「参ったなぁ。スマホ粉々にしちゃって、お兄ちゃんに怒られちゃうよ。それでなくても、くりぃちゃあで食べた分のお金、出して貰ったばっかりなのに…」
狛は肩を落としながら、帰路についていた。何とかSIMカードは回収したので、番号が変わる心配はなさそうだが、データの類いはパァである。命には代えられないとはいえ、もう少し穏当な手段は無かったのかと、少々自己嫌悪気味になっている。
先日、土敷が奢ると言ってくれたくりぃちゃあでの飲食代だが、狛は自分が食べた食事の量を鑑みて、やはり自分で払う事にした。概ね一皿千円ほどの料理ばかりだったが、最終的に20万円を超える金額になっていたのだから、自分でも嫌になる大食漢ぶりである。
手持ちの小遣いでは到底足りる金額では無かった為、狛は自宅に帰った後、拍に土下座をして金を工面して貰った。いかに狛に甘い兄であっても、さすがに表情が引き攣っていたのには胸が痛くて仕方がない。これで決して安くないスマホを破壊したとなれば、今度こそ雷が落ちるかもしれない。
ただ、狛は知らない事だが、野上氏から報酬として、狛宛に十分な報酬が支払われている。いずれ狛が独り立ちした際に渡そうと、拍が密かに積み立てているのだが、その大半が今回の飲食代で吹き飛んだ事は言うまでもない。
狛は重い足を引きずりながら、帰り道を歩いている。その少し後ろを、隠れながら尾行する人物を連れて。
「ただいまー」
狛にしては元気のない一声だが、よく通るその声を聞いて、ハル爺が顔を出した。拍が飛び出して来ないと言う事は、彼は今日も留守なのだろう。この所、ずいぶんと出かける事が多くなった気がする。ほとんどは仕事だろうが、少しくらいは佐那の見舞いに行って、仲を深めて欲しいものだと狛は思う。
「おかえり。今日は何やら元気がないのう?何ぞまたやらかしたか?」
「ちょっとねー。変な怪異に絡まれてスマホ壊しちゃったんだ。お兄ちゃんになんて言おう…」
「カカカ!そんな事で怒る拍様じゃあるまいて、正直に話せばよい。…しかし、怪異とは穏やかじゃない話じゃの。後で詳しく聞かせてもらうか」
豪快に笑い飛ばすハル爺だが、怪異の部分にだけは鋭い反応を見せた。つるりと光る頭をパシンと叩き、剣呑な視線は、未だ現役の退魔士であることを雄弁に物語っている。
そこへ、少しだけ開いていた玄関からするりと流れるように小さなものが入ってきた、猫田だ。彼はくりぃちゃあでのアルバイトがない時は、基本的に犬神家の屋敷にいるが、時折、散歩に出かける事がある。それは人の姿であったり、今のように普通の(尻尾の数は除いて)猫の姿であったりと様々だが、今日は猫の姿で散歩をしていたらしい。
猫らしい気分屋な行動ではあるが、なんだか少し様子がおかしい。殺気立っているというか、強い警戒心を持っている事が感じられる。
トトト、と軽い足取りで狛の方に歩いてくると、次の瞬間には人の姿になって、狛にそっと耳打ちをした。
「おい、狛…お前、つけられてるぞ。あんな下手くそな尾行、気付かなかったのか?」
「ああ、うん。知ってたけど、放っておいたんだ。同級生だし、飽きたらすぐ帰ると思って。
いつの時点から見ていたのか、猫田は尾行者の動向を探っていたようだった。彼の言う通り、尾行そのものはお粗末としか言えないもので、狛にはすぐ気取られていたのだが、狛もさすがに同級生に手荒な真似をするわけにもいかず、様子見をしていたらしい。
尾行は学校を出てからずっとなので、二時間は歩いてついてきたことになる。中々の根性だと言えよう。
狛はすっと玄関の引き戸を開けて、そこにいる男に声をかけた。
「追手門君!どうしたの?うちに何か用?」
「あ、ああ…い、犬神…?俺、どうして…」
尾行者は追手門だったようだ。が、様子がおかしい。何故自分がここにいるのか、そもそも自分が何をしているのかも解っていない、そんな雰囲気である。
追手門はよろよろと覚束ない足取りで、ゆっくりと玄関に向かって歩いてくる。その姿はまるでゾンビのように見える不気味さだった。そんな彼が近づくにつれて、徐々に彼を操っているものが何なのか、その全貌が浮かび上がってきた。
「うわっ…!なんだアイツ…?!臭ぇな」
狛の隣に立っている猫田が、思わず顔をしかめている。それも無理はないだろう。狛が朝見た時よりも、追手門に憑りついた水子は数を増やし、いくつかは腐り溶けて混じり合い、不定形な怪物へと変化し始めている。その全てが彼の罪によるものか、或いは、街を歩く間に連れてきてしまったのかは、もはや解らない。
「可哀想…どうしてそんなに…」
「同情してる場合かよ。ああなっちまったら、もう強制的に成仏させるしかねぇ。いつかの地縛霊みたいにはいかねーぞ」
猫田が言っているのは、以前病院の前で母親の霊と別れてしまった少女霊の事だ。このうえ ほなみと名乗った霊の時は、自我を取り戻させる事で母の霊と引き合わせ自然に成仏させることが出来たが、今目の前にいる水子達は、いずれも自我すら持たぬまま生まれる事も出来ずに死んだ子ども達である。彼らには自他の境界線すらないからこそ、溶け合って混ざってしまっているのだ。この状態では、力尽くで事に当たるしか手段はない。
「うん、解ってる…!」
狛が覚悟を決めて追手門達を見据えた瞬間、霊達の気配が変わった。こちらを敵と見做し、排除する事を選択したようだ。魂達はじわじわと、どす黒く赤い警戒色に変化し、一塊の異形へとその形を変えていった。
「イツ!一犬剛陣!」
完全に変化しきる前に散らしてしまおうと、狛はイツに霊力を流し込み咆哮を放たせた。彼らのような未熟な魂の一つ一つは、ほぼ大した力を持たない存在だ。霊波を浴びせたり、霊符やイツの咆哮で個に戻してしまえば、霧散して成仏していくだろう。この世に対する執着の対象すらあやふやな魂であるからこそ有効な手段であるはずだった。
「なんだぁ!?」
目論み通り、膨大な霊力の込められた咆哮を受け、追手門を包み込んでいた不定形の魂達は、瞬く間に散らされた。しかし、猫田が驚いたのはその後の事だ。散っていった魂達が、何かに引っ張られるように追手門の元に集まり、再び一つに固まっていく。
しかも、どういう訳か、それらは攻撃を受ける前よりも大きく膨れ上がり、巨大なスライム状の塊になっていくではないか。
これは猫田も、狛もハル爺も予想していなかった事態であった。
「危ないっ!」
スライム型の魂はその身体を伸ばし、狛達を取り込もうと襲い掛かってくる。ハル爺の叫びに反応し、狛は即座に持っていた霊符を数枚地面に投げ、結界による防壁を張ってそれを防いだ。
バチバチと火花の鳴るような音がして、魂は結界に弾かれている。しかし、その間にも魂達はどんどんと大きくなる一方だ。このままでは結界はおろか、屋敷諸共、下手をすれば山までも飲み込まれてしまうだろう。猫田が周囲の空を見上げると、もうすぐ夜空に変わろうとする空一面に、無数の魂が飛び回っているのを目撃した。
「おいおい…その辺の雑霊まで見境なしに集まって来てるぞ?どうなってんだ?」
「むぅ…あの若造、何か別のものが憑りついておるようだが、よく視えん。何か妙なものが繋がっておるのか…?」
ハル爺は目を凝らして霊視を試みているが、うまくいかないようだ。それは狛も同じで、追手門には霊魂が集まる別の要因があるように思えた。
「ちっ!仕方ねぇ!」
結界に圧し掛かる魂の圧を見て、猫田は結界から飛び出して巨大な猫の姿に変わり、魂の塊に飛び掛かった。背中の毛を逆立て、次々に噛み千切りながら結界に圧し掛かってくる魂を蹴散らしていくのだった。