翌日、狛は猫田を連れ、指定された住所に向かっていた。
相手方が指定した時間は午後で、少し時間に余裕があった為、先に病院へ行き佐那へのお見舞いを済ませてきた。土曜日だけあって街に人は多かったが、午後ともなるとだいぶ人通りは減った。天気も良いし、行楽やレジャーに遠出する人が多いのだろう。市内を移動するにはちょうどよく、時間には余裕を持って着けそうである。
「なんだ、緊張してんのか?心配すんな、俺がついてる」
「猫田さん…うん、ありがと」
二人でバスを待っている間、強張った表情の狛に、猫田は笑顔を向けた。実際の所、猫田が居てくれるのは助かるのだが、今回の仕事に役立つかは不明である。
渡された資料をよく読み、詳しい話を聞いてみれば、やはり物品の鑑定が主体のようだ。鑑定と言っても価値を図るものではなく、何か良くないモノが憑いていないかを調べるのが仕事なのだが、退魔士としてはまだ仮の立場である狛にとって、正式に任される仕事はこれが初めてなので不安も大きい。
それに加えて、拍が言っていたように、今回の仕事には調査部が関わっていない事も狛の緊張に拍車をかけていた。
通常、犬神家の裏稼業に関しては、調査部の事前調査が必ず入ってくる。これは担当する人間の負担を減らし、仕事を円滑に進める為に不可欠なものだ。それがないと言う事は、狛がこの仕事に対して、全ての責任を負わねばならないということでもある。鑑定の結果、何かが憑いているのに何もないなどと言う訳にはいかない。プロとして、見落としなど絶対に許されないのだ。
そういう意味では、狛の初仕事としては荷が重いものだが、狛の心の内に緊張はあっても、逃避は一切なかった。退魔士としての独り立ちは彼女の夢であり、目標でもあったからだ。
それでも、何故あえて調査部を介さない仕事に着手したのかという問いには、拍はうまく返事を濁していた。ただ、槐を疑っているとしても、いつまでも証拠や根拠もなく疑い続けられるわけではないだろう。拍には何か考えがあるのだと、狛は兄を信頼する他なかった。
目指す依頼人の自宅は、市内でも有数の高級住宅地の中にある。バスで近くまで移動した後、徒歩で向かう事になるだろう。
依頼人の名前は、
野上は若い頃から、古い時代の物に惹かれる性質であったらしい。彼は若くして財を成したが、それでも貧乏な時代もあった。そんな時でさえ、骨董の為なら借金をしてでも買い集める癖があったのだそうだ。
故人だが狛の祖父、
また現在の生活については、その樫尾が手伝っているという。
「おじいちゃん、か」
狛の祖父や祖母は、狛が生まれる前に亡くなっているので、狛は写真でしか彼らを知らない。もっとも、その代わりにハル爺やナツ婆が幼い頃から面倒を看てくれているし、他にも一族の老人達は生きていて、狛を気に掛けてくれているので寂しいと思った事もないのだが。
ただ、ハル爺やナツ婆達とはまた違う視点で祖父の話が聞けるかもしれないと言う事に、狛は少し期待していた。
目的のバス停に到着したので、二人分の料金を払ってバスを降りる。ここは住宅街の入口なのでここから野上邸までは徒歩だ。20分も歩けば着くだろう。そう思っていると、不意に近づいてきた男性に声をかけられた。見た所、拍よりも少し年上だろうか?短い黒髪と爽やかな笑顔が特徴的だ。
「失礼、犬神狛さんと、そのお連れ様で間違いないですか?」
「え?ええ、そうですけど…貴方は?」
「私、野上敏明の身内で、
樫尾は慣れた手つきで、傍に停めてあった車のドアを開けた。黒塗りのいかにもな高級車で、狛は一瞬たじろぎながらも礼を言って車に乗り込むと、猫田もその後に続いた。
「わざわざ御爺さんの我儘を聞いて頂いてすみません。…まさか、こんなお嬢さんがお見えになるとは思っていませんでした」
「あ、あはは…すみません、こんな子供で」
「いえいえ、僕はそういう方面に疎いものですから、きっと年齢では判別できない何かがあるのでしょう。その若さで任されるというのは大したものですよ」
樫尾は車を走らせながら、笑顔を崩さずに話を続けている。元が気弱な狛はどう反応していいのか解らず、委縮しっぱなしである。
(コイツは人慣れさせる訓練の方が先じゃねーのか?…しかし、この男も中々腹の中は黒そうだな)
そのやり取りを横で見ていた猫田は、少し呆れていた。狛は気付いていないようだが、樫尾という男は言外にたっぷりと皮肉を含んだ言い方をしている。彼は霊的な存在など欠片も信じていないのだろう。狛の若さも含めて、そういう侮りが感じられる口振りだ。
対する狛はまだ若いとはいえ、こういう対応に慣れておくのも大事である。特に霊的な問題というのは心理面での負荷が大きいものだ。依頼人に気後れして言いたい事が言えないとか、逆に情けない態度を取って不安にさせてしまっては意味がない。その辺りも、ハル爺に伝えておくべきだろう。
実際の所、今回拍が猫田に頼んだのは単なる護衛役としてだけではなかった。狛の仕事振りを間近で観察し、問題点などを教えて欲しいとも言われている。それらは本来、拍や他の犬神家の人間達がやるべき事だが、如何せん狛に対しては皆どこか甘い所があり、彼女自身もそこに甘えているフシがある。そういう意味では猫田は適任であった。
住宅街をゆっくりと走った車は10分弱で野上邸に到着した。自動で開く大きな門を抜けてそのまま数分ほど走ると、ようやく屋敷が見えてきた。かなり大きな邸宅だ。
「うわー…大きい」
「お前の家も大概だが、こっちは桁が違うな」
車から降りて改めて見ると、野上家の屋敷は相当な大きさであった。とはいえ、猫田が言うように一般的な家屋敷としては、犬神家もかなり大きく広い方だ。所有する土地も含めれば明らかに犬神家の方が大きいのだが、この建物だけで言えば、野上家はそれを上回る豪邸と言える。
「おお、ようこそおいで下さいました。野上と申します。いや、拍君から妹さんを遣わされると聞いていましたが、こんなに可憐なお嬢さんだったとは。颯が何か粗相をしませんでしたかな?」
「あ、初めまして!犬神狛です。こちらは…えっと助手の猫田です。粗相だなんてそんな…わ、
「お前、ちっとは落ち着けよ…」
緊張の余り、私という言葉さえ噛んでしまう狛の隣で、猫田は溜息を吐いている。そんな二人を微笑ましそうに見つめながら、野上は笑って二人を屋敷の中へ案内するのだった。
「あの、それで私に鑑定して欲しいものというのは…?」
野上に連れられた応接間で、ひとしきり談笑を交えた後、狛は自分から仕事の話を切り出す事にした。野上は歳のせいか話が少し長く、このまま放っておくとあっという間に陽が落ちてしまいそうだ。
「おお、そうですな。いやはや、貴女と話していると貴女のお祖母さんを思い出してつい長話をしてしまいますよ。お祖父さんの阿形さんと仲が良くてね、生憎、私は独り身でしたが貴女のお祖父さんとお祖母さんを見ている時だけは、結婚もいいものだなと思ったものです」
しみじみと語る野上の顔は、昔を思い出しているようでとても優しげだ。狛は祖父母を知らないが、こんなに人に想われると言う事はやはり、悪い人間ではなかったのだろう。狛はどこか祖父母が誇らしく思えて嬉しかった。
やや間があった後、野上はおもむろに立ち上がり応接間の隣の襖を開いた。そこには、とても見事な着物が衣文掛けにかけられている。その着物は全体がやや暗い紅色に染められていて、何かの植物と共に美しい女性の姿が描かれている。
「ほう、友禅か。大したもんだな」
「ゆうぜん?」
猫田の発した言葉が理解できず、狛はただただ復唱している。かたや野上は、どうみても着物とは縁遠そうな猫田がピシャリと言い当てた事に驚いた様子をみせていた。
「猫田さん、何のこと?」
「友禅ってのはな、着物の染色に使う技法のことさ。しかも、こいつは大島紬で手描きときた。職人によっちゃ結構な値打ちもんだぞ」
「おお、お若いのに着物にお詳しいようですな?」
「ん…まぁ、門前の小僧ってヤツでね」
猫田は言葉を濁しているが、それは過去に呉服問屋で飼われていた時代があった為である。文字通り門前の小僧を地で行くように、店の人間達が着物について話していたのを聞き学んでいたのだ。
「しかし、こいつは京友禅のようだが、江戸友禅のようでもあるし…一体、どこの職人だ?」
「大した目利きですなぁ。これはかつて江戸時代の中頃に、
「え、江戸時代!?そんな昔の着物なんですか?じゃあ、鑑定して欲しい物って…」
「ええ、実は、この着物は曰く付きでしてな。持ち主が次々と死んでいくという呪われた着物なのですよ…」
そう言って野上が着物に触れた時、描かれていた女性の瞳が動いた事には、誰も気付いていないようであった。