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第26話 悪霊の呼び声

「おはよー!…今日も元気ないねぇ、神奈。そんなにコマチのこと心配?」


「ん。…まぁね」


 神奈が教室に入って席に着いた途端、メイリーが声をかけてきたが、気軽に返事をする余裕はない。それも当然だろう、まさか自分が化け物になって、狛や玖歌を襲ったなんて、未だに信じられない事が起きたのだから。

 だが、彼女の中にはっきりとその記憶は残っている。常軌を逸した殺意を持って、狛や玖歌を切ろうとしたことも全て、忘れたくとも忘れられない記憶だった。


 あれから一週間、狛は学校を休んだままだ。


 玖歌を庇って受けた傷に加え、神奈を人間に戻そうと大量の霊力を一気に消費した事で、結果的に大きなダメージになってしまったらしい。ただ、そんな事はメイリーには言えず、狛は表向き体調を崩したということになっている。


 玖歌が人間ではなく妖怪だったと言う事も後から聞いたが、自分が鬼の子孫だったと知った後では、驚きは薄かった。それよりもあの後、狛を迎えに来た猫又を名乗る妖怪の方がよほど恐ろしい。狛の実家が営む裏稼業の話にも驚いたが、狛はあんな怪物と同居しているなんて大丈夫なのかと、不安は尽きなかった。



「ん、んん…」


「おう、起きたか。おはよう、どうだ、飯は食えそうか?」


 狛がベッドの中で目を覚ますと、枕元には猫の姿になった猫田が香箱座りをして、狛の顔を覗き込んでいた。どうやら、ずっと傍についていてくれたらしい。これまでにも何度か目を覚ました時にも同じ格好でいたので、すっかり見慣れた状態だ。ちなみにアスラは足元にいる。


 ゆっくり体を起こしてみれば、傷の痛みは消えていた。それどころか刀傷の痕さえ残っていないのは、猫田が傷口を舐めて癒してくれたからだ。所謂心霊医術ヒーリングというものである。猫田曰く「犬や猫なら傷は舐めて治すもんだ」とのことだが、猫田の場合はそこまで得意でもないらしく、軽い傷や傷痕を消してしまうくらいの効力しかないそうだ。

 それでも、やはり狛はうら若き乙女である、出来れば傷痕など残したくはないと、兄の拍は断腸の思いで許可を出したらしい。その悔しがり方たるや、血の涙を流したのではないかと思うほどだったと、のちにハル爺は語っている。

 なお、猫田が人間体でそれをやるのは画的にいかがわしいというか、問題があり過ぎるので、ちゃんと猫の姿で舐めたという。今も猫のままでいるのはその為だ。


「猫田さん、ありがとう。…もー、お腹空いちゃった!」


「待ってろ、今ナツに伝えてくる。水でも飲んどけ」


 猫田はクスっと笑ってから、ひらりと身を翻してベッドから降り、狛の部屋から出て行った。猫田は猫になると尻尾を隠さないので、6本の尻尾がゆらゆらと揺れながら歩くのは、何度見ても面白い光景だ。

 アスラも狛が起きたので一緒に起きて、口元を舐めてきた。こうやってついていてくれるのは本当にありがたい。しばらくアスラの相手をした後、狛は枕元に置かれていたコップに水を注いで一気に飲み干し、窓の外に映る空を見上げた。快晴の青空に、どこか不穏な影を感じながら。



「おっはよー!」


「おー!犬神元気じゃん、やっぱオマエ仮病だったんだろー?」


「ええ、そんなことないよー!?もうインフルエンザと風邪と溶連菌とおたふく風邪で大変だったんだから!」


「いや、一気に罹り過ぎだろ…」


 翌日、朝から登校した狛は早速クラスで珍獣扱いされていた。元々、狛はクラスのムードメーカー的存在で元気娘として知られており、メイリーや神奈だけでなく友人は多い。入学当初はそのルックスと人懐こい性格のおかげで、男子から好意を持たれることもしばしばだったのだが、如何せんあの異次元の食欲を目の当たりにして、一斉にそういう対象から除外されたりしている。


「やっ!おっはよーコマチ!おかえり!」


「メイリーちゃん、おはよう!」


 ハイテンションに挨拶を交わすメイリーと狛だが、そこに近づいてきた神奈の表情は暗く、ぎこちないものだった。


「狛…お、おはよう」


「神奈ちゃん、おはよう!」


「チョットー!神奈暗すぎじゃない?せっかくコマチに会えたのに、嬉しくないの?」


「い、いや…そんなつもりじゃ…!」


 そんな風に、きゃーきゃーとはしゃぐ三人をじっとねめつける視線があった。胸に秘めた苛立たしさを隠そうともせず、クラスの中心で笑う狛達を見下しながら、強い視線を投げ掛けている。


(ちっ…!朝っぱらから煩い奴らだな。これだから低レベルな連中は…!ぎゃあぎゃあぎゃあぎゃあ喧しいんだよ、黙ってろブス共め)


 ぶつぶつと小声で呟く彼の名は亜霊 大斗ありょう ひろと。彼はクラスに一人はいるタイプの、よくある暗く大人しい少年である。


 彼が人と違うのは、その内心が憎しみで溢れかえっていることだ。


 いつからそうだったのかは彼自身解っていない。ただ、物心ついた時から彼にとって、目に映るもの全てが敵だった。他人と触れ合う事を極端に嫌い。人を蔑み、見下し、嘲笑しつつそれでいて誰よりも人を憎んでいる。彼はそんな男だった。


 ネットを開けば、SNSで同級生への悪口を呟き、世間の炎上ネタには誰よりも先に食いついて率先して叩きに回る。やっている事はその程度の小さな悪だが、それは彼の内面を、より醜悪に磨き上げる修行のようなものだ。それを繰り返すことで、彼の心に潜むドロドロとした汚泥の様な他者への憎悪は、ゆっくりとだが、日々着実に大きくなっている。


 そんな彼だが、特別クラスメイトから嫌われたり蔑まれたりはしていない。何を考えているのか解らない彼を恐れる生徒たちは居ても、爪弾きにするような行為をするものはいなかった。だが、それすらも彼にとっては、憎悪を練り上げる要素でしかない。


「おっと…!悪い、亜霊、大丈夫か?」


 近くを通った生徒がたまたま亜霊にぶつかり、持っていたスマホを床に落としてしまった。彼はぶつかってきた生徒を睨みつけるが、決して声を荒らげたりはしない。ただその内心で、呪詛の念を吐き出し続けるだけだ。


(何が悪いだ…!僕にぶつかっておいてその程度の謝罪しか出来ないのか。どいつもこいつも、群れて大きくなった気になっているだけの阿呆共が。僕はお前らとは違う、気安く話しかけるな、クズめ!)


「な、なんだよ。悪かったって、そんなに怒るなよ…ごめんな」


(僕に恐れをなして無理に謝るか…それなら初めから謝っておけよ、雑魚が。やはりコイツも死んだ方がいいな。だが、コイツよりも気に入らないのは…)


 そそくさと去っていった男子生徒を横目に、亜霊はスマホを拾おうとする、そこへ…


「はい、落としたよ。亜霊君!大丈夫?気分悪かったら先生に言ってね。遠慮しちゃダメだよ」


 いつの間にか近くまで来ていた狛が、落ちていたスマホを拾い上げ、亜霊に渡して、その斜め後ろにある自分の席に着いた。


(犬神…コイツの善人振りは本当に苛つく、何が遠慮するなだ。お前なんかに僕の何が解る?大したこともなく一週間も休んで同情を買いやがって、そうまでして人の気を引きたいのか?クズめ。コイツもきっと、内心で僕を嫌ってバカにしているに違いない。こんなヤツに地を這う存在の気持ちが解るものか!いっそ死ねばよかったのに…!)


 彼は誰よりも狛を嫌い、憎んでいた。生き物が、己が身を焼く炎を厭うように。


 その日の放課後、亜霊は自宅への帰路にいた。今日も一日、クラスメイトに呪詛の念を吐き続け、その心に澱みをたっぷりと溜め込んでいる。家に帰ったら、今度はそれをネットやノートに書き散らし、頭の中では常に誰かを傷つけ、殺そうと考えている。それが、彼の生活であった。


(今日は特に苛ついたから、犬神の奴を殺す事にしよう…どうやってアイツを苦しめてやろうか?)


 いくつもの拷問を思い浮かべ、悦に浸りながら、早足で家路を急ぐ。彼の脳内は、狛を甚振りいたぶ苦しめて殺す事で一杯だ。彼がそれを実行に移さないのは、自分の力では実行できる数に限りがあるからだ。全ての人間を傷つけ、殺す能力があったなら、彼は躊躇いなくそれを行うつもりでいる。一人や二人では満足できない、だからやらない。そう考えていた。


(そう言えば、この道を通ると早く家に着くんだよな…どうして通っちゃいけないんだったか)


 不意に、『立ち入り禁止』の札が掛けられた雑木林に続く道の前で足を止めた。物心着く前から、大人に言われて通らなかった道だ。だが、幼い頃ならまだしも今の彼は大人の言う事に唯々諾々と従う年齢ではなかった。逆に、彼の脳内は自分が見下す大人という存在に従いたくないという反抗心が芽生えている。

 少し考えて、彼はその道を通ってみることにした。まだ陽が落ちるまでにはずいぶんと時間がある、少しくらい迷った所で構う事もないだろう。


 しばらく歩くと、奇妙な空間に出た。ここに至るまで雑草だらけだった雑木林の中で、そこだけが拓けている。


「なんだここは?静かだが、不気味だな…」


 独り言ちて辺りを見回すが、これと言って変わった所はない。ただ、異常なほどに静かだった。鳥や虫の鳴き声はおろか、風が草木を撫でる音さえも聞こえない。まるで、ここだけが世間から隔絶し、密閉された空間のようだ。ピラミッドの中に入ったら、こうなのかもしれない、亜霊はそう感じた。

 不気味なほどの静謐さに恐れを覚え、足早にその場を去ろうとした時、か細い声で誰かが呼ぶ声が聞こえた。


「もし、もし、そこのお人…」


「だ、誰だ!?」


「ここです…貴方様の目の前に…どうか、どうか私めを地のくびきから解き放ってくださいませんか…?」


 恐怖を覚えるその声に、亜霊は何故か逆らう事が出来なかった。フラフラと歩きだし、拓けた地面の中央から、わずかに頭を出しているそれを一心不乱に掘り起こす。ざくざくと土を掘る音だけが、辺りに木霊していた。

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