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第6話 人狼覚醒

 振り下ろされた手長の腕は、轟音を響かせて狛達を潰してしまったかに思えた。しかし、狛は片手で振り下ろされたその腕を軽々と受け止めていた。


 その頭上には白銀に輝く狼の耳が、腰には大きく雄々しい尾が揺らめいている。その姿には猫田も、敵である影法師もが目を奪われた。


 まさか受け止められると思っていなかったのだろう。手長は一瞬たじろいだ様子をみせたものの、苛立つように怒声を上げ、今度は両手で乱打を仕掛けてきた。

 狛はそれを片手で受け止め、時には長く伸びる尾で捌き、一歩ずつ手長の身体に近づいていく。いつまでも狛を仕留められない事に対して動揺をみせつつ、焦った手長はさらに滅多矢鱈な攻撃に移ろうとした。

 だが、いかに長い手を持っていようとも、手長の手や腕は理屈や道理を捻じ曲げる事など出来はしない。狛に近寄られれば近寄られるほど、攻撃手段は狭められていくものだ。肘よりも近くに来られては正面から有効な打撃など打つことはできず、狛の左右からフックのようなパンチを繰り出すしかなくなっていた。


 手長にもっと知能があれば、或いは油断せず、狛の接近を許さなければもう少し結果は違っていただろう。手長がそれに気付いた時には既に遅く、狛のその手が届く至近距離まで近づかれていた。


 手長はその身体の性質上、単独ではその長い手を使って移動する鬼である。普通に歩いて行動することもできるが、手を使った方が早いし、その行動が染みついているのだ。

 猫田が口にしていたように、手長には足長という足だけが異常に長く、大きく発達した相棒というべき鬼がいる。彼らは二体一組で行動することで、一個の巨大な鬼となるのだが、ここには何故か足長がいない、それが手長の敗北を決定づける要因であったと言えるだろう。


 目前に迫った狛から距離を取るべく攻撃を一旦止め、その両手で床を押さえて身体を後ろへ移動させようとする手長だったが、その動きよりも、防御の必要が無くなった狛の行動の方が早かった。狛は右手に佐那を抱き抱えたまま、左手に猫田のものよりさらに鋭い爪を生やし、手長の頭から下半身までを一気に引き裂いたのだ。


 屍と化した手長の前で、荒い息を吐きながら、狛は佐那を抱えて立ち尽くす。正直に言って、これは猫田自身にとっても望外の結果であった。


 『狗神走狗いぬがみそうくの術』…かつて犬神宗吾が名付けたその術は、本来人に向ければ憑り殺してしまうだけの呪術である狗神そのものを、己の身体に招き入れ、強い霊力と同調させ自らの肉体の力を極限以上に引き出して強化する術だ。一口に言ってしまえば容易いように感じられるが、それには尋常ならざる霊力量と、それを操る才能が必要不可欠なものである。


 犬神家の長い歴史の中でも、それを術へと昇華させることが出来たのは、開祖以来の天才とされた宗吾のみである。しかも、彼は一族の中に眠る人狼という血に目覚めた稀有な存在でもあった。その彼をもってしても、狗神走狗の術を扱いこなせるようになったのは26歳の頃だと聞いている。

 それは肉体的にも霊的にも脂がのった、まさに才能のピークという状態でようやく成し得たものだったという。猫田は狛の歳など知らないが、見るからに宗吾より若い事は解っていた。それが犬神1体だけとはいえ、彼の天才と並ぶ偉業を成し遂げた。それは、宗吾と共に対妖の戦場を駆け抜けた猫田にとっても、その身が震えるほどに衝撃的な瞬間であった。


(すげぇ…!アイツ、人狼にも覚醒しやがった。人狼の犬神使い、か。あの面といい、犬神の旦那、アンタとそっくりだぜ)


 胸の中で、宗吾に向けてそう呟き、笑みを浮かべる猫田。かつて、共に命を懸けて戦った仲間達の思い出が蘇り、いつになく全身に力が漲っていく。


「おい、余所見してる場合かよ」


 その有り余る力で、瞬く間に群がる雑魚を蹴散らして影法師に肉迫する。影法師がそれに気付いた時には、たっぷりと霊力の込められた爪がその身を引き裂いていた。


「今度ぁ手応えあったぜ…!」


 影法師は、霊力や妖力によって生み出される術者の分身のようなものだ。実体がないので並の攻撃は通用しないが、強い霊力を込めた一撃は、術者へとフィードバックされる。

 恐らくどこかそう遠くない場所で、影法師を操っていた存在も同じ傷を負っていることだろう。引き裂かれた影法師はやがて霧散し、辺りは廃墟である元の病院へとその姿を取り戻した。


「さて、後はアイツか…」


 そう言って、猫田はゆっくりと狛の傍へ向かう。

 呼吸こそ落ち着いているものの、猫田に気付いていないのか、狛は微動だにせず、その場に立ったままだ。


(考えてみりゃ、今夜は満月…人狼として覚醒するにはちょうど良かったが、刺激が強すぎたか?)


 かつての仲間、犬神宗吾の話によると、犬神家の先祖は純血の人狼だったらしい。長い年月の間に人と交わり、その血は薄れていったが、宗吾だけはその血に目覚めた。所謂『先祖返り』というものだ。

 彼が【ささえ】隊に入ったのは、その力を御する為、その修練が目的だったと聞いている。明らかに経験不足であろう狛にそれをやらせるのは酷だと解ってはいたが、他に方法はなかった。


『狗神を自らの身体に憑依させ、霊力と同調させて大きく力を引き出す』


 宗吾が編み出したその技を、狛に教えたのは果たして正しかったのか…胸の内にわずかなわだかまりを残しつつも、猫田が狛の額に自らの額を重ねて、霊力を落ち着かせるように念を送れば、次第に輝く耳と尾が消え、身体からイツが離れて狛は元の姿に戻っていた。

 意識を失い、力が抜けて猫田にもたれ掛かる狛と、取り落されそうになった佐那を抱きとめ、猫田は独り言ちる。


「もう少し、面倒を看てやるしかねーか…」


 それを聞いたイツは、嬉しそうに猫田の頭に乗り、小さく吠える。


 そんな猫田の腕の中で、狛は夢を見ていた。それは、自分を産んだと同時に命を落としてしまった、まだ見ぬ母の夢だった。夢の中で、母は優しく微笑んで狛を抱きしめ、狛も力いっぱい抱き返す。


「お母、さん…」


 そう小さく呟く狛の頬に、一筋の涙が流れていた。


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