夜の闇に紛れて、いくつもの奇妙な息遣いが聞こえてくる。
夏が終わり、秋の始まりであるこの時期は、自然の多い場所ならば、夜ともなればたくさんの生き物の声が響いているはずだ。だが、美しい鳴き声を奏でる虫も、歌うように鳴く蛙達の合唱も今夜は一切合切聞こえてこない。何か昂るものを抑え込むような、生温かさえ感じる吐息だけが、屋敷に向かって近づいているようだった。
そのまま強い圧を含んだ悪意と殺気が辺りを押し包み、闇に紛れて無数の妖怪達が一斉に屋敷を囲むと、そこへ真っ先に攻撃を仕掛けたのはハル爺であった。
「ぬはははっ!行くぞぉ!
両手に提げた大斧を振りかざし、小柄な体を上手く使い、八艘跳びのように軽やかな体捌きで妖怪達の群れに飛び込んでは斬りつけていく。先制攻撃を受けた妖怪達は一瞬怯んでみせたものの、誰からともかく奇怪な雄叫びを上げ、ハル爺だけでなくナツ婆や拍達に向かって次々に襲いかかってきた。
「ふん!徒党を組んで向かってくるなんぞ、洒落臭い妖怪共が。そんなもんで儂らに勝てると思うとるのか」
妖怪達を前に仁王立ちするナツ婆は、吐き捨てるように言い放つと、手にしていた錫杖を地面に突き刺し、両手で九字を切る。
「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前!…失せろ!」
ナツ婆が一喝すると、錫杖から溢れんばかりの霊力が大きな団扇状に形を成し、近づく妖怪達を薙ぎ倒しては押し潰す。地面には、潰された妖怪達の骸の跡がどんどん量産されていく。これが、若い頃から退魔士として働く二人の十八番であった。
「
一方、戦況を冷静に見ていた拍が号令を掛けると、虎やライオンよりも大型化した狗神の3体が疾風の如き速さで屋敷の裏へ駆け出して、侵入しようと試みる妖怪達をその牙と爪で引き裂いていった。裏手には他の家人達が守りに入っており、そちらの方が手薄だと拍は判断したらしい。残った1体、
その勢いで、百を優に超える妖怪達は、あっという間に蹴散らされ、蹂躙されていった。これが千年以上のもの間、妖怪退治を繰り返してきた犬神家の恐るべき実力である。
「ふぉっふぉ!拍様と肩を並べての戦いなどいつ振りじゃろうか、老骨の血が滾るわい!」
「ふっ…戦に出ているハル爺の血は、俺が居ようと居まいと滾りっぱなしだろう。それよりナツ婆、疲れは無いか?昼間も一仕事してきたばかりだろう、もういい歳だ、下がっていてもいいぞ」
「はっ!長とはいえ、小僧に気遣われるような歳の取り方なぞしとらんわ。下らん事言っとると承知せんぞ」
そんな軽口を叩きながら、先頭に立って戦う拍達三人に気負いはないようだ。この辺りが経験の差、或いは狛の弱さなのだろう。狛は戦いが始まってからずっと、子ども達を抱き締めて庇いつつ、やや俯いて冷や汗を垂らしている。それを隣で見ていた猫田だったが、最悪の場合は自分が飛び出して戦う事も頭の中で計算していた。
(考えてみりゃ、こいつはまだ半人前だったか…一人前になる為の試練とやらを受けに行ったのがアレだったんだったな。しょうがねぇ、万が一の時は泥をかぶってやるか)
猫田にしてみれば、この場にいる全員が旧友たる宗吾の子孫である。狛や拍は言うに及ばず、遊んでやった子ども達も、ハル爺やナツ婆さえも、長い時を生きてきた彼にはさほどの違いもないのだ。あの槐という男もいけ好かない所はあるが、宗吾の身内であるならば我慢は出来る。それほどに、猫田にとって宗吾は大きい存在なのであった。
屋敷の中で待つ狛の頭を、猫田は静かに撫でている。
「安心しろ、いざとなりゃ俺が出てやる。そこらの雑魚が群れた程度なら、どうにでもしてやるさ」
「ほう、大した自信だな?さすが稀代の天才、犬神宗吾の部下だった男か。その腕前、拝見させて貰いたいもんだな」
いつの間に戻ってきたのか、槐が横から口を出してきた。相変わらず人を食ったような笑みを浮かべ、殺気を振りまいている。まるで、外の妖怪達よりも猫田と戦うつもりでいるような、そんな雰囲気だ。子ども達は敏感にそれを感じ取り、皆で狛の身体に引っ付いて、槐を睨みつけていた。
「てめぇ、外はいいのか?守りを任されてるんじゃなかったのか」
「ふん、俺の仕事はある程度済んでいる。俺の防御結界は一族でも指折りの堅牢さを誇るんでな。拍やハル爺達がよほどヘマをしない限り、
癪虫とは、虫のような姿をした妖怪の一種だ。かなり小型で、米粒のように小さい妖怪である。アリの這い出る隙間もないとはよく聞く言い回しだが、癪虫も通さないとは妖怪相手なら言い得て妙かもしれない。
猫田は槐という男の自信っぷりに少しだけ感心しつつ、敢えて彼が自分達の前に現れた理由を考えていた。
「それで?なんか用なのか?本気でやり合いたいってのなら、構わねーぞ?」
「ハハハ!さっきも言ったが、俺は妖怪とは戦うより仲良くしたい方なんでな。今のところはアンタと戦うつもりはないさ」
「今のところは…ね」
どうにも裏のある言い回しが本当に気に入らない。どちらかというと、槐は猫田の方から喧嘩を売りたくなるタイプの相手だった。
イラつきを隠せない猫田には目もくれず、槐はいつの間にか狛の前に立つとその顎をグイっと引き、無理矢理己に視線を向けさせた。
「あの試練で何が起きたのか、報告は俺も目を通した。佐那が一撃でやられた相手は手長という鬼で、それを後押しする影法師まで現れたそうだな?それを、この猫又が全て倒したと。狛…本当にそうなのか?お前、
「えっ!?」
突然の槐の指摘に、それまで視線を逸らしていた狛は思わず槐の目を見た。嘘を見抜かれたせいか、狛の瞳には僅かに怯えの色が浮かび、動揺の程が窺える。見かねて猫田が割って入ろうとしたその時、庭でアスラが一際大きく遠吠えを始めた。
「…ふん、大物がおいでなすったか。仕方ない、続きはまた後でな」
古来より、犬の遠吠えには魔を退ける力があるとされた。退魔士のパートナーとして育てられ訓練されたアスラの場合、それは普通の犬とは違って真に効果を発揮するものである。そして、アスラがそれを発したと言う事は、危険な相手の接近を知らせるものでもあるようだ。
槐もその辺は弁えているらしく、すかさず話を切り上げて屋根の上へ飛び去っていった。一方、その後を追おうとした猫田は庭先から見える近くの山の稜線に影を見た。山間からゆっくりと覗くその影は不気味なシルエットをしていて、妖怪に詳しいものならそれが何なのかすぐに気付けるだろう。
「あれは、がしゃどくろか!?」
「がしゃどくろって…そんなの、この辺りにいるはずが…」
がしゃどくろ…それは埋葬されずに迷い出た死者達の怨念や無念が集まって生まれる妖怪である。日本の妖怪達の中では、比較的近代に生まれた存在と言われるが、そのインパクトと巨大さから強力な妖怪の一種とされているものだ。
ただ、この辺り一帯は犬神家が所有し管理する土地であり、そんな場所に埋葬されていない骸などそうあるものではない。自殺者が迷い込む事はあると言っても、たかが知れている。そもそも、その程度の数で発生するような怪異ではないのだ。
(滅多に群れねぇ妖怪達が群れを成してきたことといい、こんなとこにいるはずもねぇ、がしゃどくろまで出張ってきた事といい…もしかして、この間の影法師みてーに召喚されてるのか?…だとしたら、裏で手を引いてるのは人間の術者、か?)
猫田はそう思いついて、夜空に浮かびあがる骸の影を見やる。目玉も何もないはずの髑髏の眼孔が、怪しく輝いてみえた。