そうこうしているうちに二人は、廊下の奥で地下への階段を見つけた。脇の壁には階数表示があって、ほとんど文字化けしてしまっているが、かろうじて喫茶とだけ読める。
階段もかなり変異してしまっているが、崩れるような心配はなさそうだ。
「どうやら、この下にいるみてーだな。一本道だったし、間違いないだろ」
「でも、さっきあの腕は天井を突き破ってきたけど…上の階に隠れてるんじゃ?」
辺りを見回してみるが、階段は下りのものしかない。だが、万が一見落としがあったらと、狛は気が気ではない様子だ。
「いや、ここで合ってる…匂いが下に続いてるからな。ってか、匂いを辿るのはお前さんの方が得意じゃないのか?宗吾さんの鼻は、凄かったぞ」
「ええ…?そ、そう言われても…」
それでなくても、異界化している場所では腐臭が酷いので、狛には匂いなど解らない。それも当然だろう、狗神を使役するだけで、本人が犬になるわけではないのだから。
「…まぁ、いいか。行くぞ、足元に気をつけろよ?」
「あ、はい!」
慎重に階段を下りていくと、そのまま大きな空間に辿り着いた。元はおそらく食堂だったのだろう、地下は広い一室になっているようだ。懐中電灯で暗闇を照らすと、室内の中央に寝かされている佐那の姿が浮かび上がった。
「佐那姉!」
「おい、待て!」
経験不足故の甘さか、それとも佐那を見つけた安堵からか、猫田の制止を振り切り、狛は佐那の元へ一目散に駆け寄っていく。舌打ちしつつ、すぐさま猫田も後を追った。
「良かった…息がある!」
浅く呼吸する佐那を抱き抱え、喜ぶ狛。その隣で、猫田は周囲を警戒しながら呟いた。
「罠、じゃなかったか…手長の奴はどこへ行ったんだ?」
罠という言葉を聞き、ハッとして顔を青くする狛。
佐那を見つけた瞬間、他に何も考えられなくなって咄嗟に駆け出してしまった。もしこれが罠であれば、佐那を助けるどころか、自分だけでなく猫田も危険に晒すことになっていたし、なにより助けるべき佐那の命も危うかったのだ。若く経験に乏しいとはいえ許されないミスをしたと、狛は心から行動を恥じ、悔いた。
そんな俯く狛の頭を、猫田はくしゃくしゃと撫でてやる。まるで、兄が幼い頃に慰めてくれた時のように。狛は驚いて猫田を見上げるが、暗がりで猫田の表情は見えなかった。
(この人、本当に妖怪?まるで人間みたいだけど…宗吾お祖父さん、こんなことまで教えたのかな)
「のんびりはしてられねぇ、行くぞ」
訝しがる狛を気にせず、入ってきた階段の方に視線を向ける。すると背後から、パンパンと少しくぐもった拍手の音が鳴った。二人が振り向いてそちらを見ると、少し離れたそこに、黒衣の人物が立っていた。
狛は、言いようのない感情に襲われていた。それは恐怖というよりも、不安に近い感覚だ。
見てはいけないものを見ているような不快感と、まるで胸の中を別の生き物が這っているような気持ち悪さがない交ぜになって、冷や汗がどんどんと滴り落ちてくる。不思議なのは、すぐ隣に立つ猫田の顔すらよく見えない暗闇なのに、そいつがいるということだけは、はっきり認識できることだ。
「ずいぶんとかくれんぼが上手いじゃねーか?俺の鼻と耳を誤魔化すなんて、大したもんだ」
「…」
軽口を叩きながら、それに向き合う猫田。狛も佐那を抱きながら立ち上がると、先程の轍を踏まないよう、周囲を伺う。
一方、黒衣の人物は、無言でこちらを見据えている。男なのか女なのかもはっきりしない、人の形をしているようだが、人間かどうかも正直怪しい所だ。全身に黒衣を纏っているが、それがスーツなのか、軽装なのかも解らない。何かが理解を邪魔している、そんな印象だった。
しばらく睨み合いが続いた所で、黒衣の人物が左手の指を鳴らす。それと同時に、どういう理屈か室内が昼間のように明るく照らされた。
「眩しっ…!」
咄嗟に目をつぶる狛とは対照的に、猫田は一瞬の内に黒衣の人物へ襲い掛かっていた。
右手には何本もの鋭く太い爪が生え、その一撃は黒衣の人物を切り裂いたかに見えたが、次の瞬間、その姿は消え黒衣の人物はまた離れた場所に現れた。
「ちっ!影法師か!」
追撃を試みる猫田と狛が離れた隙を突いて、突如、床を割って手長の巨手が現れ、狛と佐那を叩き潰そうとする。
「ワォォォーン!!」
間髪入れずにイツが大きく叫ぶと、それを合図に狛は目を瞑ったまま大きく飛び退った。
先の失敗を反省し、集中して警戒を怠らなかったのが功を奏したと言っていい。空振りをした手長は、苛立つように地中から這い出し、狛の眼前にその姿を現した。
異常なほどに長く大きな手と、少し小柄な男性くらいの、アンバランスな身体。手長は、そんな異様な姿をした鬼だった。
そして危機は依然として続いている。狛の眩んだ目はまだ回復していない…未だ意識を失い、ぐったりとした佐那を抱えたままで、そう何度も攻撃を躱すのは至難の業だ。
狛のフォローに回ろうとした猫田の元へ、影法師が呼び出した小型の鬼や魑魅魍魎達が、次々を群れを成して飛び掛かってきた。
「召喚、だと…!?コイツ!」
やはり、ただの影法師ではない。
力の差でいえば、呼び出された化け物一体一体は物の数ではないとはいえ、こうも絶え間なく雑魚をけしかけられては、さすがの猫田も身動きが取れそうもなかった。
一方、立ち止まらずに走ることで、どうにか手長の猛攻を避けていた狛は、ついに隅へと追い込まれてしまっていた。
ドン、と背中が壁にぶつかり、いよいよ逃げ場がなくなったことに気付く。目は見えるようになってきたものの、息は切れ、佐那を抱え続けた腕は限界に近い。
(どうしよう…!どうしたら…?!)
狛を追い詰め、ニヤリと怖気が走る嗤いを浮かべる手長。万策尽きた獲物を恐怖でいたぶるように、ゆっくりと両手を組んで振りかぶると、渾身の力で今にもその手を振り下ろさんとする。
「も、もうダメっ…!」
佐那を抱く腕に力が入り、身を屈める狛の耳に、猫田の叫びが届いた。
「狛!イツをお前の身体に憑依させろ!一か八かだが、やるしかねぇっ!」
「えっ!イツを…!?」
代々、狗神は人間に憑りつけば、憑りついた者の精神を侵し、殺すものとされてきた。故に術者に憑依させるなど、考えたこともなかった。それで何が変わるのか、狛には想像もつかない。だが、猫田を信じ、それに縋るしか、今の狛に残された手段はなかった。
「イツ!お願い…っ!」
狛の祈るような叫びに呼応して、イツがその身体に飛び込むと、ドクン…!と大きく脈を打つ音が身体中に響く。
全身が心臓になったような、激しい鼓動だ。すると狛の頭の中に、見た事も無い光景が次々と流れ、消えていった。
(これは…何?イツの、記憶?)
浮かび上がる景色の中、一つの記憶が目に留まった。父と祖父、幼い子どもの姿をした兄が、病院の一室で一堂に会している。
そして、写真でしか見た事のなかった母の、優しい笑顔。ベッドの上でイツを肩に乗せ、大きくなったお腹をさすりながら、母は言った。
「この子は、きっと皆の希望になる…そんな気がするの。ねぇ、イツも感じるでしょう?この子の才能を。どうか…皆でこの子を支えてあげてね」
酸素マスクをつけた、力ない微笑み。涙を流して母に抱き着く兄の姿が、狛の心を大きく打った。