目次
ブックマーク
応援する
3
コメント
シェア
通報

第58話 悪意の罠

「まったく、考え無しに飛び出しやがって。面倒見切れねーぞ、そんなんじゃ」


「ご、ごめんなさい。この子が襲われそうになってて、どうしても…」


 駆ける猫田の背で、狛は少女を抱えたまま、ただただ頭を下げていた。狛が空中から地上を見下ろした際、この少女を庇って、母親と思しき女性が悪霊の餌食になるのがハッキリとその目に飛び込んできた。母と娘というその図式から、瞬間的に狛の心は母の面影を感じ取ったのかもしれない。

 遺影とイツの記憶でしか、狛は母の顔を見た事がないが、きっと母ならば自分と同じように子どもを見捨てず救おうとしただろう。命と引き換えに自分を産んでくれた母に報いたい、そんな思いが狛の中に存在しているようだった。


 猫田にしても、怒りはしたがそこまで狛に腹を立てているわけではない。かつて共に戦った対妖のプロ集団である仲間達も、利に合わない行動を取ることがあった。そしてそれが、どれだけの人を救ってきたのか、それにより妖怪である猫田自身も利己的だった自分が変わって、どんなに救われたかなど身をもって理解しているのだ。

 そういう人間の行動が彼らの強みであり、同時に弱点であることも解っている。今回の敵のように、それを逆手に取るような相手であれば尚更だ。


(狛は甘い。当然だ、コイツ自身がまだ子どもなんだからな。だが、戦いの場に出たらそんな事は言ってられねぇ。宗吾さん、アンタならこういう時どうするんだ…?)


 猫田が人と共に生きてきた時間は長いが、最も強く人と繋がったのは、狛の高祖父である犬神宗吾や他の仲間達…『ささえ』の面々と生きたわずかな数年間である。自分が教わってきたことには限りがあるのだと、猫田は心を痛めて、今は亡き仲間に想いを馳せていた。


 新成田国際空港には、第一~第三ターミナルの他に、滑走路を一望できる専用の展望デッキが建てられている。より離着陸を間近で見たい場合は、第一ターミナルと第二ターミナルに設置された展望デッキが推奨されるのだが、それとは別に少し離れた所にあるこの展望デッキは滑走路全体が一つの視界に入るだけあって、様々な航空機の動きが楽しめると人気のスポットだ。


 猫田が見つけたという大型の結界は、その専用展望デッキ全体に仕掛けられていた。


 かなり強固なその結界は、飛び交う悪霊などものともせずに外部からの侵入を防いでいる。一階は逃げ込んだ人達の避難所となっており、二階は救助にきた自衛隊の作戦指令室やVIPの避難場所、それに一部マスコミ関係者用のスペースであるようだ。


 改めて近付いてみると、猫田はその結界に見覚えがあった。一度苦い思いをしているので忘れたくとも忘れられない、槐の結界だ。それと解ると、今度は別の問題が発生する。


「ここには俺は入れねーな…どうするか」


 そう呟いた所で、建物の中から結界を越えて一人の女性が現れた。眼鏡をかけ、髪を一つにまとめたスーツ姿の女性である。凛としたその振る舞いは、こんな状況にあっても、全く動じている様子がない。無風の水面のような静けさを湛えているようだ。女性は猫田達に向かって、丁寧に頭を下げてみせた。


「ようこそおいで下さいました、猫田様。私は犬神黒萩いぬがみこはぎです。狛、久し振りね」


「黒萩さん!…ってことは、槐叔父さんが、ここに?」


「ええ、そうよ。二人共、どうぞ中へ。心配なさらずとも、貴女達は結界が反応しないように槐様が定めてありますので」


 そう言うと、黒萩は身を翻して建物の中へ入っていった。猫田はとりあえず狛達を背中から降ろすと、人の姿に変化する。建物の中に入るには、あの姿では大きすぎるのだ。幸い、結界の傍だと悪霊達は結界に向かっていくばかりで、狛達を狙ってくる様子はないようだった。

 二人は顔を見合わせて、黒萩の後をついていくことにした。


「さっき槐って言ってたが、この女はアイツの部下か?」


 猫田は少し小さな声で、狛に質問してみた。犬神と名乗る以上、彼女も犬神家の一員なのだろうが、猫田は初対面である。どうにも初対面の時の感覚から言って、猫田は槐をあまり信用できていない。なので、その部下ともなると、警戒したくもなるようだ。

 狛は少し困った顔をして、黒萩の背中をちらちらと見つつ言葉を返した。


「部下っていうか、奥さん?あ、まだ籍は入れてないはずだけど…」


 狛が返答に窮しているのは、黒萩と槐の関係が少々複雑だったからだ。黒萩は現在24歳、佐那と同い年の女性である。かたや槐は38歳と、かなり歳が離れているのだが、本人が望んで猛アタックの末に婚約まで結びつけたと、狛は記憶している。

 二人が婚約に至るまでには紆余曲折があったらしいが、詳しい事は狛もよく知らない。ただ、槐には何か目的があるようで、昨年黒萩を受けいれて婚約を了承した時、籍を入れるのはもうしばらく待ってくれと言ったそうだ。

 その先延ばしにした理由は解らないが、よほど大事なことなのだろう。狛はそれを聞いて、佐那と拍の関係も進んで欲しいと羨ましく思った事を覚えている。


「へぇ。そういう関係か…なら、気を付けた方がいいかもな」


 猫田と槐の反りが合わない事は狛も察しているが、猫田が何に気を付けようと言っているのかは狛には解らない。

 猫田自身、槐に対して不信感はあるものの、それが何かはまだ掴めていないのだ。今はただ漠然と、槐の事を鼻持ちならない、信用できない相手と認識しているだけである。狛が理解出来ないのも当然だろう。とはいえ、狛自身も、槐という人間には底知れないがある気がして、あまり得意な方ではなかった。


 そんな話をしていると、いつの間にか、狛達は展望デッキのある屋上に辿り着いていた。そこには悪霊渦巻く空を見上げ、結界を見張る槐の姿があった。

 先を歩いていた黒萩は、槐の隣に立ってこちらが動くのを待っている。


「よう、狛、それに猫田か。ハル爺から家を飛び出したと聞いていたが、まさか本当に来るとはな。…で、何しにきた?」


「何しにって…?!お兄ちゃんを助ける為に決まってるじゃない。槐叔父さん、お兄ちゃんは今どこにいるの?」


「助ける?お前が?バカを言うな、この状況で半人前のお前に何ができる。そのガキを助けた所も見ていたぞ。威勢よく飛び込んで行った割に、ガス欠で動けなくなったようだな。猫田が居なければ、お前は死んでいたぞ。それを解っているのか?」


「っ!…そ、それは…」


 槐の𠮟責に狛は気圧され、言葉を失った。確かに、槐の言う通りだ。少女を助けたいと飛び込んだまではいいが、その後は力が続かず逆にピンチに陥ってしまった。


「そもそも、拍がああいう状態になった時、次に一族をまとめる権限を持つのはお前だ。拍が死ねば他の狗神達は別の一族の人間を選定するだろうが、それまではお前が当主になる。そのお前が無謀に前線へ出てきてどうするというんだ?お前には狗神に選ばれた自覚が足りん。全く、他の連中も、いつまでもに縛られているから困ったものだ」


 狛が何も言い返せずに黙っていると、猫田が庇うように一歩前へ出て、槐を睨みつけた。槐の言う事は正論ではあるが、それでも猫田だけは狛の味方でいてやりたいとそう思っている。


「その当主自らが出張ってこの様だろ。狛だけの責任じゃねーよ。大体、テメーはこんな所で何してやがる?」


「ふん。確かにこの事態を招いた責任の一端は俺達にもある。よもや連中がここまでやるとは思っていなかったからな。拍も、俺達調査部も反省せねばならんだろう。俺達は対妖に特化しているせいか、人間のテロリストを相手にすることを甘く見ていたようだ。これから自衛隊の連中と協力して、第一と第三ターミナルの制圧作戦に打って出る予定だ。それと、拍とカメリア国王は第二ターミナルだろう。…見ろ」


 槐が指を差したその先には、テロリストの爆弾によって、無惨にも破壊された第二ターミナルが見える。かなりの爆発があったのだろう。建物はいつ崩壊してもおかしくないように思える有り様だ。だが、おかしなことに悪霊達は第二ターミナルに近づく事が出来ていない。この展望デッキのように、結界に阻まれているようだった。


「あそこには、元々要人や一部の人間だけが利用できる特別ラウンジがあった。いくらカメリアの国王と言えど、多少は入国の手続きは必要だからな。あんなことが無ければ、一時的にあそこは貸し切りになって、そこで国王がしばし休息する予定だったのだ。その為に、特別な結界も用意してあって、それが今、展開されている。おそらくその結界を維持して守っているのが拍だ。そこに国王もいるだろう」


「なら、どうして第二ターミナルに行かないの?まずお兄ちゃんや王様を助けた方がいいんじゃ…」


「そうしたいのは山々だが、連中、第一と第三ターミナルに厄介なものを設置したのさ。放っておくと、この辺り一帯が地獄に飲み込まれる…厄介な黒魔術だ」


 驚くべき事実に、猫田と狛は息を飲み、その顔からは血の気が引いていた。

 そうしている間にも、空を埋め尽くす悪霊達は数を増し、狛達を嘲笑うかのように渦巻いていくのであった。


この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?