神奈がB組の教室に入るのと前後して、完全下校時間を報せるチャイムが鳴り響いた。この時間ともなれば既に陽が落ちていて、教室内は既に暗い。灯りを点けなければ文字を読むのも難しいだろう。とはいえ、教室に灯りを点ければ、そこに生徒が残っている事がバレてしまう。話し合いが名目だからか、神奈も玖歌も、灯りを点けようとは言い出さず、行動しようともしなかった。
「はっ、ホントに来るとは思わなかったわ。それに何?木刀?もしかして話をつけるって、アタシの事殺すつもり?」
「木刀じゃない、竹刀だ。部活上がりだから持ってるだけで、使うつもりなんかないよ」
「ははっ、やるならそれくらい持って向かってきてもらわないと、相手にならないけどね。まぁ、それはどうでもいいか」
玖歌が妖怪であることなど知る由もない神奈は、その発言が癪に障ったのか、苛つきを思い切り表情に出して睨みつけている。対する玖歌は涼しい顔で、その視線の圧を受け流し、煽るような笑みを止めようとしない。
「で?話ってなんなの。言っておくけど、アタシは謝るつもりなんかないわよ。あの子が友達ごっこをしたいのは止めないけど、迷惑してるのは事実だから」
「狛は一人ぼっちのお前を気遣ってくれているのに…!」
「言ったでしょ?誰がそんなこと頼んだのよ。そもそも同情や憐れみなんて必要ないわ、バカにするのもいい加減にして欲しいわね」
真っ向から二人の意見は対立し、ぶつかり合っている。玖歌自身、友達になろうと言った狛の真意が、同情からくるものだと知れば面白くないのは当然だろう。ただ、それはあくまで神奈がそう思っているだけで、狛がそう言ったわけではないのだが。
「そもそもアンタは何なのよ。狛、狛って鬱陶しい…何、アンタ惚れてるわけ?同性愛ってヤツかしら。別にいいんじゃない、アタシに人間の倫理なんて関係ないし、今時はそんなの当たり前なんでしょ?ただ、アタシを巻き込まないで欲しいわね」
「…バカにするなっ!私は確かに狛を愛してる。けど、この想いは私一代で終わるものなんかじゃない!」
「…は?」
雲行きが怪しくなってきた。挑発するつもりで言い放った言葉に思わぬ言葉が返ってきて、玖歌は思わず眉をひそめている。
「私と狛が結ばれる…なんて素晴らしいんだ、そうなればどんなに幸せだろう。だが、それではダメだ!死がふたりを分かつまで?…あり得ない!私と狛の関係は一時的に結ばれるだけでは終わらない、永遠に終わるはずがないんだ。それにもし、もしも万が一、狛の心が変わってしまったら…いや、私にはそんな事はない。何があろうと狛を愛し続ける事が出来る。だが、狛はどうだ?世の中には絶対というものはない、口惜しいがそれは現実だ。ならば…私達は別々に子どもを作り、そしてその子達が結ばれて子を成せば、私達の
「はぁ?」
こういう事を、虎の尾を踏んだというのだろうか、或いは藪をつついて蛇を出したと言うべきか。突然の神奈の告白に、玖歌は開いた口が塞がらないようである。
「いや、色々とツッコミたい所は山ほどあるけど、子ども同士がくっつかなかったらどうするのよ?無理矢理付き合わせるつもり?」
「そんな無粋な真似をするはずがないだろう?子ども同士でダメなら孫に期待するさ。そりゃあ出来れば、私達の子ども同士で結ばれてくれるのが一番いい、孫ならまだ私がこの手で抱ける可能性が高いからな。それでダメならその先もあるし、その先だって…ふふふ、私達の血はいつか必ず結ばれるさ。まぁ、私の子どもが狛の子どもに惹かれないはずがないけど」
「…普通の事を言ってるはずなのに、こんなに気持ち悪く聞こえるなんて、アンタ凄いわ。なんだか頭が痛くなってきた…」
子々孫々、世代を超えた夢と言えば聞こえはいいが、実態は世代を超えるストーカー宣言である。それはもはや偏執というべきものだ。玖歌は狛に出会ってからというもの、妖怪としての自分の感覚が人間に負けてしまっているような、奇妙な気持ち悪さを感じているようだった。
(コイツ、ちょっとどうにかした方がいいんじゃないの?いや、アタシには関係ないけど…でも、ううん…)
「私の事なんかどうでもいい、許せないのはお前だ!狛の気持ちを踏み躙って…!」
(あ、もしかしなくても、コイツアタシに嫉妬してるんだった。怖ぁ…)
トイレの花子さんと言えば、押しも押されもせぬ名だたる妖怪・怪異である。既に怪異としてはその形を捨て、人に擬態して生きているが、未だ自分が人に恐れられる存在であるという自負がある。その自分が、僅かでも人に恐怖を感じたことが許せない、そう思った。
だが、そうはいっても神奈に直接危害を加える訳にもいかない。あまり狛を悲しませたくもないし、敵対でもされたらそれこそ厄介だ。
玖歌は口では突き放すようなことを言っているものの、実のところは狛を気に入っているし、友達だと思っている。ただそれを表に出すのは恥ずかしいという気持ちが強かった。彼女には昔ながらのツンデレ気質があるのだ。神奈もそうだが、玖歌も十分面倒臭い女なのである。
2人の睨み合いは数分間続き、不意に神奈が動いた。頬の一つも張ってやろう、そう思ったに違いない。玖歌はまだ机の上に座ったままだ。2人の距離は机3つ分は離れていたが、神奈は流れるような足捌きであっという間に間を詰め、右手を振り上げた。常人ならば殴られるまで、気付かないかもしれない、そんな動きだ。
しかし、その右手はあえなく空を切った。
神奈は絶対に外さないと確信していたのに、あっさりと避けられてしまったことが理解出来ない。とは言っても、玖歌の動きが見えなかった訳ではなかった。振り上げた神奈の右手が当たる瞬間、玖歌の体が闇に沈んだのである。
「なっ!?」
神奈は驚愕した。驚きの余り、目を見開いてキョロキョロと周囲を窺っている。
今、何が起きたのかまるで解らない。彼女がその目で捉えたのは、水の中に沈むように玖歌の体が闇に吸い込まれていく所だ。
しかし、そんなことある訳がない。タネは解らないが手品の類だろう。そうでなければ…神奈が頭の片隅で想像してしまったことで、夜の闇に包まれ出した教室が急に空恐ろしく感じられた。
室温が一気に下がったような、そんな気がした。
「何なの?一体…」
そう口にした途端に、はっきりとした怖気がカンナの全身を覆う。その背中に冷や汗が一気に流れて、不安と恐怖が神奈を支配した。
「随分びびってるじゃない。普通の人間じゃ仕方ないけどね。さぁ、どうすんの?尻尾巻いて逃げるなら見逃してあげるわよ?」
嘲笑うような声が神奈の耳に届く。相変わらず姿は見えないが、耳元で囁かれているような不快感を覚え、神奈は咄嗟に背後へ拳を振るった。だが、それもまた虚しく空を切るだけだ。
「くっ!?どうして…!」
その行動と結果が、神奈の心に更なる恐怖と闇をもたらした。それがどんな些細な形であれ、予測が外れるというのは動揺を誘うものだ。冷静な時ならともかく、今の神奈は心に未知の状況という不安の種を抱えている。
(落ち着け、私…!さっきからこんな気持ちじゃ、勝てるものも勝てない!)
完全に手玉に取られている、悔しいがそれは事実だ。剣道部では県大会で優勝し、男子にも引けを取らない体格とパワーを持っていると自負してきた神奈が、見るからに華奢でさほど鍛えているとも思えない玖歌に手も足も出せないというのは、これ以上ない屈辱でもあった。
(ああ、楽しいっ…!こういうの久し振りだわ。やっぱ妖怪としては、恐れられてこそってものよね)
かたや玖歌は、神奈が恐れて右往左往する様が楽しくて仕方がないようだった。ミカを失って以来、彼女はずっと復讐とミカの捜索だけを考えて生きてきた。本来の怪異であるトイレの花子さんは、子どもを驚かせ、或いは襲ってその生気を吸って生きる妖怪だが、玖歌は久しくそれをしていない。
生きていくのに最低限必要な生気は学校で生活している間に生徒達から吸収しているし、どうしても足りない時は街へ出て集めることもあった。だが、それだけだ。人を恐れさせ、自らを畏怖させるような行動などする余裕がなかったのだ。
(さて、どこまで耐えられるか試してみようかな?)
玖歌の思考は、すっかり神奈を使って遊ぶ方向にシフトしていた。ずっと抑えられていた、彼女の妖怪としての本能が目覚めてしまっているようだ。
追い詰められた神奈の左目が、怪しい光を放っている事に気付かずに…