『濁悪の棺騒動』から2週間ほど経った、ある日の朝。
幸いにも、歴や、亜霊の家族は霊気や生気を吸われただけで命は別状はないようだった。歴は恐い思いをしてしまったので心配していたが、今の所、大きな心の傷は無さそうである。ただやはり怖い事は怖かったのか、あれからやたらと、狛達が空き時間に行っている鍛錬や、修行に興味を示すようになった。
はっきりとは口に出さないが、今後同じような事があった時に、少しでも抵抗できるようになりたいと考えているようだ。
定期的にある本家への襲撃のように、犬神家の人間は、妖怪変化に恨まれている事が多い。個人への危害を防ぐ為に特製のお守りや簡易結界などは用意されているが、強くなるのは悪い事ではないだろう。そう言う意味では多少の収穫があったとも言える。
なにより今後、狛や拍にもしもの事があれば、狗神を引き継ぐのは歴かもしれない。僅かでも才能とやる気があるならば、早い内から伸ばしておく事も重要である。
「おはよう、狛。親戚の子、無事だったんだってね、良かったよ」
「あ、神奈ちゃん、おはよう。…うん、巻き込んじゃってごめんね。本当に助かったよ、ありがとう」
狛が早めに到着した教室の席に着いて窓の外を眺めていると、朝練を終えた神奈がやってきて、会話を交わした。歴を助けようと亜霊の足止めをしようとした神奈は、彼の放つ妖気にあてられて、この間、ずっと学校を休んでいた。先日ようやく回復したので、今日から登校してきている。
当初は、歴を助けようとしたのに結局は役に立てなかったと悔やんでいたが、彼女から連絡を貰ったお陰で迅速に行動することができたのだから、狛としては何も不満はない。むしろ、いくら礼を言っても足りないと感じるほどだ。
そして、休んでいるのはもう一人…狛はその人物の席を見つめ、溜息を吐いた。
「亜霊も休んでいるか。相当酷い状態みたいだったって聞いてるよ」
「うん、知ってる。助かったのが奇跡だって、お兄ちゃんも言ってたし」
あの後、破壊された室内から発見された亜霊 大斗は、重傷を負っていた。他の家族とは違い、彼は採精の為に体の大半を取り込まれていたせいで、棺が破壊された際に、彼の身体もかなりの部分が失われてしまっていた。
両手は軽傷で済んだが、両足…特に下半身は損傷が酷く、生きていたのが信じられないという有り様だ。現在は入院しているが、精神的にも損耗が見られており、廃人同然になってしまっている。辛うじて受け答えは出来るものの、元の生活に戻るのは難しいだろう。必然的に学校も退学する事になりそうだった。
なお、狛は聞かされていないが、心霊催眠によって事情を聴き出した拍は、亜霊の内面を知った事でずいぶんと彼に憤っていた。
狛の様な明るい皆の人気者は、特に憎悪の対象であったらしい。あの日、亜霊は放課後に生贄となる犠牲者を求めて街を彷徨っていた所、歴を偶然街で見かけ、狛に似ていると思ったことから、彼女を犠牲にすることを選んだようだ。相手が子どもなら、誘拐するのも簡単だと思ったとも語っている。
彼の持つ心の闇は、憎悪で人を殺す濁悪の棺と、とても相性が良かったのだろう。利用されただけとはいえ、彼の悪性は放っておけば他の悪霊にでも憑りつかれていた可能性が高い。かなりのハンデを背負ってしまったが、これから先の人生を真っ当にやり直す事が出来るきっかけになればいいと拍は考えている。
ちなみに亜霊の家族は、彼が歴を誘拐してきた事を知って、どうにかしようと説得を試みたようだが、逆に捕まって養分にさせられていたのだ。
結局、犬神家と亜霊家の間には神子家が仲裁に入り、それらは不問という形になったようだ。まぁ、亜霊家にしてみれば、息子が悪霊に唆されて女児を誘拐したとか、多くの人を巻き込んで殺害しようとしたなど理解出来ない話だろう。表向きには亜霊が自室でガス爆発を起こして重傷を負ったという事になった。
なお、破壊された棺は拍が回収し、一通り調べた上でお焚き上げをした。もう二度と、あの棺が現れる事も、作られる事もない。
こうして、濁悪の棺にまつわる騒動は一応の終わりをみた。未だ、何故封印が解けてしまったのかなど疑問は残っているが、それはこれからの調査次第になる。
なんとなくではあるが、狛も亜霊の内面が危険な物だった事は理解している。拍が必死に隠そうとした様子から、彼に自分が嫌われて、憎まれていたのだろうということもだ。それについて、猫田が拍に対して少し過保護じゃないのかと喧嘩になったことも、二人は隠していたが狛は気付いている。
(まだまだ子どもなんだなぁ、私…)
もっと自分に力があれば、良い解決が出来たのではないか?そんな風に、狛の心に少しだけしこりを残した事件であった。
それから、更に数日経ったある日の事。
その日は、学園が創立記念日で休みであった。平日なのでいつもなら朝食を終えた狛は急いで登校するのだが、今日はそんな必要もない。リビングで何をしようか迷っていると、猫田がこちらをじっと見ているのに気付いた。
「猫田さん、どうかしたの?」
「あれ、お前、今日は学び舎じゃないのか?」
「うん、今日は創立記念日って言って、学校がお休みの日だからね。なんで?」
「いや…そうか。ならまぁ、いいか。ちょっと出かけてくる。夜までには戻るぜ」
「え?…い、いってらっしゃい」
猫田はそう言って、人の姿で何やら気まずそうに出て行った。まさかそう来るとは思っていなかったので狛も面食らってしまう。
「猫田さん、一人で出かけたりするんだ」
狛がそう思うのも無理はない。出会ってからというもの、猫田は狛の保護者を名乗るだけあって、狛の傍から離れようとしないのだ。
あくまで学校を除いては、だが。
とはいえ、常にベッタリ引っ付いているわけではなく、違う部屋にいる事もある。ただ、狛が街に出かける時には必ずついてくるし、鍛錬や仕事があれば一緒に行動する。最近は面倒臭くなったのか、家にいる時は猫の姿でいる事も多いので、狛も余り気にしなくなっていた。
「そう言えば、平日の猫田さんって何してるんだろ?」
狛が学校にいる間、猫田は完全にフリーである。割合、ハル爺やナツ婆と酒盛り(あれ以来酒を飲んでいないのだが)をしているのは知っているが、それも年中ひっきりなしにというわけでもないはずだ。実際、今日はハル爺とナツ婆が揃って仕事に出かけている。
よくよく考えてみれば、以前、狛が倒れて寝込んでいた時も、時折とはいえ猫田が昼間にいない事があった。
「…なんだろ、ちょっと気になってきた」
先日の一件でも、拍が狛に気を使って、隠し事をしているのは知っている。それについて猫田が怒った事も気付いているが、結局、猫田も黙ったままだ。狛は自分が頼りないせいだと思っていたが、同時に少し不満でもあった。
そんな中で、猫田の謎の行動である。これ以上隠し事をされるのは、やはり面白くない。
それでなくとも未だモヤモヤした気分が晴れない狛は、少し悪戯心が出たのか、猫田を尾行してみる事にした。
「ちょっとだけなら、いいよね」
誰に言い訳するでもなく、自分に言い聞かせている。
人の秘密を暴こうなんて考えるのは初めてで、悪い事をしていると思うと、なんだかドキドキしてくるようだ。狛は念入りに準備をして、猫田を追って自宅を飛び出していった。