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第64話 猫田の記憶 其の壱

 カメリア国王を狙ったテロ事件は、大きなニュースとなって全国を駆け巡った。

 日本国内でこれだけの規模のテロ事件が起きた事は前代未聞だったが、幸いな事に犠牲者の数はそれほど多くはなく、首謀者のギンザは死亡し実行犯もほとんどが逮捕された事も相まって、一週間もすればニュースの一面からは遠ざけられて人々の話題になる事も減っていった。


 また、霊的な存在を使ったテロという部分は報じられず、あくまで爆発物や薬物を使ったものとして処理されたことも大きい。そもそも、空を埋め尽くす悪霊の群れや、魔法使いが空港を襲ったなどと言っても、世の中の大多数の人間は信用しないだろう。

 それらはまことしやかに都市伝説として噂されているだけである。


 そんな事件から、10日目。狛は、昏々と眠り続けていた。


 思えば、初めて狗神走狗の術を使い、人狼に覚醒したあの時も、狛は力を使い果たして6日近く意識を失ったままであった。しかし、今回はあの時以上に衰弱が激しい。医者の見立てでは命に別状はないというが、それは医学的に見ての話だ。

 霊力という魂の持つ力は、現代医学では計り知れないものである。猫田は狛の回復を待ちながら、病室で静かに彼女の目覚めを待った。


 元々、猫はじっと時が過ぎるのを待つのが得意な生き物である。年経た猫又である猫田にとって、眠る狛の傍らで待つ事など造作もないことだ。さすがに昼間の病室で猫の姿になるわけには行かないが、夜は猫に戻り、隠れて狛のベッドで眠っている。すっかり飼い猫のようになってしまっているが、本人はあまり気にしていないようだ。


 ウトウトと舟を漕ぎながら、猫田は夢を見ていた。それは遠い昔、まだ自分が何も知らぬ、一匹の猫だった頃の記憶であった。



 人間ならば物心ついた時、と表現するのかもしれないが、猫田が自分の生をはっきりと認識したのは、鬱蒼とした草むらの中であった。


 当時、猫がまだ現在ほど生息する数の多くなかった時代に、何故草むらで自分が生まれたのかは解らない。

 人間達が室町幕府と呼んでいた時代だと知ったのは、ずいぶん後になってからだが、その頃、猫はまだまだ貴重な存在だった。


 一部の貴族は平安時代から、愛玩動物として猫を飼っていたこともあるらしいが、それはあくまで貴族の話。この頃の猫という生き物は、商家などのネズミ捕り役として、ごく一部の人間達と共に暮らしている生き物であったのだ。

 そもそも、現代とは違って山や森に危険な動物が多かった事もあり、野良猫が野生で生きる事は難しかったのだろう。草むらで生まれた兄弟達は一匹、また一匹と数を減らし、気付いた時には、母猫すらもいなくなっていた。


 猫田は、自分の命を狙う生き物達から逃れようと、必死に山の中を駆けた。


 あの時、どれだけ走ったのかは、もう覚えていない。ただただ必死に、野犬や猪、鴉や狼といった危険な動物から逃れる為に猫田は走った。思い返してみれば、その中には妖怪のような存在も混じっていたような気がする。単なる猫であった当時の猫田には、そんな事は全く解らなかったのだが。


 そうして、いくつかの昼と夜を生き抜いて、辿り着いた山の小川で、猫田は一人の少女に出会った。

 何日も走り回って、もうクタクタだ。ここまで、目についた食べられそうな虫や、偶然死にかけていた小さな鳥などを食んで飢えを凌いできたが、喉の渇きはどうしようもない。フラフラと覚束ない足取りで小川に近づくと、猫田は疲れからか、そのまま倒れてしまった。


「あれ?何、このケモノ。見た事ないけど、かわいい…母ちゃん!母ちゃーん!」


(う、うるさい…けど、温かい)


 猫田を抱き抱えた少女は、猫を見た事がなかったのか、ぐったりとした猫田を恐る恐る抱え上げると、薄汚れた布で包みどこかへ連れ去っていく。

 疲れ切っていた猫田は、抵抗する気にもならず、少女の温もりを感じて目を閉じた。


「…コイツは猫だな、村の庄屋が飼っているのを見た事がある」


 少女の父親らしき人物が、猫田を見てそう言った。小さな納屋のような家は、玄関に土間と囲炉裏のある広めの居間があるだけで、あとはほとんど何もない。とても裕福な暮らしとは言えそうにないが、そこに住む家族は、幸せそうな一家であった。


「へぇ、私、猫って初めて見たわ」


 少女の母親は、興味津々と言った顔で、少女の腕の中で丸くなった猫田の顔を覗き込んでいる。母親の腕の中には、幼い赤ん坊がいて、どうやら少女はその母の真似事として、猫田を抱えているらしい。疲れ切っていたせいなのか、元々そういう性分なのか、猫田はそんな人間達を嫌う事なく、温かさを感じて安息しきっていた。


「そもそも金持ちが飼う獣だ。俺達には縁がねぇからな。…なんで森をうろついてたのかは知らねーが」


 父親は、茶碗に残った汁を飲み干しながら、それ以上は興味がないと言わんばかりに黙ってしまった。

 どういう感情なのかは解らないが、別に猫田を嫌っているわけではなさそうだ。


「ねぇねぇ、この子、うちで飼ってもいい?」


「うーん。アンタ、どう思う?」


 赤ん坊をあやしながら、母親は結論を父親に委ねようとしている。一応、決定権は父親にあるのだろう。そう問われた父親は、一瞬だけ母親の目を見て考えこんでいた。やはり、実際の権限は母親にあるらしい。


「べ、別にいいんじゃねーか?お前も姉ちゃんになるんだ、獣とはいえ世話の一つも出来た方がいいだろう」


「やったー!父ちゃんありがとう!」


「良かったねぇ、ミツ」


「うん!母ちゃんもありがとう!ねこ、ねこ!お前は今日からうちの子だよ?あたしがお前の母ちゃんになったげるからね!」


 少女の名前はミツというらしい。快活そうで朗らかな笑顔をした、優しい少女であった。猫田は事の成り行きを黙って聞いていたが、ミツが母になってくれると聞いて、にゃあんと一声鳴いて返事をしてみせた。


 それから、数年の時が経った。


 子猫だった猫田は立派な大人に成長したが、相変わらず夜はミツの腕の中に抱かれている。時折、ミツの弟がちょっかいを出してくるが、素っ気なく尻尾であしらうだけで、未だにミツにべったりである。しかし、子どもだったミツももう15歳。すっかり大人になって、絶世の美女とまでは言わないが、それなりに容姿の整った美しい女性に成長していた。

 どうやら、近い内に近隣の村に住む男の元へ嫁ぐことになるらしい。


 木こりだったミツの父親は、その昔ミツの母親と駆け落ちをして、この山に住み着いたのだそうだ。彼は生来、人付き合いが得意ではなかったが、猫田が来てからは少しだけ性格が明るくなり、よりせっせと木を切っては麓の村にそれを売り、生計を立てていた。

 猫田が拾われた当時と比べると、この数年で暮らしはだいぶ良くなった。粗末な小屋同然だった家は、そこそこな大きさになっていたし、食事の量も質も悪くない。


 ミツの婚約相手というのも、取引相手である村の庄屋の息子である。真面目に働くミツの父親に好感を持った庄屋が、息子の嫁にどうかと言ってきたらしい。必死に働いてきた結果が実って嬉しかったのか、ミツの父親は静かに涙し、妻と共に酒を飲んで泣いているその背中を、猫田はよく覚えている。


 だがこの頃、それまで比較的平和だった世の中は、荒れる様相を見せ始めていた。


 きっかけは、応永の大飢饉と呼ばれる飢餓である。それによって多くの農民が飢えに苦しむことになり、木こりであるミツの父親はその煽りを受けてしまい、ミツ達は一気に暮らしが厳しくなっていた。そんな中、長く平和だった応永の世も次第に人心が乱れ、野盗のようなゴロツキも増え始めていたのだ。


「今夜は、嵐になりそうだな」


 ミツの父親が、空を見てボソッと呟く。彼は天気を読むのが上手く、山間に住んでいながら、天災にあった事はほとんどないのが自慢であった。

 こんな日は早く寝た方がいいと、戸締りをして一家は布団に入る。この頃、ミツの母親の腹には新しい命が宿っていて、慎重になっていたようだ。いつもより早く眠りに就いた家の外には、降り出した雨に混じって、いくつもの荒い息と獰猛な視線が集まり始めていたが、嵐はそれらを巧妙に隠してしまっていた。


 そうして、惨劇の夜が訪れた。

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