最悪の展開だった。狛が今考えている事は想像でしかないが、不思議と間違っていないという確信がある。勘違いであって欲しい、心からそう思っているのに、嫌な予感は消えてくれない。
狛はスマホを持ったまま走り出し、台所にいる里の元へ向かった。
「里さん!
台所で夕飯の下ごしらえをしている里を捕まえて、かわいい又従姉妹の名を叫ぶ。狛の親戚に子ども達はたくさんいるが、神奈がそれと知り、解っているのは歴だけだ。神奈の間違いでなければ、連れ去られたのは歴だと言う事になる。
「え、な…なに!?歴なら、旦那が仕事帰りに迎えに行ってるはずだけど…あれ?そう言えばずいぶん遅いね、ちょっと旦那に連絡入れてみる」
狛の余りの剣幕に驚きながらも、時計を見て気になったのか、里は自分のスマホを手に通話をかけ始めた。答えを待っているだけの時間が、尋常でない長さに感じる。狛は祈るように両手を合わせて組んでいる。狛の様子から、ただならない状況を察した拍達が台所に集まってきたのと、里が夫からの通話を終えたのはほとんど同時だった。
「狛、どうしよう…歴が、歴がどこにもいないって!旦那も探してるけど、見つからないって…!」
「ああ…!」
やはり予感は現実のものであった。狛が崩れ落ちそうになる足に力を入れて踏ん張っていると、すぐさま拍が動き、その肩を抱いて支える。
「落ち着け、歴の居場所ならすぐに解る」
拍はそう言って目をつぶり、左手で額を抑えて意識を集中させた。この手の遠隔霊視は彼の得意技だ。普段はプライバシーがあるので絶対にやらないが、拍は犬神家の当主として、一族の安否が確認できるよう、個人の霊波を全て記憶している。これだけはハル爺にも真似ができない芸当であった。
「視えた。…だが、なんだこれは。異常な程の影に覆われて、歴の姿がはっきりと見えない、一体何が…」
拍がそう呟くと、狛はすぐに台所を飛び出し、自室に向かって
「狛!どこへ行く?!」
拍が追いかけてくるが、事情を説明している時間はなかった。現時点では亜霊と棺の関係を証明するものは何もないのだ。狛は「歴ちゃんは私が連れて帰るから!」と叫んで屋敷を飛び出していった。
「狛!待て!」
「アイツには俺がついてやる!お前はハル爺達に事情を聞け、もしかすると問題が裏で繋がってるかもしれねぇ…!」
後を追おうとする拍を制し、猫田はそう言い残して走っていく。拍はその背中に「歴の姿を追えたのは三丁目までだ!その辺りを探せ!」と、叫んでいた。
すぐに狛に追いついた猫田は、狛の隣を並走しながら巨大な猫の姿に変化した。とはいえ、それを猫と形容するにはあまりにも大きすぎる。身体の模様も相まって、まるで虎のようだが、そのサイズは本物の虎よりも大きい、軽く見積もっても虎の3倍以上はありそうだ。初めて見る猫田の変容に、狛は驚いて思わず足を止めた。
「ね、猫田さん…?!それって」
「お前が走るより、俺の方が早い!乗れ!歴は三丁目の辺りにいる!」
思ってもみなかった猫田の申し出に、狛はほんの一瞬躊躇ったが問答をしている時間がないのは事実だ。覚悟を決めて狛がその背に飛び乗ると、猫田は全身の筋肉を躍動させて、漆黒の夜空に飛び出した。それは昇り始めた月の光を受けて、金色に輝く鋭い矢のようであった。
「凄いスピード、もう街に入りそう…!」
狛がそう驚くのも無理はない。山間にある犬神家の屋敷から市街地までは、徒歩ではどんなに早くても1時間半はかかるはずだが、猫田はわずか数分で街まで降りてきているのだ。いくら直線で進んでいるとはいえ尋常ではない速さである。
猫田は時に地面を蹴り、家々の屋根を蹴り、果てには何もない空中までも蹴って進んでいる。何本も足があるように見えるほどの、とんでもない走り方だ。あまり頭を上げ過ぎると向かい風が凄いのだが、上手く猫田の頭に姿勢を合わせれば気になる事も少ない。
通常の猫形態と同じ毛皮の下には、大きくなった分、ゴツゴツとしてしっかりした筋肉が感じられる。ベッドの上で香箱座りをしていた時からは想像もつかない変化だった。こんな時でなければ楽しいと思えるだろうが、今はそんな事を言っている場合ではない。
街中に入ると、猫田は少しスピードを落とし、三丁目方向に向かった。人目が気になる所だったが、どうやらうまく姿を隠しているらしい。仕事を終え、帰宅する人々の遥か頭上を通過しながら、狛は歴の身を案じていた。
「もうすぐ三丁目…歴ちゃん、どこにいるの?」
「探すまでもねぇ…見ろ、ここまで来てみりゃよく解るぜ!」
猫田が向けた視線の方向には、異様な何かがいる。住宅街の中に一軒だけ、巨大な何かが立ち昇る家があった。
「な、なんなの?!あれ…」
それが視界に入った途端、狛の全身の肌が粟立った。本能が、見てはいけないものを拒絶するような、形容し難いモノだ。それは近づくにつれて、靄のような不定形なものから、ドロドロとした形と重みを感じる異形に変わっていった。腐った肉のような悪臭が辺りに立ち込め、強い不快感を煽っていく。
そのまま近づいていくと、やがてその異形は巨大な人の上半身のような形を取っているのが解ってきた。腕や胴体のような部分のあちこちに大きく歪な目玉が生えて、その一つ一つがギョロギョロと動き、猫田と狛を睨みつけている。ただ、頭部にあたる場所だけは、ほとんど人の形をしていない。鯨の頭のように巨大な口だけがある、そんな形だ。
「へっ!どうやら俺達が邪魔で仕方ないらしいな…!敵意を隠すつもりもねーや」
猫田がそう言うが早いか、異形の怪物は空中の猫田を薙ぎ払おうと、その腕を滅多矢鱈に大きく振るってきた。その巨体のせいか、動きは非常に緩慢で、自在に空を飛び跳ねる猫田は軽々とそれを躱している。
だが、そんな動きに背中の狛はついていけない。夢中で猫田の首に捕まりながら、身を屈めていた。
「ね、猫田さんちょっと待って!」
「あ?」
猫田は少し離れた家の屋根に降り立つと、狛をその場に降ろす。さすがに上下すら気にせず、縦横無尽に動き回るのは慣れない狛にはきついらしい。
異形の怪物はいくつかの眼でその動きを捉えたままだが、身体や腕を伸ばしたり、移動したりは出来ないようだ。発生元の家からは決して離れようとはしなかった。
「アイツ、あの家の上から動かねーな?あれが棲み処か。…よし、あのデカブツの相手は俺がしてやる。お前は行って歴を連れ戻してこい」
「ご、ごめん。ありがとう…!
呼吸を整えた狛が声を上げると、懐に抱えていた着物がひとりでに大きく開き狛の身体を包み込む。それに合わせてイツが狛の影から飛び出し、狛の背中に勢いよく入っていった。野上邸で見せた、九十九を使った狗神走狗の術だ。
夜空に浮かぶ月のように、青白く眩い銀色に輝いて迸る狛の霊力は、九十九のおかげで完璧にコントロール出来ている。
その背中に描かれた見返り美人はにっこりと微笑んでいるようだ。
「よし…俺も久々に全力で暴れてやるか!」
その隣で、猫田は全身の筋肉という筋肉に力を込め、大きく唸るように吠えた。
6本の尾の先には紫炎が燃え盛り、身体の周囲にはいくつもの、人魂のような火の玉が浮かんでいる。これが猫又として全力を出した、猫田の真の姿なのだろう。
そして金と銀の二人は、それぞれが爆発したかのような勢いで飛び出していった。