それまでゆっくりとした動きだった屍鬼に足が生え、塔のような身体を持ち上げるとグルグルと回転を始めた。そして、鋭利に尖った骨の矢と毒液を、めったやたらに飛ばし、吐き出していった。さすがの猫田も、その予想外の反撃には若干対応が遅れた。いくつかの骨矢は身体に刺さり、毒液も何発か浴びてしまう。

 猫田の身体にかかった毒液はみるみるうちに、毛皮と肉を溶かし、骨にまで到達している。骨の矢も毛皮を貫きはしたが、筋肉で止まっているようだ。


 ただ、それ以上に厄介だったのは、猫田の爪による斬撃も、屍鬼には通用していない事の方だった。痛みに顔を歪めながら、それ以上の追撃を避ける為に、大きく距離を取る。そんな猫田の様子に、屍鬼は勝利を確信したのか、下卑た笑い声をあげてみせた。


「野郎…っ!ぐぅ…!」


 毒液は決して浅い傷ではない、実際に骨まで到達するほどの威力があるならば、大量に受ければ命取りになる。猫田の額には、汗が滲んでいた。


 一方、狛は一瞬のうちに羅刹女の前に立ちはだかり、説得を試みていた。


「ミカさん、落ち着いて!タクトさんの仇は猫田さんがとってくれるから!それ以上鬼でいたら、元に戻れなくなっちゃう!」


 対峙する狛の言葉を聞いているのか、それとも聞こえていないのか、羅刹女となったミカはひたすらに狛と睨み合っている。胸元には白い牙のようなものが見えていて、それが彼女を羅刹女に変えた呪具であるようだ。それを奪うか破壊すれば、ミカは元に戻れるかもしれない。しかし、今の状態が長く続けば、身体が鬼に定着してしまうだろう。一刻も早くなんとかしなければ。


 狛は様子を見つつ、羅刹女の隙を窺っているが、中々そのタイミングがない。そもそも羅刹とは単なる鬼ではなく、時には古い神族の一端として数えられるほどの妖怪だ。


 伝説に謳われる羅刹女の代表と言えば、西遊記で孫悟空と一騎打ちをした鉄扇公主だが、彼女はかなりの実力者であった。そんな本物の羅刹女とまではいかないまでも、ミカが変化したこの羅刹女はかなりの力を持っていた。

 それを殺さずに無力化しようというには、こちらもまた相当の実力が必要だ。まさに孫悟空に匹敵するほどの。


 じりじりと間を詰める狛に向かって、羅刹女は突風のようなスピードで飛び込み、無事な左腕で強烈な打撃を放った。


「速っ!?…くぅぅ!!」


 咄嗟に受け止めはしたが、その正拳の威力は途轍もないものだった。チャンスだというのに、攻撃を受けた両腕は痺れ、反撃に移れない。羅刹女はすぐにバックステップで後ろに下がり、また狛と距離を取っている。

 同じ攻撃をされれば、次は受け止めることなど出来ないだろう。このままではもう、ミカを殺すしかなくなってしまう。その時だ。


 屍鬼と相対する猫田が六本の尾から、紫に光る炎を集中させた。その輝きを見たミカが、ほんの一瞬だけ動きを止める。


「屋内でやりたかなかったが…仕方ねぇ。いけ!魂炎玉こんえんぎょく!」


 猫田の尾から放たれた炎の玉が、屍鬼を襲う。これまで打撃や斬撃に無敵の耐性を誇っていた屍鬼だったが、炎にだけは手も足も出せないようで、直撃すると瞬く間に全体が燃え上がって断末魔の叫びをあげている。


「ギャアアアアアアア!!」


「よく燃えやがるぜ…だが、やっぱコイツはマズいな」


 猫田の危惧した通り、屍鬼はそれ自体が燃料のように燃え盛り、凄まじい程の火勢は一瞬にして工場の天井にまで届く炎の柱に変わっていた。しかも、ついさっきまでアルコールの高い酒が床にぶちまけられていた為に、それにも引火している。炎はあっという間に、工場全体に燃え広がってしまった。


「グルルル…!」


「今だっ!」


 炎を嫌い、羅刹女が怯んだ隙を突いて、狛は一足飛びでその懐に飛び込んでいた。狙うは胸元にある白い呪具。ここで破壊できなければ、もう打つ手はない。


「いける!」


 真正面に飛び込んできた狛に、羅刹女は恐るべき超反応で再び左の拳を打ち下ろそうとしていた。狛は最悪、相打ち覚悟であったのだが、そこで奇跡が起きた。


 羅刹女を抱きしめるように、背後からそっと手を伸ばすものがいた。

 それは実体ではなく、長らく猿の手によって封印されていた、木峰巧斗の魂である。猫田の放った魂炎玉こんえんぎょくは、屍鬼の身体を焼き尽くし、エンゼが身体に忍ばせていた猿の手をも破壊したのである。

 それによって解放された魂が、ミカの心を人へと導いたのだ。


「アア…タクト…」


「独りにしてごめん、ミカ…もう大丈夫だから…」


 その邂逅は羅刹女の動きを止め、狛は刹那に呪具へ手を伸ばし、握り潰す。


「やった…!」


 だが、そんな狛とミカの頭上へ、焼け落ちた天井の梁が落下してくる。羅刹女から人間に戻りかけていたミカは狛よりも一瞬それに早く気づき、渾身の力で狛を突き飛ばしていた。


「あ!?だ、ダメ!ミカさ…」


 狛がその名を呼びきる前に天井は崩落し、ミカの身体はその残骸の下に消えた。

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