レティシアたち特務隊の一行が、ノースフォークの宿に到着したころ。
国王即位30周年を祝う式典に参加するため、トラキア入りした皇太子サイラス一行は貴賓室にて——
「いますぐ、帰りたい」
「無理ですね」
「あの王女のギラギラした目を見たか。舌なめずりが聞こえてきそうだった」
「もう観念して、身も心も食べられちゃってくださいよ」
「なんとかしろ―ッ!」
「相変わらず、ひとまかせな皇子だなぁ」
盛大なもてなしを受けたサイラスは、ちっとも落ち着かない華美な居室で、側近のルーファスに噛みついていた。
当初、皇太子妃候補の選定は2年間延期する予定だったが、ジハーダ王国とのアレコレを理由にして、さらに2年延期。皇太子妃候補の発表すらないまま、サイラスは20歳となっていた。
大陸で一、二を争う富裕国となったオルガリア皇国の皇太子妃の座を狙い、自国の貴族のみならず、他国の王女、令嬢たちは、あの手この手でサイラスに魔の手を伸ばしてくる。
深夜に寝所を突撃訪問されること数回、催淫術をかけられそうになること数回、身に覚えのない既成事実が偽装されること数回。
この1、2年でこれらが頻発し、サイラスはすっかり女性恐怖症ぎみになっていた。
「まったく。殿下があからさまに女性を遠ざけるものだから……」
ルーファスは溜息を吐く。
「僕と殿下がじつは禁断の関係……なんて男色話が、まことしやかにたてられるんですよ。何が悲しくて、どっちが受けだの、立ちだの、そんなことを耳にしなきゃいけないんですか。ちなみに僕、受けはイヤですよ」
「こっちだって嫌だ! ああ、もう想像させるな!」
「レティシア嬢の耳にも、しっかり届いてましたからねえ。受けは殿下——」
ルーファスの嫌味に耐えられない、とサイラスは耳を覆った。
「イヤだぁぁぁぁ!」
あまりに気持ちの悪い想像をしたサイラスは、気分転換をしようとバルコニーで、外の空気を吸いこんだ。
隣国トラキアに来て3日目だが、今日もドンヨリとした灰色の空が広がっていて、気分転換のつもりが気分はさらに下降していった。
会いたいな——
サイラスが恋焦がれる令嬢は今、ノースフォークの町で任務中だ。魔毒士と回復士を兼任する優秀な彼女は、遠征につぐ遠征に明け暮れている。
名門スペンサー家の侯爵令嬢でありながら、夜会や舞踏会に現れることはなく、いつも遠征用のローブに身を包んで任務へ赴いていく。
しかしサイラスの目には、華やかななドレスと宝石で着飾った王女や令嬢よりも、遥かに美しく気高く映っていた。
ときおり皇宮ですれ違うと、「お疲れですか?」と優しくサイラスの手を取り、惜しげもなく最上級の回復魔法をかけてくれる。
親愛と勘違いしそうになる尊敬の眼差しをサイラスに向けて、
「わたしでお役に立てることがあれば、いつでも云ってくださいね」
そんな言葉をかけてくれる初恋の令嬢を、諦められるはずがなかった。
それなのに——
数か月前の出来事が、サイラスの脳裏をよぎり、自然と目が潤みはじめる。
あの日、薬草茶を持って執務室を訪れたレティシアに、意を決してサイラスは話しを切り出した。
「じつは、皇太子妃候補の件で……」
皇太子妃という言葉を聞いたレティシアの反応は早かった。
「殿下——」
美しい紫の瞳に見つめられ、吸い込まれそうになっているサイラスに、彼女は真摯に云った。
「どうぞ、愛する方を皇太子妃にお迎えください。殿下の御立場はわかります。でも……わたしは、殿下の幸せを何より望んでいます。貴族たちの反発は相当かと思いますが、わたしは何があっても、殿下とルーファス卿の味方ですから」
「————ッ!!」
絶句するサイラスの手を両手で握りしめたレティシアは、
「わたしの父と母も結婚の際には、周囲から相当な反対を受けたと聞いています。でも、娘のわたしから見てもふたりはとても幸せそうで……身分差も性別も大差ありません! だから、どうか殿下も負けないでくださいね!」
そう力強く云って、完全に誤解したまま、颯爽と執務室から去って行った。
サイラスにとっては、9歳のときの『皇后陛下の御茶会』と同じくらい、苦い思い出となった出来事だ。
その夜、あまりのショックに、数年ぶりに高熱をだし寝込んだサイラスは、自分のとなりに花嫁姿のルーファスが立っているという悪夢にうなされた。
翌朝、熱は下がったものの、なかなか目覚めないサイラスを心配したルーファスや侍医、侍女たちが寝台に集まったとき。
「殿下、大丈夫ですか。起きられ——」
サイラスの肩を揺らしていたルーファスの手が、悪夢を振り払うようかのように目覚めたサイラスによって、激しく掴み取られた。
「……ちが、う。ちがう……僕にはキミが必要なんだ!」
夢現の中、サイラスはレティシアの手を掴んだつもりだった。しかし、実際に掴んでいたのはルーファスの手で、それはある意味、非常に情熱的な行為に見えた。
侍医と侍女たちは逃げるように寝所から出ていき、結局あらぬ誤解を上塗りする形になってしまう。