あくる日の朝、亜霊は箱から聞き出した次の獲物について、考えを巡らせていた。
(ううむ…次の餌は人間か、まさか人を要求されるとは。まぁしかし、人の肉体を蘇らせようというのだから、当然と言えば当然か?)
教室に入って自分の席に着き、黙考に集中する。彼は幼少期から、生き物を殺す事が好きだった。小さい頃は主に虫が対象で、小学校の高学年や中学校に入ると、野良猫や野良犬を見つけては、面白半分で手にかけてきたものだ。
ここ数年の早い時代の流れと共にそういった野良の生き物は減っていき、またその頃には飽きもあったのか、人間を痛めつけて殺す妄想ばかりに耽っていたが、彼にしてみれば人間は最上の獲物である。今まで実行に移せなかった夢を叶えるチャンスでもあった。
(人を殺せるのというのなら、それに越した事はないが…問題は方陣の中に対象を誘い込まなければならないと言う事だ。正直、人を僕の自室に誘うのは難しい…)
彼は人付き合いというものを嫌悪し、避けて生きてきた事から、自宅に友人を呼んだ経験など無い。そもそも友人などというものもいない。他人は全て唾棄すべき愚者であり、馴れ合いなど反吐が出ると考えているからである。
(連れ去ってくるにしても、僕はそこまで力があるわけでないしな。そんな事が出来るなら、箱に出会う前からやっている。失敗するか、良くて一人や二人で捕まるのがオチだ。それではつまらない…)
亜霊には人を殺す事に抵抗があるわけではない、彼は生来の悪性の持ち主だ。それでいて、一時の感情の為に全てを投げ打とうとは思わない慎重さと臆病さを持っている。もし、そんなブレーキがなかったら、彼は間違いなく少年シリアルキラーとして短い人生を終えただろう。代償に、何人もの命を奪って。
彼は今、そのブレーキを破壊しようとしている。自らを『棺』と呼ぶあの箱に出会って、彼は大きく自分の人生の歯車を動かそうとしていた、考え得る最悪の方向に。
そして、恐ろしいスピードで歪んでいく彼の姿を、険しい目で見ている者がいた。狛と神奈である。
「なぁ、狛…アイツ、ヤバイぞ?影が凄く濃くなって、近くにいるだけで、気分が悪くなってくる…」
「私も感じてるよ。凄く嫌なニオイ…でも、あれだけ影響を受けてるのに、どうして本体が見えないんだろう?身体や精神に憑りついてるんじゃないのかな。でも、あの影の濃さは…」
狛が何度霊視をしても、亜霊に憑りついているはずの何かの姿は捉えられなかった。それもそのはず、あくまで本体は、亜霊が自室に置いている箱である。それを看破するのは余りにも難しい。とはいえ、間違いなく彼には何かがあるのだ。狛はしばらく考えて、兄やハル爺を頼ることにした。
そして、その日の夕方。
「ただいまー!……反応がないってことはお兄ちゃんいないのかな?」
玄関で少し待ってみたが、拍が飛び出してくる様子はない。普段通りなら、真っ先に飛び出してきて、サバ折りならぬ抱擁を仕掛けてくるのが通例だ。それがない場合は、拍が仕事で家を空けているパターンが多い。仕方がないので、手を洗っていると、廊下の奥からひょっこりと女性が顔を出した。
「狛、おかえり。拍様なら、今日は裏のお仕事で留守にしているよ。ずいぶん忙しいみたいだね」
「里さん!ただいま。そっか、ここんとこずっとだねぇ…参ったなぁ、相談したい事があったんだけど」
里というのは、犬神家の分家の女性だ。外から婿を貰い、普段は自宅で過ごしているが、今日は本家の当番らしい。彼女は亡き母や槐の従姉妹だが、霊的な才能が乏しかった為に、普段は表稼業であるペットのトリマーとして働いている。お婿さんは無口だが料理人で、夫婦揃って非常に料理が上手なので、狛はよく懐いている間柄であった。
そして狛の言う通り、ここ数日、拍は忙しそうに家を空けている事が多かった。一応、家には帰ってきているようだが、狛は朝が早い分寝るのも早いので、あまり顔を合わせていない。
「裏の仕事絡みなら、私じゃ相談に乗れないしねぇ…ああ、縁側でハル爺とナツ婆が猫田さんと飲んでるよ。あっちに聞いてみたら?」
「うん、そうする、ありがと!里さんのご飯楽しみにしてるね!」
「今日はうちの旦那も来てるから豪勢にいくよー!」
「やったーー!」
大喜びの歓声を上げながら、狛が縁側に移動していけば、そこではハル爺とナツ婆、そして猫田が三人で集まり漬物を肴に酒を飲んでいた。ただし、猫田が飲んでいるのは酒ではないようだ。先日、二日酔いをした事を気にしているのかもしれない。
「皆ただいま!猫田さん、今日はお酒じゃないんだね?何か、甘い匂いがする」
「おう、狛おかえり。猫田殿は別じゃ、この間の失敗がよほど効いたらしい」
カラカラと笑いながら、ハル爺が答える。どうもこの二人は猫田とつるんでいる事が多い気がする。理由は解らないが、話やウマが合うのかもしれない。
「俺はココアだ、里が菓子を作ってくれたからな。人間は本当に食い物作らせたら一番だよなぁ」
猫田もニコニコと笑顔を見せながら、クッキーをつまみにココアを飲んでいた。さすがに甘味好きだけの事はある。狛ほどではないが、猫田も甘味に関してはかなりの大食漢だ。皿の大きさから察するに、かなりの量のクッキーがあったのだろうが、残りはわずかである。
「そうなんだ。ねぇ、ハル爺、ちょっと聞きたい事があるんだけど、いい?」
「うん?なんじゃ、珍しい」
「お兄ちゃんに聞こうと思ったんだけど、最近顔を合わせないから…実はね、クラスメイトに何か良くないものが憑りついているみたいなの。でも、いくら視ても影しか見えなくて…絶対、普通じゃない事は解るんだ。物凄く嫌なニオイがするし、神奈ちゃんも体調を崩しそうになるくらい影響を受けちゃってる。どうしたらいいのかな?」
「ふむ…」
狛の話を聞き、ハル爺は茄子の漬物を一枚口に放り込んでもぐもぐと咀嚼しながら考え込み始めた。こう見えて、ハル爺は一族でも屈指の霊視能力を持っている。実戦となると霊斧を振り回して飛び回る印象の方が強いのだが、彼は老獪な戦術家でもあるわけだ。ちなみに、ナツ婆は典型的な猪武者である。ハル爺の眼が鍛えられたのは、そうした妻の弱点を補う為だったのかもしれない。
すると、隣で話を聞いていた猫田が、興味深そうに話に割り込んできた。スンスンと鼻を鳴らし、狛の匂いを嗅いでいる。
「ほぉ、道理でお前から陰の気を感じるわけだ。今時珍しいぜ、そんな濃い影の奴…昔はよくいたけどなぁ。秀吉の頃とか」
「ひでよし?…って、豊臣秀吉の事?」
「他にいんのか?」
「いや、知らないけど…」
まさかの歴史上の人物の名前が、これまたまさかの人物から飛び出した為に、狛は目を白黒させている。当の猫田は「あの頃は若かったな~」などと、あっけらかんと言い放っているが、まさかその頃から生きていたというのだろうか?よくよく考えてみれば狛は猫田の事をほとんど知らない。高祖父の宗吾と一緒にいた時代の事すら、まだ全て聞いてはいないのだ。
もしかすると、ハル爺達と仲が良いのは年寄り繋がりなのかもしれない。改めて猫田のプライベートが気になる狛であった。
「そのクラスメイトとやらを直に視てみんとはっきりせんが、もしかすると、憑りついておるのは別に本体がいるのかもしれんな」
「本体?」
「ああ、狛もこの間、野上氏の所で見たじゃろう。あれの本体は確か、暴走した蔵ぼっこじゃったな。ああいう手合いのように、枝葉を人間の中に潜ませ、本体は別にいるというパターンもよくあるんじゃ。まぁ、そこまで影が強く残っているなら、本体はよほど近くにおるんじゃろうがな」
ハル爺は自分の頭を撫でつつ、お猪口に残っていた酒を一気に呷った。聞いた話だけでは、それ以上は解らないと言いたげである。
それを聞いた狛がどうしたものかと考えていると、それまで黙って話を聞いていたナツ婆が、不機嫌そうな声をあげた。
「どっち道、そいつやその親から頼まれたわけでもねぇんだろ?なら、仕事の押し売りはするべきじゃねぇ」
「ん、まぁ、そうなんだけど…」
ナツ婆の言う通り、裏稼業に関しては、必ず依頼を受けてから対応するのが犬神家のポリシーである。こちらから首を突っ込んでいけばキリがないし、何より霊的なものを信じない人間にとっては、迷惑以外の何物でもないからだ。余程の緊急事態ならば別だが、何かの影が視えたからというだけで、本人の了承もなく話を進めるわけにはいかない。
ぐぅの音も出なくなってしまった狛が黙った所で、玄関の方から声がして、やや足早にこちらへ向かってくる足音が聞こえてきた。
「お兄ちゃん、帰ってきたのかな?」
狛がそう言うと、猫田はさっと座る位置を変え、狛から距離を取った。先日蹴り飛ばされた事がトラウマになっているらしい。今の猫田は人間体なので、さすがにあの時のような事にはならないはずだが。
警戒する猫田を余所に、皆で足音のする方を見ていると、廊下の角から少し疲れた顔をした拍が現れた。その表情は暗く、何かを思い詰めているようだ。
「お兄ちゃん、おかえり。どうかしたの?」
「ああ、皆ここにいたか…ちょっと厄介なことになってな。これからまた出かける事になる」
拍がこれほど疲弊している姿は、ここ数年の間でも記憶にない。それほどの厄介な事というのは何なのか、気になる所であった。
「拍様、一体何があったので?」
ハル爺がそう聞くと、拍は少し考えて躊躇いがちに口を開く。あまり話したくないことなのは解ったが、それほどまでに隠したがる事とはなんなのだろう?
「そうだな…後でハル爺には話しておこうと思っていた所だ。ちょうどいい、今話そう。数日前、封印されていたはずのあの
「棺…?」
「…そうだ、かつてこの地に封印された血塗られた呪物。放っておけば手当たり次第に周囲の命を際限なく喰らう、
拍の言葉に、その場の全員が息を呑む。恐るべき事態は、すぐそこまで迫っていた。