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第21話 九十九神美人絵図

「くっ!?」


 伸びてきた怪異の腕…或いは触手は、ぬめぬめとした唾液のような液体を纏わせている。樫尾のものとは違い、先端には一本の鋭い爪が生えていた。狛は咄嗟にまだ自由な右手で、ツールバッグから霊符を一枚引き出し、その爪を防いだ。


 霊符に流れ込んだ霊力によって簡易的な結界を作る事で、怪異の爪は狛の身体を貫くことが出来ない。しかし、このままでは直に霊符が燃え尽きるだろう。今の内になんとかしなくては。


「狛っ!く、この野郎!!」


 それに気付いた猫田が狛を救けに行こうとするが、樫尾に憑りついた怪異の猛攻がそれを許さない。これ以上反撃をして怪異の数が増えれば、いくら猫田と言えど無事では済まないだろう。かといって、樫尾を振り切って狛を救いに行けば、二体の怪異を同時に相手にすることになる。それはそれで厄介だ。いっそのこと樫尾と野上を殺してしまう事も考えたが、それで解決するとは思えない。死体に憑りつき、操る妖怪もいるのだ。むしろ、この怪異どもの狙いはそこにあるような気がして、猫田は守りに入るしか出来ていないのだった。


「くぅ…!どうしたらいいの!」


 そしてそれは、狛も猫田と同じ考えであった。狗神走狗の術を使うにしろ、一犬剛陣を使うにしろ、怪異が憑りついている野上と樫尾は生身の人間である。強力な攻撃に耐えられるとは思えない。もし仮に二人を殺してしまったとしても、怪異の本体を始末するわけではないのだから、根本的な解決にはならないだろう。


 繰り返し狛を狙う怪異は、爪で狛を突き刺す事を諦め勢いよくその身を伸ばし、狛の身体に巻き付いた。首、胸、足…それは全身に絡みつき、狛の身体から自由を奪う。


「か、はっ…!!」


 それは狛を絞め殺そうというよりも、強大な圧力で圧殺しようという強さの攻撃である。このままでは狛の首や身体が千切れ飛ぶだろう、猫田の瞳に殺意が浮かびその爪を光らせたその時、まだ自由だった狛の右手にあの着物が飛んできて、そっと触れた。


(な、なに…?誰かが、呼んでる?)


 狛が薄れゆく意識の中で狛が聞いた呼び声は、とても綺麗で、澄み切った女性の声だった。気付けば、狛の身体は揺蕩う波間のような中にいて、適度な浮遊感に包まれていた。目の前には美しい後ろ姿の女性が立っていて、傘を差し、花びらを受けている。


「…やっと届いたね。私の声を聞いてくれる人を、ずっと待っていたんだよ」


「貴女は、誰なの?私に、何をして欲しいの?」


「私の持ち主になって欲しい。私はずっと人の役に立ちたかった…その為に生まれた存在だから。でも、私を受け入れてくれる人は誰もいなかった。誰もが私の声を聞けず、私に触れてはいなくなる。ずっとずっと、それの繰り返し…それでも私は待ち続けて、今ようやく貴女に会えたんだ。だから、私は貴女を助ける、例え受け入れてくれなくてもいい。でも、もし私を受け入れてくれるなら…」


 後ろを向いたままの女性が、ゆっくりと振り返る。それは優しさに満ちた、美しい華のような笑顔を湛えた女性であった。


 バツン!と激しい音がして、狛の身体を締め上げていた怪異は小間切れに千切れ落ちた。同時に、狛の身体をあの着物が形を変えて優しく包み、煌々と光を放っている。


「イツ!お願い!」


 狛が叫ぶと、待ってましたと言わんばかりに、その影からイツが飛び出し、狛の身体に飛び込んだ。そして現れる頭上に輝く狼の耳と煌めく尻尾、そして同じように見返り美人図の着物が煌いていた。


「凄い…今までよりもっとずっと、力が漲ってくる…!」


 狛の呟きに、より一層の光と共に、着物の背に描かれた女性の絵が優しく微笑んでいた。それは、狛の溢れる霊力を吸収し、逆に狛の力を大きく高めているようだ。先程とは大きく形の変わった着物は、学生服の上から着込んでいるはずなのに、まったく重さを感じる事もなく、動きの邪魔になることもない。迸る霊力が帯の形になって、着物を支えている。

 新たな力を得た狛は、その足で猫田を襲う樫尾の怪異を蹴散らすと、異界化した野上邸を飛び出した。かつて、猫田と初めて出会った時に彼が言っていた「犬神宗吾の鼻は凄かった」という言葉の意味が、今ならばはっきりと理解できる。野上邸を覆う妖気のニオイが、狛には手に取るように解るのだ。


「外…じゃない、あれだ!」


 狛の視線の先、野上家の庭には、異様な気配を放つ大きな土蔵があった。狛の存在に気付いたのか、蔵には禍々しい殺気と共に巨大な瞳が浮かび、いくつもの触手状の怪異を生みだしている。それはまるで、天守閣に潜んだという伝説の妖怪・刑部姫を彷彿とさせる異形だ。


「大丈夫、今なら…!」


 狛は輝く尾をたなびかせながら、蔵に向けて走り出す。目にも留まらぬ速さで駆け寄る狛に対し、怪異そのものと化した蔵は人の身体ほどもある岩を投げつけ、同時に触手状の怪異を向かわせた。しかし、そのどちらも、狛の歩みをほんの刹那さえも止める事は出来なかった。岩は尾で粉々に砕かれて、触手は瞬きするよりも早くその爪で微塵に切り裂かれていく。


「グアアアアアアアアアア!!!」


 怪異が怒りに満ちた咆哮を上げても、狛は全く怯む様子すらない。さらに無数の触手が狛を憑り殺そうと襲い掛かるが、それは何の障害にもならず、ひたすらに切り刻まれていくだけだ。


「これで…っ!!」


 怪異となった蔵に迫った狛は、大きく跳び上がり、扉の上に浮かぶ巨大な瞳にその爪を突き立てた。そして、渾身の霊力を流し込んで怪異を討ち祓う。


「アアアアアアアアアッッ!」


 断末魔の叫びが上がり、暗く闇に包まれていた空が裂けていく。異界化した野上邸に太陽の光が降り注ぐと、後にはボロボロになってしまった蔵と、小さな妖怪が残されていた。



「しっかし、今時、蔵ぼっこがいる家があるとはなぁ…一目連の欠片を収蔵したせいで混ざり合って暴走するとは、とんでもねぇこともあるもんだ」


 すっかり陽も落ちた野上邸からの帰り道、バスを待つ猫田と狛は、ベンチに座って話をしている。


 猫田の言う通り、今回の事件は偶然が重なって起こったことであったらしい。蔵ぼっこというのは、その名の通り蔵に住む妖怪であり、本来は人に危害を加える妖ではない。むしろ、その性質は座敷童に近いもので、家に富や幸運を与えてくれる存在だ。不運だったのは、そこに長い間溜め込まれた力があったことだろう。


 また一目連とは、古くから日本に存在する鍛冶の神であり、天候を操る暴神としての側面を持つ。どうやら最近、野上が素性の解らぬ物品を仕入れた際に混じっていたのが、一目連を祀る神器の欠片であったようだ。

 神は正しく祀られなければ、その力を暴走させることがある。今回のケースは、力の暴走に蔵ぼっこが巻き込まれ取り込まれて、蔵の中に眠っていた古物の念を吸収して魑魅と化してしまったのだ。骨董などの古物には、人の想いや念を集めているものもある、それらが悪い方向に偏ってしまったが故の事件だった。


「でも、この子に会えたのは良かったかな。何だかちょっと、運命みたいな感じがするよ」


 狛はそう言うと、愛おしそうに、たとう紙に包まれた着物を抱き締めた。


 結局の所、玄庵の作った見返り美人図の着物は、呪われていたわけではなく、付喪神であったらしい。器物は100年経てば妖怪になると言われるが、この見返り美人図の着物は、かなり早い段階で付喪神になっていたという。袖を通した人間が死ぬというのは、着物に霊力を吸収された事による衰弱が原因であり、直接憑り殺したわけではなかったのだ。

 むしろ今回、蔵そのものが怪異として変容していく事を知った着物が、野上に無意識下で働きかけた事から狛達を呼ぶことへと繋がったと言える。


 目を覚まし、それらの経緯を知った野上は、狛に謝りながら着物を譲ってくれることになった。元々が女性物の着物であるし、それを扱いこなせる人間がいないのだから、当然と言えば当然である。


 狛が狗神走狗の術を使い、人狼化した際、最も問題なのは溢れる大量の霊力を垂れ流しにしてしまう点にある。狛は元々、莫大な霊力と霊気の量を誇る素質こそあるものの、そのコントロールは未だ完全とは言えない力量だ。それをこの着物が補ってくれるのだから、狛にとっては良い事尽くめだろう。

 着物の方からしても、霊力の補充がなければ付喪神としての存在を保てないが、狛の余剰霊力を吸収する事で、その問題は一発で改善できる。両者にとってまさにWin-Winの関係である。


 なんにせよ、大変なこともあったが、狛にとっては実りの多い一日であった。これで今までよりもずっと、安定して任務に向かう事ができるはずだ。まだまだ半人前扱いではあるが、未来に向けて大きな希望が見えてきたと、狛は歓び、笑顔をこぼしている。


「でも、なんか名前が欲しいよね。見返り美人じゃあんまりだし…うーん付喪神だから、ツクちゃんとかどうかな?」


「お前がそれでいいならいいけどよ…どうせならそいつに聞いてみりゃいいじゃねーか」


 猫田に言われ、狛はたとう紙を少しだけ剥がして中の着物を見てみた。あれほど美人だった女性の顔は、般若の様相を呈していて、とても満足しているとは言い難いと訴えているようであった。

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