すっかりと日も暮れて、まだ少し温い夜風が日中の暑さを和らげ始める頃、犬神家では、12人ほどが集まって食卓を囲み、小規模な宴が開かれていた。
名目は、狛の退院祝いと、客人…即ち猫田への歓迎である。小さな子どもが4人ほどと、後は大人ばかりだが、酒を飲んでいる者はあまりいない。
犬神家本家は、首都圏に位置する県の山間にある、俗に言うポツンと一軒家である。というのも、周辺の土地は山毎買い占められていて、他の家々や集落が入る余地が無い為だ。これは過去、狗神使い達が狗神筋と呼ばれ、忌避されていたことに由来する。
一般的に知られている呪法としての狗神は、まさに呪法であり、人々の嫌悪の対象であった。また、狗神自体が家筋に憑くものであるから、それを利用するもの達以外には疎まれ、蔑まれるものだった。宗吾の妹、ヤエが嫁ぎ先でいびられていたというのも、それに端を発するものである。ただ、犬神家は、それを祖先の罪として受け入れ、贖罪に多くの命を救うべく、一族が結束して生きてきた。それが故の孤独というわけだ。
とはいえ、開祖が陰陽師として京の守護役の一人であった事から、その筋の人間たちからは覚えが良く、外から優秀な血を貰う事は難しくなかったこともあって、現在も分家含めて七つもの家系を維持することが出来ている。ちなみに、本家邸宅には、交代で分家の1~2家族が泊まり込んでいて、今日が特別大所帯というわけではない。
どんちゃん騒ぎとまではいかないものの、普通の食事というよりは賑やかで実に楽しく、それでいて和やかなムードで、宴は進行していく。そんな中、猫田は目の前の光景に呆気にとられて、箸が止まっていた。
「うーーーん!美味しい~~~!!!」
その原因は、今まさに至福といった顔で食事に耽る狛である。すでに山盛りの丼飯にして10杯は平らげているというのに、全く食べるスピードが衰える気配がない。よく見れば狛の隣にだけ、一升は入りそうなおひつが三つ用意してあった。
まさかあれを全て一人で食べるつもりだろうか?というか、既にその内の一つは空になっている。うず高く積まれた大皿料理は、みるみるうちに減っていき、いよいよおかわりをよそうのが面倒臭くなったのか、狛はおひつから米を直接食べ始めている。
まさに唖然という言葉がピッタリな状況に、猫田はただただ見ているしか出来ずにいた。
「どうした?猫田殿。あまり箸が進んでおらんようだが…何か嫌いなものでもあったかの?」
「ああ、いや…コイツの食いっぷりにな…飯はウマいし、俺ぁ苦手なモノはないから大丈夫だ」
普通の猫と違い、猫田は妖怪であるので、食べて体に障るものなどほとんどない。強いて言うならば、猫田の好みは甘味なのだが、人間の好む塩辛い食事も嫌いなわけではなかった。体躯の大きい妖怪であれば、それこそ牛一頭だろうと一度に食べるものもいるし、さほど気にするものでもないが、人間の常識というものにある程度慣れているせいか猫田にとって狛の食べる量は異常以外の何物でもなかった。
「へ?私?」
もぐもぐと噛み締めながら、狛が会話に入ってきた。猫田の視線にようやく気付いたようだが、食べる手は止まらないようだ。
「うぅ~…だって、病院のご飯少なかったんだもん…地獄だったよ~…!」
「ほっほっほ、狛は昔から人一倍…いや、人十倍以上に食うからのう。儂らにとっては慣れたもんじゃが、やはり初めて見る者には刺激が強いか」
からからと笑いながら、ハル爺は茶を啜っている。狛も普段からこれだけ食べるのであれば、確かに病院食など腹の足しにもならないだろう。その割には、さっきまでもずいぶんと肌の色つやが良く、とても飢えていたようには見えなかったが。
「私、こう見えても食い溜め出来るタイプだからね!」
猫田の疑問を察したように、狛がおひつを片手に胸を張る。つまり、栄養は足りていたが食欲が満たされていなかったということか。妙な特技を持っているな…と思いながら、猫田は甘いかぼちゃの煮物を口に運ぶのだった。
そんなささやかな宴が終わると、犬神家の人々は三々五々に居間から出て行った。いつの間にか、残っているのは狛と猫田の二人だけである。
「はぁー、食べた食べたー!幸せぇ…」
狛は大の字になって寝転がり、腰辺りにはアスラがくっついて丸くなっている。結局、あれからさらにもう一つおひつが追加されたが、その全てを狛はペロリと平らげてみせた。
合計すると4升以上の
「…マジで食い切りやがった。俺はお前が本当に人間なのか、自信がなくなってきたぜ」
さすがの猫田もこれには完全に引いた。その言葉に反応して、狛は焦ったように言い返す。
「ええ!?そんなぁ…あ!わ、私はほら、イツの分もあるから…!」
「それなら、お前の兄貴はお前よりもっと食わなきゃならんだろ…」
そう言われて、狛は何も言い返すことができずに不貞腐れてしまった。そもそも、イツは食糧など必要としていない。狛の霊力さえあれば、いくらでも生きていけるのだ。
いい加減な言い訳に呆れていると、先程出て行った子供たちが猫田の元に集まってきた。
「なんだ?何か用か?」
「…ねー、猫のおじさんって本当にネコなの?」
4人の内の一人、一番年上の少女が興味津々と言った顔で聞いてきた。他の3人は猫田がまだ怖いのか、互いの背に隠れながら、おっかなびっくりという雰囲気で猫田を見ている。
おそらく家族の誰かから聞いたのだろう、きっと子どもたちは猫の妖怪が珍しいに違いない。目の前の彼らが犬神家だから…ということではなく、単に猫又という妖怪の性質によるものだろう。
実際、猫田自身も、同類に出会ったことはほぼない。化け猫と違い、猫又という妖怪は知能が高い上、あまり人と敵対することも少ないから、当然、退魔士に狙われること事態も少ないのだ。彼らは大体の場合、普通の猫のフリをして生活しているものがほとんどである。元々、猫又になる猫そのものが少ないのだが。
「ああ、そうだぞ。…猫は嫌いか?」
「んー…ネコも好きだけど、犬の方が好きー。」
年長の少女がそう答えると、後ろの子どもたちもコクコクと頷いている。さすが犬神家、筋金入りの犬派が揃っているようだ。悪気のない答えに、猫田は内心苦笑しつつ、意地悪な笑みを浮かべると
「ほー…そうかそうか、なら、全員捕まえて猫好きにしてやろう!」
と言って、尻尾を伸ばし、逃げ惑う子どもたちを一人残らず捕まえてその場で持ち上げていく。そのままお手玉をするように、器用に尻尾でポンポンと投げてやると子どもたちは楽し気にきゃあきゃあと叫び声をあげて笑い合っていた。
「猫田さんて、子ども好きなんだねぇ」
その様子を見て、しみじみと呟きながら自然と狛も笑顔になっていた。そんな時、突如として、本家の敷地内に不穏な気配が漂い始めたことに気付く。
最初に気付いたのはアスラだった、ぐっすりと眠っているように見えて、しっかりと感覚は起きていたようで、耳を立てて様子を伺いながら小さく唸り声をあげている。その内、その場にいた狛や猫田だけではなく、さっきまではしゃいでいた子どもらも異様な気配を感じ取り、押し黙ってしまった。
強烈な冷気を放つ氷塊が目の前に現れたかのように体感する気温は下がり、張り詰めた空気が周囲を包み込んでいる。やがて、その気配は玄関から屋敷の中へと移動し、一直線に狛達のいる居間へ進むと、ガラっと勢いよく襖を開いた。
「よう、久しぶりだな、ガキども」
「え、
槐と呼ばれた男は、そこにいた全員の顔を品定めでもするように見比べると、猫田を見て底意地の悪そうな笑みを浮かべてみせた。
(コイツ…!)
その男と目が合った瞬間、猫田の全身が総毛立つ。
槐が着込んでいるダークトーンのアロハシャツには、毒々しいまでの赤黒い彼岸花が描かれ、露出している日焼けした浅黒い肌は、服の上からでも解る程に鍛えられた筋肉が主張している。また、護符などに使用される紋や梵字、方陣の図柄が、刺青として彫られているのがちらちらと見えている。
歳の頃は40代半ばと言った所だろう。だが、全身から流れ出る殺気のこもった霊力は、血気盛んな若者のそれを大きく上回るものであった。