トラキア国は、国境付近から広がる針葉樹の森と断崖絶壁の海に囲まれている。
森を背にした王城には城壁が築かれ、外敵の侵入を阻む城砦構造となっているが、群れとなった魔獣の襲来は想定していなかった。
驚くべき跳躍力を持つ四足型の魔獣や、壁を這う多足系の魔獣にとって、対人用に建築された高さ3メートルの城壁など、さほど障害にはならない。
城砦を突破され、魔獣の群れが城下町を襲えば、甚大な被害が及ぶのは、誰の目にもあきらかだった。
しかし今、大広間を襲った魔獣の群れは、
王城の上空で水を操る
これ以上は、絶対にダメ!
後先考えている暇はなかった。
次の瞬間、速度をあげる荷馬車から身を躍らせ「ジオ・ゼア! 前に乗せて!」併走する馬に飛び乗るべく、身を躍らせる。
「レ、レティシア嬢!」
「危ない!」
「おいっ! 嘘だろ!」
あまりに危険な行為に、ルーファスをはじめ荷馬車に乗る面々が一斉に手を伸ばしたが、だれよりも肝を冷やしたのはジオ・ゼアだった。
目の前に飛び込んできたレティシアを、無我夢中で掻き抱く。
「……お、お嬢さん、僕を殺す気? マジで心臓が止まりかけたんだけど」
それは、申し訳ない──と思いつつ、謝っている暇はなかった。
「皆さんは、このままサイラス殿下の元に向かってください!」
そうだ、忘れていた。
レティシアは懐から、薄紫色の液体が入った小瓶を取り出し、「これを、殿下に!」とマルスへと投げ渡す。
「うわッ!」
飛んできた小瓶を手の中で弾ませながら、なんとか受取ったマルス。
「これは?!」
「治験段階ですが、神経系の自然毒に効く解毒剤です。症状の緩和には役立つかと!」
「レティシア嬢! 貴女は来ないのか?!」
魔毒士であり
「最優先するのは、あの精霊の解毒です!」
馬に飛び乗ったレティシアは、上空にいる
「ジオ・ゼア、このまま飛んで!」
「えっ?! お嬢さんとふたりで?」
「ちがう、馬ごとよっ!」
「ええ~っ! それはちょっと骨が折れるなぁ」
面倒そうな声に、顔を後ろに逸らしたレティシアは、逆さまになった黒衣の魔導士を見つめる。
「できないなら降りてもいいのよ、特級魔導士さん。軽くなったら、わたしでもヤレそうだから。とにかく1秒でも早く
紫の瞳が挑戦的な光を帯びて、金の瞳を見上げたとき、闇の魔力が一気に膨れあがった。
「いいね、お嬢さんに睨まれるとゾクゾクする。じゃあ、そろそろ本気だしちゃおうかなぁ」
急激に身体が傾くのを感じ、レティシアは視線を前を戻した。
「…………」
何が起きているのかを理解したとき、後ろで手綱を引くジオ・ゼアの実力を改めて知ることになった。
ちょっと挑発しただけなのに……
『闇の聖印』を持つ、特級魔導士の本気は想像以上だった。
てっきり浮遊魔法で、王城のてっぺんにいる
浮遊魔法は対象が大きく、重量があるほど、ゆっくり上昇する魔法なので、人を乗せた馬ごととなると、どうしたって時間はかかってしまう。
しかし視線の先には、漆黒の階段が現れていた。そこをレティシアとジオ・ゼアを乗せた馬が、速度を落とすことなく一気に駆け上がっていく。
この方法ならばたしかに、最短距離で最短時間だ。でも、こんなやり方は誰も思いつかないだろう。
天にも届く勢いの階段を瞬時に形成、維持し、加えてこれだけの重量を支える並行魔法なんて規格外だ。
凄い──
しかし、
「お嬢さん、行くよ。しっかり掴まって」
またしてもジオ・ゼアが、規格外の魔法を使う。
「
もう何度、考えを改めさせられたらいいのか。
新たな魔法がジオ・ゼアから発動されたと思ったときには、軍馬に漆黒の翼が生えていた。
両翼を与えられた黒毛の
すぐさま上昇気流を捉えると旋回しながら、水流の壁を駆け上がりはじめた。
「あっ、いたね」
勢いをなくした水柱を飛び越えたとき、ジオ・ゼアとレティシアは、水面の上で横たわる
「降りてもいい?」
一刻も早くそばに行きたいレティシアに、
「ちょっと待ってよ。全部固めてしまうとあの精霊は死んでしまうから、あそこだけ凝固魔法をかけてと……はい、どうぞ」
水面に闇の魔力を流し込んだジオ・ゼア。
波打っていた水面が鏡のようになり、レティシアは足をつくことができた。