玖歌の姿を捉えられず、焦りと苛立ちを隠せない神奈。幼い頃から続けている剣道の修練による賜物か、高校生にしては図抜けた精神力と胆力を持っているのだが、如何せん相手は妖怪である。普通の人間が生きる常識の埒外にいる存在が相手とあっては、手も足も出せない状況になるのも無理はない。
玖歌はそれを誰よりもよく理解しているからこそ、油断していたのだろう。久々の獲物を前に、高揚しているのが自分でも解るほどだった。
「ほらほら、どこ見てんの?アタシが許せないんでしょ?ふふ、怖かったら逃げてもいいわよ?クスクス」
闇雲に拳を振るう神奈の死角から声をかけつつ、玖歌はほんの一瞬だけ、生気を吸い取る白い手を触れさせていく。僅かな瞬間ではさすがに吸い取れる生気などたかが知れているが、今は生気を吸い取る事や肉体を傷つける事が目的ではない。不意にその手が与える得体の知れない感覚は、それだけで神奈を恐怖に陥れるだろう。玖歌は彼女の怯えそのものが楽しくて仕方がないのだ。
「くぅ、こ、このっ…!」
小さく呻き声を上げたかと思えば、神奈は意を決したように竹刀を取り出し、中段に構えた。所謂、正眼の構えである。実際にそのまま攻撃しようというわけではなく、構えを取って意識を集中させることで精神を整え、恐怖を払拭しようとしているようだ。
「ふーん、まだやるつもりなんだ?それが本気ってワケ?」
玖歌の囁きを耳にしても、目をつぶって集中している神奈は先程のように怯える様子はない。まるでスイッチが切り替わったように冷静さを取り戻している。
(それだけ真面目に剣に取り組んできたって事、か。…嫌いじゃないけどね、そういう人間も)
あれだけ弄んでやろうとしていた玖歌だが、神奈のその在り様には好感が持てた。迷惑がっていても狛を心底から嫌っているわけではないように、玖歌は元来人間が好きなのだ。それ故だろうか、玖歌は神奈を
神奈から少し離れた正面に姿を現した玖歌は、不敵な笑みを浮かべながら神奈を真っ直ぐに見据えている。
「アンタの事、ちょっと見直したわ。ただのキモイヤツかと思ってたけど、イイとこもあるんじゃない。ならバカにしないで、正々堂々の方がいいわよね?…来なさい、きっちり負かしてあげるから」
それは挑発というよりも、決闘の申し込みだ。少なからず気に入った相手だからこそ、手加減などしない。それでなくとも、神奈のようなタイプはどっちが強いかを解らせた方が話もスムーズに進むだろうと玖歌は考えた。力がモノを言う、妖怪らしい考え方である。
いつの間にか机は両端に集められていて、ある程度のスペースは確保されている。派手に暴れ回るのは無理だろうが、少しは戦えるだろう。
しばらくの間、二人が正面から睨み合っていると、窓の外に浮かんでいた月が雲に隠れた。教室がさらなる闇に包まれた瞬間、神奈が弾けるように踏み込み、玖歌へ飛び込んで行く。
胴を狙って横薙ぎの一閃を放つ神奈だったが、玖歌はその場でべたりと床に張り付くようにしゃがんで、それを躱す。
「!?」
玖歌が最初にみせた手品のような動きをするものと思い込んでいた神奈は、完全に予想外なその動きに気を取られた。普段の彼女ならば、残心を怠らず、例え一本が取れなかったとしても、すぐに次の動作に移る所だが、ほんの一瞬動揺した事で飛び込みからの姿勢制御が遅れてしまう。
その隙を突いて、玖歌は神奈の腰にそっと手を触れた。
「あっ!?か…ぁ」
それは怖気を与える程度のものではなく、正真正銘に生気を吸い取る行為だ。もちろん命に別状はないが、全身から力が抜き取られたような感覚に襲われて、神奈はその場で膝をついていた。
「これで解ったでしょ?アタシの方が上だって。解ったらもうアタシに関わらないで、狛にはアタシから言っておくわ」
勝負あったとばかりに、玖歌は神奈に背を向ける。素人相手に大人気なかったと思うが、狛の事であれほど敵視されては仕方がない。そう思った時だった。
「えっ!?」
動きを止めたはずの神奈が、玖歌に向かって竹刀を振るっていた。さっきよりも遥かに鋭く、殺気に満ちた一撃だ。玖歌は油断しきっていたせいか、もろに喰らってしまい、横に集められた机まで弾き飛ばされた。
「くぁっ…!?な、なんでっ?!」
その一撃には、間違いなく霊力が込められている。神奈は多少霊感があるようだったが、狛とは違ってそれを操る修行などしたこともない、普通の女子高生のはずだ。それが竹刀を振るっただけで、玖歌にこれほどのダメージを与えるなど、あり得ない。
弾かれた玖歌は、こちらを向いて仁王立ちする神奈を見上げ、戦慄した。彼女の左目は朱く怪しく光を放ち、そのこめかみには、雄々しい角が生えていたからだ。
「お、鬼…!?アンタ…!」
荒く息を吐きつつ、神奈は玖歌を見下ろしている。その眼光は鋭く玖歌を射抜き、倒れる玖歌を見てわずかに口角が上がっていた。
(ヤバ…!やられる!?)
今の神奈は正気ではない、竹刀を振り上げ、玖歌にとどめを刺すつもりだ。不意を打たれてしまったせいで、それを避けられるほどの余裕はなかった。神奈の持っていた竹刀は、禍々しい妖力と霊力が合わさって歪な結晶へと変化している。あんなものを喰らえば、ひとたまりもないだろう。
神奈はそれでも動けぬ様子の玖歌を見つめ、ニタリと薄気味悪い笑みを浮かべると、渾身の力を込めてそれを振り下ろした。
「…っ!?あ、あれ?」
激しい破壊音が玖歌の耳に響いたが、その身体に衝撃は感じられない。覚悟を決めて目を閉じていた玖歌が恐る恐る目を開けると、さっきまでいた場所から少し離れた教室の隅で、その身を狛に抱えられていた。
「よかった、間に合った…!」
「こ、狛!?どうしてアンタがここに?」
「帰り道の途中で、物凄く嫌な予感がして戻ってきたんだよ。一体、何があったの?」
そこで玖歌を仕留められなかったことに、鬼と化した神奈はようやく気付き、周囲を見回して狛と玖歌の姿をその目に捉えていた。
「神奈に話を着けようって言われてね。…ちょっと痛めつけたらこのザマよ。アンタ、あの子が
「…ううん、初めて見た。でも、神奈ちゃんの中にあれが眠っているのは知ってたよ。昔、初めて会った時に聞いたからね」
狛は変わりつつある親友の姿に胸を痛めながら、それを睨んだ。
その昔、神奈の祖先には強い力を持つ女の鬼がいたという。その血は長い年月の間に薄まっていた為に、神奈の家族にはほとんど影響がない。ただ、常人よりも優れた霊感を持っているだけだ。本来であれば、神奈自身もそうであるはずだった。
違ったのは、『蘿蔔 神奈』という少女の魂が、その鬼と同じ魂を持っていたと言う事だ。つまり、神奈は先祖返りならぬ、先祖の生まれ変わりなのである。
強い霊感を持つ神奈の両親は、いち早くそれに気付き、方々の伝手を頼って犬神家に助けを求めた。当時、まだ小学生だった神奈と狛はそこで出会ったというわけだ。
「コ、コマ…?!アア、アアア!!」
狛の存在を認識した途端、神奈は激しく動揺し、頭を掻きむしり始めた。肉体は変貌しつつあるが、まだ彼女の意識は完全に変わってはいないのだ。それ故に、変貌した自分を狛に見られたくないのだろう。その姿を見て、狛はグッと拳を握り締めて決意を口にした。
「神奈ちゃん、大丈夫だよ。必ず助けてあげるからね…!」
「助けるって、どうやって?あの子を元に戻す方法があるの?」
「神奈ちゃんの身体も、意識も、まだ鬼になり切ったわけじゃないから、今ならまだ私の霊力で引き戻せるはず。その為には、強く表に出てる神奈ちゃんの鬼の部分を弱らせないと…!」
そう呟く狛の目に映るのは、神奈の頭に生えた鬼の角だ。変化した竹刀と同様に、妖力と霊力が合わさって形を成している。あれを破壊すれば、暴走しかけている鬼の力が霧散するかもしれない。少なくとも、あの角は肉体が変化したものではないのは明らかだ、賭けではあるが、試す価値はあるだろう。
(出来るだけ神奈ちゃんを傷つけないようにしなきゃ…!)
玖歌を床に降ろし、狛がゆっくりと立ち上がると、ちょうど月を覆っていた雲が晴れ、教室内に月明かりが戻ってきた。それを頼りに見てみれば、狛の足元に血が滴り落ちている。
「狛、アンタ、それ…」
「へへ、さっきのちょっと避けそこねちゃった。でも、この位なら大丈夫だよ」
狛は気丈に振る舞い笑っているが、流れる血の量からみて決して浅い傷ではないだろう。それでも、神奈を救おうとする気持ちに揺らぎはない。
そんな狛の横に玖歌が並び立つ。未だふらつきはみられるが、その瞳はしっかりと鋭い光を湛えている。
「…アタシも手伝うわ。二人なら、何とかなるでしょ」
「玖歌ちゃん…!ありがとう、でも、無理しないでね?」
「無理してるのはどっちよ。アタシのせいでもあるんだし、するわよ、無理くらい。それに…アンタの友達なんだから、放っておくのもね」
余所余所しい物言いをする玖歌がおかしくて、狛は思わず笑ってしまった。彼女のそれが本心からの言葉でないことは、狛にはもう解っている。
「ふふ、違うよ。玖歌ちゃんだって、もう友達でしょ?」
「ふん…!」
「よし、行くよ!イツ、出てきてっ!」
狛の掛け声に合わせてイツが現れ、いつものように狛の身体に飛び込んで行く。狛の身体に輝く耳と尾が現れると、苦しんでいた神奈は怯えたように威嚇をし始めた。自分に向けられる攻撃の意思を感じ取ったようだ。ただ、結晶の剣を右手に構えているが、どこか及び腰なのは狛に気圧されているせいだろう。
狛が息吹を吐いて神奈に突撃すると、神奈はすかさず後方へ飛び避けた。普段から鍛えているだけあって、その動きはかなり素早い。それに加えて鬼へと肉体が変化しつつある為か、人間とは思えない反応を見せている。
神奈は狛の爪を避けると、返す刀で横薙ぎに狛へ斬りかかった。
「狛ッ!」
「くぅっ!大丈夫…まだっ!」
狛の身体を両断したかのように見えた一撃だったが、狛が咄嗟に後ろへ飛んだおかげで直撃は避けられた。しかし、完全に避けられたわけではなく、鳩尾付近の制服ごと、腹の皮が切れて出血している。
あと一歩神奈が踏み込んでいれば、確実に狛の上半身と下半身は二つに分かれていただろう。反撃の瞬間、神奈はわずかに躊躇いをみせた、それに助けられた形だ。
その攻防に怯む事無く、間髪入れず狛は再度神奈に向かって走り出す。それに合わせて、玖歌も動き出していた。
既に神奈は、玖歌に注意を払っていない。自らにとって危険な相手は狛の方だと認識しているのだろう、ならばちょうどいい。玖歌は無数の白い手を生みだして神奈と狛に差し向けていく。闇から現れるそれを次々に切り払う神奈の視界から、突如、
「っ!?」
「トイレの花子さんの都市伝説にはね、子どもを異界に引きずり込む…なんてのがあるのよ。知ってる?」
そんな玖歌の言葉に、神奈は怒りを露わにしてみせた。狛を傷つける事は許さないと言わんばかりの形相だ。
「そんな顔しなくても、狛を傷つけたりしないわよ。でも、アンタの負けね」
次の瞬間、神奈の目前に狛の姿が現れた。玖歌は、狛の身体を一瞬だけ自分の領域に隠し、また戻したのだ。神奈に向かわせた白い手は囮であり、本命は狛を引き込むことだったのである。
「神奈ちゃん、ごめん!」
神奈の前に立った狛は、彼女が剣を振るよりも早く、その爪で狙い通りに神奈の角を引き裂き、完全に破壊した。
砕かれた角の破片は窓から差し込む月の光に照らされ、キラキラと美しく輝きながら、霧散していくのだった。