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オルガリア皇家の守護精霊
まさか
激しい水流にのみ込まれ、配下の魔獣ともども、あっという間に城外へと流されてしまった──とはいえ、皇太子サイラスが2頭の魔獣に噛みつかれたのは間違いない。
オルガリア皇国から逃亡して2年あまり。潜伏先を転々としながら改良を重ねた猛毒種だ。複数の毒が全身にまわり、サイラスは息絶えているはず。
その首を、なんとしてもジハーダ王国に持参したい。そうすれば、側妃の座は揺るぎないものとなるだろう。長年の夢が叶うのだ。
シモーネに味方するように、それまで侵入を阻んでいた水流の勢い衰えてきた。精霊が力を使い果たすのも時間の問題だと喜んだ矢先──
「うわぁ、醜いね」
この男が、空からやってきた。
開口一番に発せられた言葉に、怒りを覚えなかったわけではないが、
「そうね、たしかに美しくはないわ」
艶を失った髪を指で弄びながら、シモーネは黒衣の男を上から下へとゆっくり眺める。特級魔導士となり、自信に満ち溢れている男。
しかし、この金色の瞳から溢れる涙で顔をグシャグシャにして、あられもない姿をさらしながら懇願する姿をシモーネを知っていた。
「わたしの部屋で喘いでいた貴方と、どっちが醜いかしらね」
それまで飄々としていた男の顔から、感情が抜け落ちていく様を見るのは気分が良かった。
膨大な魔力を有する闇の魔導士を前にして、シモーネが強気でいられるのには理由があった。新種の魔獣同様、この2年間で改良重ね、より強力になった『媚薬』を取り出す。
「久しぶりに、大人になった貴方が乱れる姿を見たいわね」
皇国最強の魔導士を快楽地獄に堕とし、ふたたび奴隷として跪かせる、またとない機会が巡ってきた。
幼少期から変わらぬ加虐嗜好を持つ女は笑みを浮かべ、手にした小瓶を振ってみせた。
透明な瓶の中で、白い粉末と星形の花弁が揺れる。
「覚えているかしら」
醜く歪んだ笑みを浮かべる女。
「桃華蘭よ。残り少ないからジハーダ王のためにとっておきたかったんだけど、せっかく再会できたのだから、ここで使うのも一興よね」
笑える話しだ。
「その媚薬、ジハーダ王にはもう必要ない」
「……もう? おかしなことを云うのね」
「何も知らないアンタに、教えてあげるよ。ジハーダ王の悩みは2年前に解決済み」
「解決済み……ですって、バカな」
「本当だよ。オルガリアで開発した治療薬で、それはそれはもう劇的にね。国王夫妻の仲は良好で、王妃様は連日足腰立たなくなるまで愛されているらしい。だからもう、媚薬はもちろん、元子爵令嬢ご自慢の手技も必要ない。信じられない? でも実際、何度手紙を出しても、ジハーダ王から返事はなかっただろう?」
シモーネの目が驚きで、いよいよ見開かれていく。
「手紙のことを、どうして知っているのかって? 毎回、ジハーダ国王本人が報告してきたよ。さっきも云ったけど、ジハーダ王にはオルガリアの治療薬が必要で、そのせいかとても協力的なんだ。それでもまだ信じられないなら、はい、これ」
黒衣の男が投げて寄越したものを見て、シモーネは愕然となった。
「この
忌々しい赤髪の騎士の炎魔法によって台座が変形し、取り出せなくなった
「その
「なんですって! わたしの研究を消した?!」
シモーネの怒りは、ここで頂点に達した。
「許せない。わたしの研究が……わたしの夢が、あと少しで叶うはずだったのに!」
怒りのままシモーネは、小瓶を地面へと叩きつけた。白い粉末が飛散していく。空気中に高濃度の媚薬が漂い、ジオ・ゼアの元にも風が運んできた。媚薬を吸い込んだ魔獣たちは、すでに飢えた唸り声を上げはじめている。
「たくさん吸いなさい。そうね、お腹が空いたわね。さあ、あの男を喰いなさい!」
シモーネの声を合図に、魔獣たちが一斉にジオ・ゼアへと襲いかかった。森に潜んでいた数百頭の魔獣たちも次々と飛び出してくる。
襲いかかる魔獣の群れに押しつぶされ、姿の見えなくなったジオ・ゼア。狂気じみたシモーネの高笑いが響く。
「久しぶりの桃華蘭の媚薬はいかがかしら? あれからだいぶ改良したのよ。わたしは慣れているけど、久々の貴方にはキツいでしょうね。闇の特級魔導士も快楽には抗えない。魔獣たちから逃れることも不可能よ! 喘ぎ声をあげながらくたばりなさい!」
シモーネがいる辺り一帯が闇に包まれたのは、その直後。
何も見えない、音も聞こえない。風を感じることも、魔獣たちの匂いも、媚薬の香りもすべての感覚機能が遮断される。
何が起きたのか──
恐ろしい無の世界が広がり、恐怖に襲われたとき、闇は一転して消えた。
陽射しが戻り、音も聞こえる。肌を撫でるように吹く風も感じられたが、戻った視界の先でシモーネが見た光景は、凄惨だった。