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第51話 事件の始まり

 突き付けられたナイフが、狛の喉に突き刺さろうというその刹那。狛の影からイツが飛び出し、レディの持つナイフに嚙みついて圧し折った。折れたナイフの先が、狛の頬をかすめてレディの顔に向けて飛ぶ。


「What!?」


 レディはさすがの反射でそれを躱そうと、狛の身体からわずかに身を離した。その隙を突いて、狛は渾身の力を込めて思いきり後頭部で頭突きをかます。ちょうどレディの方が背が高い事もあって、狛の頭はレディの鼻先にぴったり合っていたことから、強烈な一撃が、レディを襲った。


「がっ!?」


「つぅっ…!」


 レディは予想外に痛恨の一撃を受けたことで、狛を抑えていた手を離し、よろめきながら後ずさった。よほどの強打だったのか、かなりの鼻血を垂らしており、手で口元と鼻を抑えているが、隙間から血がじわりと滲み出ている。もしかすると、前歯にも打撃の威力が及んでいるかもしれない。

 一方、狛も後頭部の痛みを堪えつつ、体育倉庫の出入り口近くまで進んで、レディから距離を取って睨み合う形になった。咄嗟に反撃してしまったが、今の手慣れた動きからして、レディはただの同級生ではない事を察知していた。


「Blimey…!」


「レディちゃん…貴女一体、何者なの?」


 明確な殺意を込めたレディの視線は、狛を決して逃がすまいという固い意思を感じさせる。ゾワゾワと狛の肌が粟立つのが目に見えるようだ。しかし、狛も全く怯んではいない。尋常でない殺気を受ける事など、妖怪変化との戦いでは日常茶飯事だ。殺されるかもしれないからと臆しているようでは、人間は魑魅魍魎に勝てはしない。それに負けぬ強い意思で、狛もレディを睨み返した。


 ちょうどLHRの終わりを報せるチャイムが終わったので、そろそろ教室に戻り始めなければならない。時間をかければ、教師や他のクラスメイト達が様子を見に来るだろう。そうなれば、レディはもう手詰まりになる。狛にしてみれば、それを待つか、或いはこのまま逃げるかが最善手だろう。

 だが、狛を殺す事を決めたレディには、そんな狛の計算を一瞬で打ち壊す一手を放ってきた。


Dance till you die…!死ぬまで踊り続けろ


「え…!?」


 レディの呟きと共に、狛の足を掴もうと無数の手が現れた。それらは、次第に人の形を取っていく。狛は即座に反応して、体育倉庫の扉を体当たりで破壊し、その場を飛び出した。


「い、今のって…?!」


 次々に出現しようとしていたあれは、間違いなく死体達だった。レディから殺気混じりに流れていた霊力といい、狛は彼女の力、その一端を垣間見た気がする。噂でしか聞いた事はなかったが、あれが死霊術師ネクロマンサーというものだろう。

 日本の退魔士の中では、あまり見かけない術である。そもそも彼らは退魔士というよりも、退魔士が戦う相手である方だ。


 狛が逃げたその足で教室に向かうと、既に教室では生徒達が集まっており、教師が最後の確認を取っている最中であった。


「犬神、遅いぞ。レイディアントはどうしたー?」


「あ、れ、レディちゃんなら、ちょっと具合が悪いって…保健室に」


 咄嗟に嘘を吐いてしまったが、まさか殺されかけたとも言えない状況だ。しかも、レディが死体を呼び出して自分を襲おうとしたなど言えば、狛自身の頭が疑われるだろう。この場は黙って様子を見るしかない。


 狛が不安に感じていたのは、人目を気にせずレディが襲ってくることだったが、幸いなことに彼女が教室へ乗り込んでくるような事はなかった。あれだけの殺意を見せた彼女が簡単に諦めるとは思えなかったが、学校を出てしまえば追っては来れないだろう。

 最後のHRが終わると、狛は周囲を警戒しつつ学園を後にした。


「おう、狛、お疲れ。…何してんだ?」


 住宅街の近くで猫田と合流した時、狛はキョロキョロと辺りを見回してばかりで、完全に不審者そのものであった。事情を知らない猫田からすれば、ずいぶんと滑稽な姿に見えたに違いない。呆れたように声をかけているが、狛は真剣そのものだ。


「いや、なんかよくわかんないんだけど、転校生に殺されそうになっちゃって…」


「はぁ?」


 返ってきた狛の説明は、とても猫田に理解できるものではないようだった。それはそうだろう、当の狛でさえ、レディの行動を理解できてはいないのだから。


 ひとまず猫田と合流できたことで、狛も少し落ち着きを取り戻す事が出来た。二人は連れ立って、ナツ婆に言われた通り神子家の敷地に足を踏み入れていった。


「ようこそ、犬神の娘さん。私の事はあまり覚えていないかな?君のお兄さんにはいつも相談に乗ってもらっているよ」


「は、はい!兄や他の親族からも、お話は伺っています…!私自身は、すみません…ほとんど覚えていなくて」


 緊張する狛の前でソファーに座っているのは、神子家の現当主、神子 桔梗かみす ききょうという女性だ。歳の頃は50代半ばだが、見た目には二十歳そこそこという美魔女であり、相当な女傑でもある。

 狛達兄妹の両親とは幼馴染であったといい、特に幼い内に母を亡くした拍の事を可愛がっているようだ。狛も赤ん坊の頃は世話になったらしいのだが、本人はあまり覚えておらず、物心ついた時には疎遠になっていた。


「ふふ、そうだろうね。私も忙しい身になってしまったから、君とはあまり接する事が出来なかったからね。君達の両親とは長い付き合いだったのだが…そう言えば、お父さんは元気かな?」


「あ、はい。もうずいぶん帰ってきてないですけど、元気みたいです」


 猫田は狛の父親の事は知らなかったので、狛の返事に心底驚いた。彼らの父親もてっきり母親のように亡くなってしまったものと思い込んでいたのだ。どこで何をして暮らしているのか気になる所だが、そこは空気を読んで黙っている。


「君のお父さんは腕前こそよかったのだが、どうにも気が小さかったからね。そこへ行くと拍は実に優秀だ、彼が率いるならば犬神家も安泰だろう。それに狛くん、君も見どころはあるらしいじゃないか、期待しているよ」


「はい!」


 元気よく答えた狛を見る桔梗の瞳は、母親のように優しいものだった。長く人と接してきた猫田から見ても、この兄妹の周囲には優しい人達で溢れていると感じられる。そんな猫田に対し、桔梗は鋭い視線を向けた。娘に近づく悪い虫を見る様な、敵意のこもった視線だ。


(ずいぶん警戒されてんな…無理もねーか)


 猫田は桔梗の狛に対する接し方やここまで話を聞き、彼女と狛達との関係をある程度察する事が出来たので、その失礼な視線に怒る事はない。猫田にしてみれば、ハル爺やナツ婆でさえ子どものようなものだ。あの二人より若い桔梗の無礼など、気にするほどのことでもなかった。


「それで…そちらは?」


「あ、こちら猫田さ…と言って、私の護衛役についててくれてるんです。とても頼りになる人で、今日の仕事にもお役に立てるかと…」


 思わずさん付けで呼びそうになってしまったが、今日の狛はビジネスで神子家を訪れているのだから、それはおかしいと気付いたようだ。途中で言葉を切ったことに桔梗は気にする様子もなく、ただじっと猫田の顔を覗き込むように見つめている。

 対する猫田も、「よろしく」と言っただけで、後は桔梗の視線を受け流すように見つめ返していた。そうして、しばらく無言のやり取りが続いた後、桔梗はふっと息を吐いて、目を閉じた。


「…解った。大した人物のようだ、ここまで私の眼に耐えられる者はそういないよ。ただ、これだけは言っておく。最近は疎遠であったが、私は今でもこの子達を見守っているし、何物にも代えがたい存在であると考えている。…この子達に害をなすような事は絶対に許さない。いいね?」


「ああ、心配しなくても、俺にとってもこの兄妹は大事なんだ。悪いようにはしねぇよ」


 更なる桔梗の眼光を受けても、猫田はニヤリと笑みを返すばかりだった。どうやら彼女は自身の鋭い目力を自覚していたらしい。確かに、あの眼で睨まれれば、大体の人間は蛇に睨まれた蛙のように委縮してしまうだろう。それだけの圧力があった。

 その言葉を信じることにしたのか、桔梗はニコリと猫田に微笑みを返すと、今度は狛に向かって話を始めた。


「では、改めて仕事の話に入ろうか。…狛くんは、バンコシーという人物を知っているかい?」


「バンコシーって、あの謎のアーティストって世界中で話題になってる人ですか?名前くらいは聞いた事があります」


 バンコシーとは、世界の様々な場所で辻落書きを行うアーティストの名前である。メッセージ性の高いイラストを描くのと、その画力の高さで一躍話題となり、その絵が描かれた壁などは、非常に高い値が着いたり、観光地になったりする事で有名な存在であった。


 あまりそういう方面に興味がない狛でも、時折TVなどで紹介されているので、名前や一部のイラストを映像で見た事はある。ただ、それがどのように犬神家に持ち込まれる案件と結びつくのかは解らないようだ。


「実はね、そのバンコシーを真似た落書きが、最近中津洲市内で頻発しているんだ。しかも、それがどうやら、人の手によるものだと言えなくなってきた。それを調べて欲しいんだよ」


 平和なような、そうでもないような話である。狛は今日一日の内に起こった騒動の温度差が激しいことに、胸の内で溜息を吐きたくなった。

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