次々と割れていく温室ガラスの破片が、シモーネとロイズの頭上から降り注いでくる。
叫び声をあげたシモーネが、ガラスの雨を避けるようにその場から離れた次の瞬間だった。
炎の渦が巻き起こり、突如として火柱があがる。温室があった場所は、ロイズもろとも激しい炎に包まれてしまった。
「な、なんてこと!」
住み慣れた
猛烈な勢いで草花が燃え、黒い煙が空高く立ち昇っていく。激しい燃焼により、甘香はかき消されていた。媚薬のせいで動けずに取り残された男の生存は、もはや絶望的だろう。
しばし茫然と炎と黒煙を見つめていたシモーネだったが、あれだけ勢いの強かった炎の渦が、目の前でフッと、まるで蝋燭の灯を吹き消すかのように鎮火したことに目を疑った。
周囲には焦げ臭さが充満し、まだ視界は煙で遮られているが、炎の手は屋敷まで伸びなかったようだ。
なにかが、
煙が薄れていくなか、強烈な違和感に首を傾げたシモーネの前に現れたのは、ロイズを背負うようにしている赤髪の男だった。近衛騎士の隊服に、炎のような髪を持つ男の顔には見覚えがあった。
「まさか、トライデン家の──」
「お騒がしました」
シモーネを一瞥して、たったひとことでその場を立ち去ろうとする騎士を、さすがに呼び止めた。
「お待ちください!」
日当たりの良い裏庭に作られていた温室は、完全に消失して跡形もない。まるで温室だけを狙ったかのような燃え方に、シモーネはようやく違和感の正体に気が付いた。
これは、魔法だわ。
一瞬にして、これほどの火炎魔法を放てる特化魔法の使い手は──
「エディウス卿が……火を放ったのですか?」
「そうですが」
あっさりと認めた本人に、悪びれる様子は一切ない。
公爵家だからといって、なんて傲慢な態度……
社交界で数々の男たちを虜にしてきたシモーネだったが、この公爵家の子息だけは、苦手だった。
家柄に容姿、最年少で特務機関の魔剣士に合格した能力といい、非の打ちどころがないエディウス卿だったが、夜会や舞踏会に参加することは稀で、顔を見せたとしても顔馴染みの子息たちと言葉を交わす程度。
着飾った令嬢たちには見向きもせず、シモーネもそのひとりだった。
高位貴族に謝礼を払ってまで仲介役を頼んだというのに、
「スフォネ子爵家? 知り合う必要性を感じないな」
そのひとことで終わってしまったのだ。
自身の美貌に絶対の自信があったシモーネにとって、あれほど屈辱的なことはなく、当時の苦い記憶が蘇る。
本当に、腹が立つ男だわ。
跡形もなくなった温室には、まだ貴重な媚薬が残っていたというのに……
シモーネは怒りをグッと堪え、傲慢な男を見上げた。
「当家の屋敷に、なぜ、このようなことをなされたのか、その理由をお聞かせください」
「理由?」
ゾッとするような冷たい眼差しに、思わず
「どうか勘違いをなさらないで。公爵家の御子息であるエディウス卿が自ら動かれているのですから、何かよほどのことが起きているのではないかと思いまして」
ロイズを背中に乗せたまま、エディウスはいかにも面倒そうな顔で近づいてきた。
「牢を脱走した凶悪犯が、この近くに逃げ込んだそうです」
「な、そんなバカな。ここは貴族の
「社交シーズンが終わった今、ほとんどの貴族が領地に帰り、周囲には人が少ない。脱獄犯が逃げ込むには絶好の場所です」
もっともな云い分に、さすがのシモーネもすぐには返答できなかった。
しかし、だからといって、いきなり乗り込んできて火焔魔法を放つなんて暴挙は、到底容認できるものではない。
わたしのお気に入りの温室を焼失させたこの男を、いつか跪かせてやる──内心ではそう思いつつも、子爵令嬢という立場ではこれ以上、公爵家の子息を相手に反論するのは分が悪かった。
「エディウス卿、どうか、これは貴方様を思っての進言だとお受け取りください」
『進言』である強調しつつ、シモーネは苦言を呈した。
「理由はどうあれ、貴族の私邸に踏み込むのであれば、まずは当家の執事なりに、事情をご説明いただいてからでも良かったのでは? 職務とはいえ、いきなり火焔魔法を放つような、このようなやり方では多くの貴族から反発を買う恐れが……」
しかし──
「反発を買うことに、何か問題でも?」
シモーネの言葉を遮った火焔の騎士が、これでもかと高圧的な態度で見下ろしてくる。
「わたしは現在、皇国に仕える騎士です。貴族に仕えているわけではありません。よって、気遣いも進言も無用です。火焔魔法を行使した理由は、逃亡犯を追跡中、こちらの屋敷からガラスの割れる音がしたので、緊急事態だと判断して突入しただけのこと。ああ、屋敷の修繕費についてなら、皇宮の騎士団に請求していただいてかまいませんよ」
「そんな……」
エディウスの態度は、一切の反論を許さないものだった。