それはクラスで、喧嘩が起きた時だった。きっかけは些細な事で、男子二人が言い争いになり、そこへクラスの中心であった一人の女子が割って入ったのだが、その日は何かがおかしかった。
クラスの誰もが急に怒りに震えだした途端、集団ヒステリーのように恐慌し、暴れ始めたのだ。その中で一人、メイリーだけが冷静だった。
「な、なにが起きてるの…?」
元々、クラスの輪に入れていなかったメイリーは教室の隅で傍観していたのだが、異様な興奮状態に陥ったクラスメイト達はくるりとメイリーの方を向くと、集団で詰め寄ってきた。まるで、自分を除いたクラス全員が、一個の生き物になってしまったような恐ろしい情景であった。
クラスメイト達は口々にメイリーを罵倒しつつ、彼女を捕まえようと群れを成している。
「なんで、なんでお前は仲間に入っていない?どうして
「ひっ!?い、イヤっ!止めてぇ!こないでっ!」
ゾンビのように感情の抜け落ちた顔で、クラスメイト達は誰も彼もがメイリーを捕まえようと手を伸ばしてくる。この時は授業と授業の隙間の休み時間で、先生もいない。メイリーは恐怖の余り逃げ回っていたが、絶対的に数が違う為に、やがて追い詰められていった。
「お前も、お前もこっちに来い。…お前も仲間に入れてやる。一緒に逝こう、一緒に!」
「き、キャアアアアアアッ!」
「ダメッッッ!!」
メイリ―が恐怖の余り蹲って叫んだその時、教室のドアを開けて、駆け込んできた人物がいた。
「メイリーちゃんいじめちゃ、ダメッ!!」
両手を広げ、庇うようにメイリーとクラスメイトの間に立ち塞がったのは狛だった。そうやって狛が睨みを利かせた途端、クラスメイト達は波が引くように次々と我に返り、皆一様にキョトンとした顔で狛達を見つめていた。
(あの時のコマチ、ヒーローみたいだったなぁ…)
蹲ったまま見上げた狛の背中は、同世代の女の子とは思えないほど大きく、広く見えた。あの時何が起きたのかは今でも解らないが、きっと狛には不思議な力があるんだと、メイリーは確信している。それ以来、クラスメイト達は少しずつメイリーに謝ってきて、友達も増えていったが、メイリーは誰よりも助けてくれた狛を一番の親友と考え、親しくなっていったのである。
実の所、メイリーの想像は間違ってはいない。というのも、当時、メイリーのクラスメイト達は魑魅魍魎の一種に憑りつかれ、操られていたからだ。それは雑霊に毛が生えたような、さしたる力も持たない魍魎で、本来であれば、人間をそこまで操る力など持っていないはずの存在である。
ただ、間の悪い事にクラスメイト達はメイリーを無視したり、はぶいてみたりといういじめを行っていた。まだ幼い子ども達には、それに対する罪の意識があったのだろう、偶然にもクラス全体がそういった負の感情を共有していた為に、心に隙が生じてしまっていた。そこを突かれたのだ。
狛は幼いながらもその気配を敏感に察知し、その中に飛び込んでメイリーを庇った。その際、無意識ではあるがイツを操って魍魎を撃退した事で、メイリーのクラスメイト達が正気を取り戻したのである。
メイリーが感じた不思議な力の正体はそれだ。そして、たぶん狛がそれを自分に隠しているんだということも、最近はうっすらと気付き始めていた。優しい狛の事だ、もしかすると、自分を危険な事に巻き込まないようにしているのかもしれない。
実際、先日は神奈が体調を崩して休んでいたし、それは狛も同様だ。それに玖歌も具合の悪い時期があったと聞いている。
(…別にいいんだ、それでも。話してくれない事があっても、信じていられる。ワタシはコマチも神奈ちゃんもクッカちゃんも、皆ダイスキだから)
先を歩く神奈に追い付き、片方の腕に抱き着く。少し驚いた顔をした神奈は、普段の凛々しい表情とは違って、とても可愛い。神奈に出会ったのは、狛を経由してのことだったが、こんな風に時折見せる普段とのギャップが、メイリーは大好きだ。
そんな風に感じられるようになったのも、あの時、狛が助けてくれたから。自分のルーツや見た目など気にせず、狛が友達になってくれたから今の自分があるのだ。
「お、おい、メイリーどうした?急に。歩き難いよ」
「ふふ、たまにはワタシも構って欲しいなーって、ね」
「何を言ってるんだ?」
頭に疑問符を浮かべたような顔をしている神奈の表情が面白くて、メイリーは笑っていた。そのまま二人は、目的の住所に向かって歩いていくのだった。
それから1時間後、四人はそれぞれのノルマを終えて、再びあの占いの館に戻ってきた。玖歌はともかく、神奈とメイリーは疲れ切っていて顔色が悪い。そして、肝心の狛はというと、気色ばんだ様子で天野に詰め寄っている。
「貴方のお願い、全部こなしてきました!ちゃんと全て話してください!」
「…いや、素晴らしい、よく頑張りましたね。大したものですよ、あなた達は」
パチパチと拍手をしつつ、天野は四人を労っている。しかし、狛が聞きたいのはそんな台詞ではない。焦りからか、殺気立つ狛を宥めるように、天野は静かに立ち上がって言った。
「では、貴女達の成果を見学に行きましょうか」
天野に連れられて四人がやってきたのは、最初にドブさらいをした現場だった。しかし、消防隊や救急車、警察などの車両がいて近づく事が出来ない。さらに、辺りには人だかりが出来ていた。
「あの、何かあったんですか?」
「ん?ああ、少し前から上流にある工場から薬品が排水に流れ込んでたらしいんだが、さっきそこで別の薬品を積んだタンクローリーが事故を起こしてね。もし用水路に流れ込んでいたら、その二つが混ざって有毒ガスが発生してただろうって。ただ、午前中に若い女の子達が掃除をしてくれてたみたいでね。あれがなかったら流れが塞き止められて大惨事になる所だったらしい…怖いけどその子達のおかげで助かったって話さ」
「そんな…」
バカなと言いかけて、狛は言葉を詰まらせた。他の三人も察したらしく、青い顔をしている。それを見届けた天野は、何事も無かったかのように、狛達を連れて再び移動を開始した。
その後も、狛達が撤去したゴミの現場のすぐ傍で火事が起きていたり、駆除したスズメバチの巣の近くに幼稚園があったりという事実が判明したが、どちらも狛達が行った行為によって、事故を未然に防いだり、更なる被害の拡大を防ぐことが出来たようだった。
ここまで都合が良すぎる展開が続くと、狛達は先程感じた違和感の正体が掴めてきた。ただし、ビラ配りだけは何の意味があったのかは解らない。
俯いて押し黙る狛達に、天野は優しく語り掛ける。
「これが答えですよ、犬神狛さん。今日、貴女達の行動で
正直に言えば、納得のいかない気持ちはある。むしろ、その方が大きいくらいだ。それでも、天野の言わんとしている事は理解できた。狛は最悪の事態を避ける為に、やるべきことをやれと言いたいのだろう。だが、結局何をどうすればいいのかなど、解らないことだらけである。
とはいえ、自分の大事な人の命が掛かっていると聞かされた以上、黙って引き下がるわけにもいかない。さらに食い下がろうと狛が顔を上げたが、そこに天野の姿はなかった。
「あ、あれ?いない…天野さんは?!」
結局、どこを探しても天野の姿は見つからず、仕方なく狛達は解散する事になった。手元に残ったのは、一枚だけ余った奇妙な絵の描かれたビラだけである。なんだか狐につままれたような、少し後味の悪い感覚を残して、狛達の休日は幕を閉じた。
「ただいまー…」
酷く疲れた顔で狛が帰宅すると、玄関先でアスラと猫田が伸びていた。狛の帰りを待っていてくれたのだろうか?アスラは嬉しそうに尻尾を振って出迎えてくれたが、猫の姿をした猫田は狛が手に持っているビラが気になるようだった。
「おかえり。ん?なんだそれ」
「よく解んない占い師の人に貰った…のかな?なんかもう今日は疲れちゃった…」
「なんのこっちゃ」
要領を得ない狛の答えに、猫田も少々困惑気味だ。しかし、そのビラに描かれた絵を見て、猫田は何か思う所があるようだった。
(これ、確か|天彦《アマビコ》だよな?似姿が魔除けだか厄除けだかになるっていう。なんでこんなもん持ってんだ?今時の人間にはアマビエの方が知名度高いんじゃなかったか)
猫田は少し考えたが、それ自体は特に悪いものでもないので、深く考えるのは止めた。少なくとも、魔除けになるのは事実である。これは後でハル爺にでも言って、飾らせておくのがいいだろう。手を洗い、自室に向かった狛を追って、猫田は軽い足取りで屋敷の中へ消えていった。