凄まじいスピードで、皿が空になっていく。
それが例えスープやシチューと言った汁物であろうと、ハンバーグやフライなどの定番のおかずであろうと、狛の目の前に置かれた料理は瞬く間に消えていった。
「ん~~~~~~っ!どれも美味しいっ!」
提供された料理は、既に数十人前を超えていて、それがたった一人の胃袋に収められているとは誰も思わないだろう。ましてや、それを初めて目の当たりにした土敷は冷や汗を垂らしながら立ち尽くし、茫然自失としていた。
「あ、ああ…それは、よかったよ…」
「くっくっく…!」
土敷の後ろでは、猫田がその光景を見ながら笑いを噛み殺している。それに気付いた土敷は、恨み骨髄と言った顔で猫田を睨みつけていた。
「こんなに美味しいご馳走をサービスしてもらえるなんて…私、幸せだなぁ~!」
狛の悪意のない呟きも、今の土敷には究極の煽りに聞こえるほどだが、当然、狛にそんなつもりは全く無い。むしろ、非があるとすれば土敷の方である。
狛に他の料理を薦めたはいいが、猫田を追う事ばかり考えていた狛はあまり持ち合わせが無かった。(それでも最初の数品は一気に頼んだのだが、そこでお小遣いが尽きた)それを素直に伝えた所、「ああ、気にしなくていいよ。今日はサービスにしておくから、安心してどんどんお食べ」と土敷が口を滑らせたのである。
「言っとくが、俺はちゃんと止めたからな?」
「ぐっ…解ってる。百も承知さ…でも、睨むくらいは許して欲しいね…!」
もちろん、狛の異次元の食欲を知っている猫田は、その提案を一度は止めた。だが、それを一笑に付してまともに取り合わなかったのも土敷だったのだ。もっとも、どこの世界にともすれば大型の鬼とタメを張れるであろうほどに食べる人間の少女がいると思うのか。
特に土敷は、人間との暮らしが長い事で、人の常識に慣れ過ぎていたのだろう。こんな事は全くの想定外であった。
「猫田、君はこうなると知ってたのかい?」
「ああ、当たり前だろ。狛とはもう一月近く一緒に暮してるんだ。何をどれだけ食うかなんて、よ~~~く解ってるさ」
土敷の悔しそうな顔を前に、猫田は実に楽しそうにほくそ笑んでいる。先程の会話からして、普段の力関係は土敷の方が上なのだろう。彼は猫田よりもだいぶ弁が立ちそうだし、よほど意趣返しがしたかったに違いない。
そんな二人の前へ、フラフラとよろめきながら、一人の美しい女性が近寄ってきた。昼間、猫田と共に店へ入って行った女性の一人だ。少しウェーブのかかった艶のある黒髪が左目を隠し、露わになっている右目の下に見える二連の泣きボクロが、どことなく哀愁を誘いながらも、色気を醸し出している。
土敷の言葉通りならば、彼女もまた妖怪なので、文字通り妖艶な女性と表現しても差し支えないだろう。
「店長ぅ~、もうムリぃ~。食材も尽きちゃったし、私ももう限界ぃ~…」
「ああ、ハマさん、ご苦労様。…今日はもうお客様も皆帰ってしまったし、早いけど店仕舞いにしようか」
狛が食事を始めてから、二時間程が経ち、時刻はもうすぐ午後三時を回ろうかという時間だ。喫茶店ならばこれからが稼ぎ時な気もするが、料理を提供できなくなっては営業するのは困難だろう。まばらだった客の数は減り、客席はすっかり空になっていて、狛だけが残って食事をしている有り様である。
「ぇ!?あ、ご、ごめんなさい!私、お腹空いちゃってて…!」
「いや、気にしなくていいよ。珍しいものを見れたと思えば大したことじゃない。むしろ、そこまで気に入ってくれたなら光栄なくらいさ。ね?ハマさん」
「そうねぇ~。うちはお料理よりも他のサービスが目当てで来るお客さんばっかりだからぁ~、調理担当としては久々に思いっきり腕を振るえて楽しかったよぉ~」
間延びして、おっとりとした話し方をするのは、ハマさんと呼ばれている女性だ。狛から見ても、これほどの美人ならば接客に回った方が人気が出そうに思える。それなのに、彼女が裏で調理を担当しているというのは少々意外であった。
「えっと、ハマさんって、さっき猫田さんと一緒にいたお姉さんだよね?改めて見るとすっごい美人…」
「ええ~、そんなことないよぉ~。でも、ありがとねぇ~」
「ハマは
「へぇ~、はまぐ…り…っ!?」
猫田の言葉を反復してみて、何かに思い当たったのか、さっと狛の顔色が変わった。両手で口を抑えつつ、青くなったり赤くなったりと忙しい。
「あはは~!この子、私の逸話知ってる子だぁ~。安心していいよぉ、身体から出たものなんて使ってないからぁ~」
蛤女房…その昔、漁師の男が海で漁をしていると、それはそれは大きな蛤が獲れた。あまりにも大きく見事な蛤だったので、獲って殺してしまうのは忍びないと、漁師の男はその蛤を海に返してやった。すると、しばらしくして、男の許に美しい娘が訪れる。
娘は男の嫁にして欲しいといい、手料理を振る舞った。それはとても美味しい料理ばかりで、特に味噌汁は絶品だったという。すっかり胃袋を掴まれた男は娘を嫁にするのだが、その時、妻となった娘は男に、くれぐれも料理をしている姿を見ないで欲しいと言い含めた。
しばらくはそれに従っていた男だったが、あまりの美味しさから味の秘密を知りたいと思う心に我慢ができず、こっそり調理する姿を覗いてしまった。そこで目にしたのは、味噌汁の鍋に跨り、自分のおしっこをかけて調味する妻の姿であった。
なんてものを食べさせていたのかと、男は烈火の如く怒り、妻を家から追い出した。浜辺で泣き伏せる妻は、やがて大きな蛤の姿に戻り、海へ返って行った。
という逸話を持つ妖怪である。話によってはおしっこではなく、自分の身体で出汁をとっていたというパターンもあるようだが、それでも、その筋の人でなければ、それを受け入れるのは難しいだろう。狛は一瞬その姿を想像してしまい、パニックになったのだった。
「そんなものを使わなくても、ハマの料理は一流なのさ。なんせ俺より年上で、ずっと料理ばっかりしてきたヤツだからな」
「やめてよぉ~!私の先祖はそうかもしれないけど、私はまだ300歳くらいなんだからぁ~!」
蛤女房の元となった逸話は、古くは室町時代のお伽話に登場する逸話である。それが江戸時代になって
ハマさんはプリプリと怒っているが、彼女の言う通り、300年も料理を続けてきたのなら、確かにこれだけの味が出せるのも頷ける。そう考えて、狛はハマさんと猫田の言を信じておくことにした。
そう言えば、別のサービスを希望する客が多いというのはどういう事だろう?そう思って狛が口を開きかけた時、それは突然現れた。
カランカランという出入口に設置された鈴が鳴り、客の訪れを告げた。
「いらっしゃいませ。ああ、すみません、今日は…」
いつの間にか入口に移動していた土敷が、客を前にして言葉を止めた。客の男は表情に影を落とし、少し俯いて言葉を発さずにいる。ピリついた空気が店内に走り、土敷だけでなく、猫田や表に出ていない店員達、さらにはあの優しい雰囲気をしたハマさんまでもが、その客に強い視線を投げてその動向を注視しているようだ。
狛もまた、その客のただならぬ雰囲気を感じ取っていた。明らかに、あれは普通の状態ではない。というよりも…
「猫田さん、あの人…」
その狛の言葉を、土敷が手を挙げて制する。こちらへ視線を投げ掛けて、任せておけと言わんばかりの笑みをみせていた。
「お客様、ご希望は
その質問は、奇妙にもほどがあるものだ。何名様ですかと聞くならまだしも、希望しているものが何なのかを問うている。どちら?というだけでは何を選択させているのかもわからない。しかし、客の男は少し黙ったあと、囁くように声を絞り出していた。
「ぁ…た、たすけ、ぇ…」
「…承知いたしました」
土敷がそれに応えた途端、店内は一気に異界へと姿を変える。それは、狛が今までに何度も見た異界とは違って、地平線の先まで暗い闇夜が続く空間であった。
同時に客の男は雄叫びを上げ、両手で土敷に掴み掛る。しかし、土敷は難なくそれをひらりと躱し、男の背後に回って、左手でその背を掴んだ。
「賜れ、
にわかに土敷の左手が輝き、男の背からズルリとどす黒く嫌な気配のする何かを引き出した。あれは、
「ふむ、低級霊か。…しかし、何人か人間を殺しているな。魂の色が悪い、放置すればまた悪さをするだろう。バケ、頼むよ」
土敷がそう言うと、どこからか明るく光る何かが飛び出して、その黒い魂のようなものを飲み込んでしまった。その内に、異界化は解けて元の静かな店内へと戻っている。
「今のって…?」
「ありゃあ化け提灯だ。本当は悪人の生霊を吸い込んで力に変える妖怪なんだが、アイツはああやって、淀んだ魂を吸っては邪気が消えるまでしゃぶってるのさ。そもそも俺達は妖怪だ、人の魂を成仏させるなんて事は出来ねぇ。消滅させちまうのは楽だが、それじゃ生まれ変わりも出来ねぇだろ?救いようのないヤツならともかく、低級霊くらいなら、ああして時間でどうにかさせるんだよ」
猫田の説明に、狛は何度目か解らないほど驚き、舌を巻いた。それは退魔士でさえ難しい芸当である。成仏させる事ならまだしも、無害化するまで待ってやるというのは、人間には出来ないものだ。
「これが、うちの店
ニッコリと笑った土敷の顔は、少年らしい屈託のない笑顔である。ただ、その額に一筋の汗が流れている事に猫田だけが気付いているようだった。