(なんだ?なんなんだこれは!?ぼ、僕は凄いものを手に入れてしまったのかもしれない…っ!)
言い知れぬ高揚感が、亜霊の心を占めていた。先程まで考えていた、狛や他のクラスメイトを傷つける妄想など今は頭から抜け落ちている。ただひたすらに、雑木林で拾ったその箱の事しか考えられなかった。
「はぁ、はぁ!」
「大斗、おかえり、どうしたの?そんなに急いで…」
「う、うるさいっ!」
息を切らして自宅に着くや否や、彼は傍らに抱いた奇妙な箱を大事そうに抱え、自室に飛び込んだ。母親の心配する声にも反発し、激しく扉を蹴って威嚇している。
その夜、遅くまで彼の部屋から、ぼそぼそと誰かと話す声が聞こえていたという。
それから数日の間、彼は人が変わったように明るくなっていった。いや、笑顔こそ絶やさなくなったが、正確に言えば内面は変わっていない、むしろ悪化してさえいるかもしれない。ただそれを表に出す事が減っていた。
他人に対してあからさまに憎しみを表すのではなく、さらにそれを内に秘め、隠すようになったと言っていい。
「ってぇ…!おい、ぶつかったら謝れよ!」
廊下で他クラスの生徒に亜霊がぶつかった。こんな時、以前の彼ならば、どちらが悪いとしてもその憎しみの視線を相手にぶつけていただろう。しかし、今の彼はそれをしない。目を向ける事さえせず、何事も無かったように、薄気味悪い笑みを浮かべて立ち去っていくだけだ。
「…フフ、フフフ…」
「おい!聞いてるのかよ!」
「止めとけよ。なんかおかしいぞ、そいつ…」
このように、普段の彼を知らない生徒達ですら異常を感じるほど、今の亜霊 大斗という人物は壊れていた。彼の目に何が見えているのか、輪をかけて誰にも解らない。そんな有様だ。
「亜霊の奴、何か変わったよな…」
「ああ、前は何か常に怒ってる風だったけど、今は笑ってるのに掴み所がないっていうか…ちょっと恐いよ」
クラスメイト達の大半は、こんな感想を抱いている。違うのは、霊的なものを感じ取れる狛と、神奈だけだ。
「亜霊君、大丈夫かな」
「狛、
元々霊感の強い神奈だったが、一度鬼に目覚めかけた事で、より感覚が鋭くなったらしい。それは単なる霊感というよりも、霊視に近い読み取り方である。狛は神奈がその感覚を得た事に驚いてみせた。
「神奈ちゃん…うん、そうだね。亜霊君には何か良くないモノが憑りついている気がする。でも、ずっとそれが一緒にいるわけじゃないみたい。今見えてるのは、その影みたいなもの、かな」
霊視に関しては、狛はまだまだ半人前である。修行はしているが、正確に判断するには経験が足りないのだ。ただ、この見立ては当たっていた。亜霊の肉体そのものに悪霊が憑りついているのではないのだ。そしてそれが、事態の発覚を遅らせる
「ほう、つまり大斗様は領分を守れと仰りたいのですね?」
深夜、
勉強机の上には、どこで集めたのか、小動物の骨や得体の知れない飾りと蝋燭が置かれ、方陣が描かれた祭壇のようなものが形作られていた。その中心に安置されているのは、あの雑木林で拾った奇妙な箱である。
手の平に収まるほどの小さな箱は、不思議な文様が彫りこまれていて、所々に赤黒い染みがある。何よりも不気味なのは、禍々しい気配を宿し、人語を発する点であった。彼は、この箱と夜な夜な密やかな話し合いに興じていた。
当初はその箱に恐れを感じていたが、わずか数日の内にすっかり恐怖など無くなって、こうして会話をすることが何よりの楽しみになっている。
「そうだ。この世に生きる全てのものは、己の持つ能力と生きていく領分というものが決まっている。空を飛び多くの他者を魅了するものや、大地を踏みしめ、ならすもの、そして地を這う者共だ。だが、時として空を飛ぶ能力のあるものは、地に降りて地を這う者を仲間であるかのように振る舞う。どうせ、奴らにとって地を這うものは養分でしかないのに、だ。例えば有名人なんかがよくやるだろう?大病を患って地に落ち、泥に塗れたと同情を誘っておいて、回復して再びまた空へ飛び立っていく。そうして、それを見た無能共は言うんだ。一度でも地に落ちたものでさえ高く飛ぶのだから、お前にも出来る、と…実にくだらない!奴らは元々飛べるからそれが出来るんだ、初めから地を這う者達に飛ぶことなんて出来るものか!」
亜霊は話をしていく内に、熱くなって声を荒らげた。己に対する不満と他者への憎しみに凝り固まった彼には、世界がそんな風に見えている。
「本当に、奴らは害悪だよ…最初から何も出来ない奴なんかより、よっぽど。本当に地に落ち、地を這うことしか出来なくなったなら、そのままでいればいい。そして、自分達が見下してきた者達に頭を下げて許しを乞うべきなんだ!そうして地に頭を擦りつけて、腐り果ててしまえばいい。そうだ、死ね、死ぬべきだ、それが当然の報いなんだ…!」
彼の言は、単なる八つ当たりだ。彼は不当に他人から踏みつけられた事もなければ、人に手を差し伸べた事もない。勝手に自己の限界を低くして、しかもそれを他人のせいにして正当化している。他人と正しく接して、皆それぞれが努力しているのだと理解出来れば、簡単に覆せる幼稚な理屈である。
だが、今彼の目の前にいるものは人間ですらない。その誤りに気付いていたとしても、それを正そうなどとはせず、むしろ増幅させることを望んでいる様にもみえた。
「仰る通りでございます…私も、かつては信じていた他人に騙され裏切られ、挙句はかような棺に押し込められる始末。人というものは実に愚かで、生きるに値しない愚物ばかり…そう思っておりました。大斗様に出会うまでは」
初めは地の底から響くような、男とも女ともつかない声に聞こえていたが、次第に箱から聞こえる声は妖艶な女性の声に定まっていた。亜霊はその声に魅了されて、頬を赤らめている。
「ふん、人なんて容易く信じるからだ。そういう意味ではお前も愚かだが、それでもお前は賢い方さ。間違いに気付けて、僕を見出す事ができたのだから」
「ふふ、仰る通りでございますね…この出会いは本当に、素晴らしいものでありました」
まるで、時代がかった恋人同士の会話のようだが、状況は明らかに異常である。その証拠に、亜霊が手近なケージからハムスターを取り出して祭壇の一角に置いた途端、ハムスターは小さな悲鳴を上げて絶命し、その身は潰れてグズグズと溶けていった。後に残ったものは骨だけだ。
「ああ、素晴らしいお味です。滋養に満ちた生物ですね。…ですが、私が元の肉体を取り戻すには、そろそろ次の段階が必要な様子…お力をお貸し頂けますか?」
溶けた血肉は、方陣を伝って箱の中に吸い込まれていく。おぞましいその光景に、普通の人間ならば嫌悪感を抱き、吐き気を催すだろう。だが、亜霊はその様を見ても動じる事はない。むしろ、笑みを浮かべて胸を躍らせているようだ。
彼にとって、弱く小さな生き物など、取るに足らない玩具に等しい。クラスメイトや気に入らない人間を殺す事は妄想に留めているが、かつては小動物を殺して回る事が日課だった事もあるくらいだ。彼の憎しみの対象は、人間だけではないのである。
「もちろんだとも。その方陣の中に入れさえすれば、いとも簡単に命を奪えるんだ。僕にできない事はない。ああ、楽しみだな。本当のお前は一体どんな姿をしているのだろう。きっと、血が似合う素晴らしく美しい女性に違いない。いや、その姿も満更ではないんだが」
「ほほ、このような
艶のある声でそう囁かれ、亜霊は全身が身震いするほどの衝撃を受けた。彼も思春期の男である、性的な興味がないわけではない。ただ、彼にとってそれらは殺意や憎悪よりも下位にあるものだ。これまでは時折、拷問の妄想に耽って欲求を満たす程度のものでしかなかった。
しかし、箱の囁きはそれらをはるかに上回る衝動をもたらしている。
「な、なんでもやる…!何が食いたい?犬か?猫か?いくらでも用意してやるぞ」
「フフフ…では、私めの肉体を作る為に必要なものをお教え致しますね。…それは、