「呪いの、着物…」
思わず呟いて、狛はごくりと息を呑んだ。言われてみればどことなく不思議な気配を感じさせる着物ではある。そもそも300年もの昔に作られた着物が、一つの虫食いも無ければ色落ちはおろか、刺繡の綻びさえもなく残っているなどあり得ない。これが尋常の品物ではない事は明らかだ。
猫田もしばらく黙って着物を見つめた後、小さな声で「…なるほどな」と呟いていた。ただ、そこに描かれている美人図は皆がよく知る浮世絵風の物とは違い、かなり現代的なイラストである。これが呪われている物品だと言われても、にわかには信じ難いものがあった。
「なんというか、大昔に作られたにしてはその…すごく今風というか、漫画みたいな女性の絵ですよね…」
「そうなんですよ。玄庵は当時とはかけ離れた現代的なセンスを持っていたようで、これが江戸時代に描かれたとは皆なかなか信じられないものでしてな。質の悪い贋作として、処分されたものもあったようです、実に惜しい」
確かに、事情を知らなければ、これが300年近く前に作られたものだとは誰も思わないだろう。アニメなどの専門店に飾られてあっても違和感がない、そんな絵柄である。それでも確かに、狛の霊感に引っ掛かるものがあるのは間違いない。一方、猫田の方はある程度見立てが済んでいるようで、狛がどういう判断を下すのかを見極めようとしているようだった。
「そう言えば、持ち主が次々と亡くなると言ってましたけど、これはいつ頃手に入れたものなんですか?」
「私がこれを手にしたのは今から40年ほど前になります。…正確に言いますと、これに
「12人…」
確かに300年の間で12人の人手に渡ったというのは、多い数のように聞こえる。しかも、それは解っているだけでだ。野上の口振りから察するに、実際はもっと多い可能性もあるのだろう。狛はその着物を見つめながら、どうしても拭いきれない違和感を覚えていた。
(これ、本当に呪われているのかな?何か違う気がするんだけど…うーん)
狛はとても迷っていた。目の前の着物から感じられるのは、呪物としての威迫ではなく、怪異のそれに近いものだ。かといって、実際に何かの脅威を与えてやろうという悪意のようなものはまるで感じられない。どちらかと言えば、狛に対して何かを訴えかけてくるような、切実な想いのようなものすら感じられる。だが、肝心のそれはとてもか細くて狛には感じ取る事ができそうにない。
しばらく考えて、狛は意を決したように顔を上げ、野上に訴えた。
「この着物に何かがあるのは間違いないと思います。ただ、このままではまだよく解りませんので…触ってみてもいいですか?」
「なんと…!?いや、触るだけなら問題ないでしょうが、しかし…」
突然の申し出に、野上は驚いて声を詰まらせた。なにしろ袖を通した人間が死ぬという着物だ、他人に触れさせるのも抵抗があるのは解る。だが、人の手に渡り続けてきたと言う事は、触れる事くらいなら問題はないはずだ。そうでなければ、移動させることすらままならないのだから。
狛はじっと野上の目を見据えて答えを待った。そもそも、これだけの長い間、この着物を持っていたはずの彼が何故今になってその曰くを調べようと思ったのか、それも疑問だった。少なくとも野上の手に渡ってからの40年間は、この着物は誰も死なせていないのだろう、だからこそ、彼は
狛の無言の圧力に気圧されるように、野上は押し黙り、冷や汗を垂らしている。するとその時、応接間の扉が開き、そこには目を異様なほど血走らせた、樫尾颯が立っていた。
「…樫尾さん?」
「狛、あぶねぇっ!」
突然の乱入者に誰もが気を取られる中、猫田だけは冷静に状況を見極め、狛と野上を咄嗟に押し倒す。その動きとほぼ同時に、樫尾の口から、三本の鋭い爪を持ったとても長い腕のようなものが飛び出し、狛達の立っていた場所を切り裂いていた。
「ね、猫田さんありがと…!でも、あれって」
「
「ああ、ああ!颯…!なんということだ…すまない、私があんなものを持ち込んだばかりに…!」
口から怪異を吐き出したまま、樫尾はゆっくりと近づいてくる。両手をだらりと下げて、たどたどしく歩く姿は、とても人の意思など感じられない。それでいて背筋は支柱が刺さったようにピンとしている、まさに異様な姿であった。
「ちっ!」
猫田は二人を部屋の隅に移動させると、真正面からその怪異に立ち向かっていった。怪異はあちこちに目玉が露出し、それらは一斉に猫田の姿を捉えると鞭のようにしならせ、風を切る鋭い音を立てて、怪異の爪が猫田を切り裂こうと襲い掛かる。
「ナメるなよ!」
猫田はその不規則な軌道を読み、素早く身を躱しつつ、逆にその手に生やした強靭な爪で伸びきった怪異を切り落とした。切り落とされた怪異はしばらくびちびちと跳ねていたが、やがて霧散して消えていく。ところが、樫尾の身体が解放される事はなく、切断された部分から、瞬く間に再生が始まっていた。
「コイツ…!?本体はどこにあるんだ?」
猫田は既にこの怪異について、ある程度の予測が立ててあったらしく、樫尾の身体に巣食っているのが怪異の本体ではないと見抜いているようだった。しかし、肝心のその本体がどこに潜んでいるのかまでは解らない。そうこうしている内に、怪異は再生し、今度は二本に枝分かれして猫田を襲い始めた。
「あの妖怪、本体じゃないんだ。でも、じゃあ本体はどこに…?」
狛は野上を庇いつつ、猫田の戦う様子を観察していた。かなりのスピードで繰り広げられている戦いだが、狛はしっかりとそれを目で追い、全てを視認している。壁や襖、天井には怪異の猛攻の余波で次々と傷が増えていく。猫田が反撃をしても怪異は増えていくばかりで、この短い間に、怪異の数は五本以上に増えてしまっていた。
「このままじゃ猫田さんが…!野上さん、何があったのか話してください!」
狭い空間で、敵の攻撃だけが苛烈になっていく状況では、いずれ猫田も躱しきれなくなる時が来る。現に枝分かれした後増殖したのは、猫田がどうしても躱しきれなかったものに反撃をした為だ。それが解っているから、猫田は先程からずっと防戦一方に追い詰められているのである。
しかし、肝心の野上は俯いてブツブツと何事かを呟いているだけになってしまっていた。一種の恐慌状態なのだろう、普通の人間であれば身内が化け物となり、襲い掛かってくるのを見ればパニックになるのも無理はない。困り果てながら、狛はとある瞬間を垣間見た。
(着物が…再生した?!)
それは、怪異の一撃があの着物の裾に当り、切り裂かれた瞬間だった。鋭く切られたはずの裾が、一瞬にして傷一つない状態に戻ったのだ。
「あの着物、やっぱり何かあるんだ」
狛が咄嗟に立ち上がり、着物に手を伸ばそうとしたその時、それまで俯いていた野上がガバっと顔を上げ、狛の手を掴んだ。その顔には異常なほどに血管が浮かび、白く濁った瞳には黒目が全くない。彼もまた、何かに憑りつかれていた。
「行ッテは、イケなイ…ソうダ、オマエモココデ、死ネ!」
「の、野上さんっ!?」
野上の豹変に、狛はたじろいだ。どうして気付けなかったのだろう?最初から、彼らが何者かに操られていたのだと。男性とはいえ、老人とは思えない腕力で、狛の腕は抑えつけられている。ギリギリと万力のように締め付けられる腕は痛みを叫んでいるが、それを気にしている余裕は無かった。
何故なら、ガパッと開いた野上の口から、樫尾のものと同じ怪異がゆっくりと伸びてきたからだ。いつの間にか、窓の外に見えていた庭は血と錆びに塗れた異界と化している。
狛と猫田は初めから、恐るべき怪異の巣におびき寄せられていたのだった。